4.
襲いかかるアベトスたちを斬り伏せ、アルドは詰めていた息を小さく吐いた。剣は抜刀したままだ。まだ、周囲に気配が残っているような気がした。アベトスの雄叫びが、もしかしたら彼らの同胞を引き寄せたのかもしれない。険しい表情と緊張を崩さず、アルドはアルブスたちへと目を向けた。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……助かった。ありがとう」
アルブスが礼を述べつつ、ゆっくりとアルドへと近付く。その後ろにぴったりとノワールは寄り添っている。アルドと目が合うと、一瞬会釈らしき動作をしたものの気まずそうに下を向いてしまう。顔を見られるのが嫌なんだ――アルブスが言っていたことをアルドは思い出し、あまり視線を向けない方がいいだろう、とアルブスの方へ意識して視線を移した。
「無事で良かった。けど、ここも危ないかもしれない」
「……そうですね。人の目からは隠れられても、魔物には気配を知られてしまうようです」
「魔物のこともあるけど――」
魔獣が出るかもしれないんだ。そうアルドが言いかけた時だった。
「アルドさん! よかった、ここにいたんですね……!」
少女の声にアルドは驚いて振り返った。酷く慌てたような、焦ったような表情がアルドの顔を見て安堵の様相に変わった。しかしアルドの方は安堵に胸をなで下ろしている場合ではなくなった。
「危ない!」
「えっ……?」
少女の小さな体を影が覆った。その背後に、アベトスの巨体が立っていた。先ほどのアベトスたちに呼び寄せられたのだろう。鼻息は荒く、目にはありありと人間に対する敵意が表れていた。その無分別な敵意は、自分や同胞を害する力の無い目の前の少女に、いままさに向けられていた。とっさにアルドが駆け出すのと、その棍棒が振り上げられるのがほぼ同時だった。自分が少女の身代わりに一撃を食らうことを覚悟し、アルドは剣を持つ腕を頭上に構えた。
――だが、予期した衝撃はいつまで経ってもアルドや、少女を襲うことはなかった。
「ガ……アッ……」
棍棒を振り上げたままのアベトスが、驚愕に瞠目する。その首は先ほどとは違う角度に折れ曲がっていた。敵意と怒りに満ちていた目は、いまや虚ろに宙を見ている。背後からの一撃で、首をへし折られたのだ――アルドは愕然とした。その力量であったり、援軍が唐突に現れたことにではない。
ゆっくりと、前のめりに倒れたアベトスの後ろに立っていた、その姿にアルドは驚いたのだ。
――そこにいたのは、一人の魔獣の女だった。
「なっ……魔獣?」
アルブスもまた驚きに満ちた声を上げていた。その声に、アルドは我に返る。経緯はどうあれ、いま目の前にいるのは魔獣なのだ――剣を構え直して警戒する動作は、もはや本能に近い、経験から叩き込まれた動作だった。一も二も無く切り捨てようと思ったわけではない。だが、
「止めて!」
その動きに、少女が悲鳴じみた声を上げた。そしてアルドの前へ、魔獣の女に背を向けて立ちはだかった。
「違うんです! この人は敵じゃなくて……私の友だちなんです!」
「何だって……!?」
アルドは魔獣から少女へと視線を移した。少女の顔は真剣そのもので嘘を言っているようには見えない。いや、そもそもこんな状況で、危険を冒してまで嘘を言う必要は無いだろう。少女にとって背後に控える魔獣の女は間違いなく友人なのだ。
――しかし、それを認めてアルドが剣を収めるよりも先に、魔獣の女はさっと身を翻すと、暗い森の中へと走り去ってしまった。「待って!」と叫ぶ少女の声は、森の静寂の中に虚ろに溶けて消えていく。魔獣が去った後には、ただ静かな、木陰の暗闇だけが広がっていた。
「……いまの魔獣は……」
重い沈黙に支配された場で、最初に口を開いたのはノワールだった。怯えたように兄の陰に隠れているのは相変わらずだったが、そこから少し身を乗り出して、魔獣が消えた木立の方へ、視線をじっと向けていた。
「魔獣と人間が、友だち? 本当に……?」
「……本当です。あの人はわたしにとって、大切な友だちなんです」
ノワールは少女の方を見た。その目には、魔獣と交流を持った人間への糾弾は無く、興味のようなものだけが現れていた。ノワールを見た少女も、その様子に気付いたようだった。意を決した様子で、事の次第を語り始めた。
「あのひとは元々、人間と戦争なんかしたくなかったんです。人の文化……特に、人の作る詩に興味があるって言ってました」
「詩に興味が……もしや『アルブス』に君が会いに来たのは……」
アルブスの言葉に、少女は頷いた。
「もし、万が一にも魔獣と会っていたことが知られれば、アルブス様に迷惑がかかるから、一目見たくても会えなかった。バレないように変装して、陰に隠れながら、ひっそりとあなたの詩を遠くから聞くことしかできなかったんです。けれどある日、詩を聞く内に自分でも詩を作りたくなった……でも、どうやって詩を作ればいいか分からないって、毎日のように悩むようになったんです」
