私は運命という言葉で逃げない。

九津 十

私は