「詩が、作れない?」
ノワールは首を傾げる。アルドにとっても少し不思議なことだった。確かにノワールの作る詩は優れているのかもしれない。ただ、優れた詩が作れない、ではなくそもそも詩の作り方が分からない、というのが不思議だった。
「……詩って、そんなに作るのが難しいのか? あ、いや、確かにオレが誰かに作れって言われると難しいけど……しょっちゅうアルブスの詩を聞いてたのに、それでも無理だったのか……?」
「……生き方が違いすぎるんだ、って。人間のように詩を作る魔獣は珍しいんだそうです。人間が作る詩のように美しく飾ることはできない、魔獣はただあるがままを語ることしかできないんだって言っていました」
「……そう。そうだったのね」
少女の言葉に、ノワールはそう呟くと、兄の陰からそっと身を離した。彼女の邪魔にならないようアルドがそっと道を譲ると、ノワールは真っ直ぐ少女の前へと向かった。そして懐から何かを取り出し、少女へと差し出した。
「これは……」
少女は軽く目を見張ってそれを見た。ノワールが差しだしたのは、一冊の手帳だった。空を模したような、白と青が入り乱れた色合いの表紙をした手帳は、使われた形跡が見られない、新品同然の代物だった。
「これを……あの方に渡してあげて。そして、伝えてあげてほしいの。詩は、それを紡ぐ人の鏡でしかないって」
「詩が鏡……ですか?」
「紡ぎ手が見るものを詩は映し出してくれる……もし私の詩が美しく飾られていたのなら、それは言葉を知っているだとか、表現が優れているという以前に……私の目から見たものが美しかったというだけ。……美しいものがあるって、そう知らせたくて私は詩を紡いでいるの。韻律は詩を形にしやすくするだけのものでしかないわ。クッキーを焼くときに使う、型抜きのようなものよ」
ノワールの言うことを聞いて、アルドはふと、ノワールを初めて見たときに聞いた詩を思い出していた。
『変わらぬ形 遷ろう詩――愛しい偽りの姿 その影と共に寄り添おう』
『光と影 一人と一人 重なり合って――』
それを聞いた時は、意味深長な、不思議な言葉の羅列のように聞こえた。――聞く者によっては色恋の詩のようにも聞こえただろうが、少なくともアルドには何かを暗喩させているということしか分からない詩だった。だが、もしあれがノワールの見たものをそのまま反映させた詩だったのだとしたら。
(あの詩は、ノワールから見たアルブスの詩だったのかもしれないな……)
愛しい偽り、光と影。自分を護るために表立ってくれたアルブスは、ノワールにとっては光であり、美しいものだったのだろう。
「詩は思っていることを、そのまま紡ぐものなの。自分の見ているものを、自分の言葉で描くこと……飾り立てる必要なんて、無いの」
「でも……それでも、アルブス様……いえ、ノワールさんみたいな詩を書きたいって思ったら、その時はどうすればいいんでしょう?」
ノワールは静かに首を横に振り、そしてはっきりと「分からない」と言った。
「私にとって、詩は思ったことをそのまま紡ぎ出しているだけ。こういうものを作って聞かせたい、そんな気持ちがあったわけじゃない……人とお話しするように、ただ感じたことを、誰かと分かち合いたかった。だから、私には、あなたのお友だちの気持ちは分からないのかもしれない」
けど、とノワールは言葉を繋ぐ。その声に、少女はうつむきかけた顔を上げた。
「私も一度だけ、どうやって詩を紡げば良いのか分からなくなったときがあったの。その時の私は、世界の何もかもが醜くて、綺麗なものが一切無いような気分だった……けれど、その時にいた世界から少し離れたら……私の心にはまた美しいものが満ち溢れたの」
「世界から、離れる……」
「詩が心の鏡なら、美しい詩を書くには、美しい世界が必要になるのでしょう。だからこそあなたのお友だちには、この手帳いっぱいにいまの想いを、見ているものをそのまま綴ってほしい。そして、手帳いっぱいに連なる言葉が、思い描いた詩にならなかった時は……いままでと違うもの、新しい世界を、あなたが見せてあげて」
「私が……新しい世界を、見せる?」
少女は尋ね返したが、誰からも答えをもらわずとも、それが自分にとって大切なことだと気付いたようだった。唇を引き結ぶと、ノワールの手から手帳を受け取った。それを見届けると、アルドは少女に声をかけた。
「よかったな、詩の作り方を教えてもらえて」
「はい!」
「後はそれを伝えるだけだ。探しに行こう、友だちを」
少女は再び、力強く「はい!」と答え、アルブスの側に戻ったノワールへと向き直り、深々と一礼をした。そしてアルドへと向き直り、視線だけで頷いた。真っ直ぐな視線にもはや迷いはない。アルドは先に立って走り出した。今度は少女と共に。彼女の友を探すために。
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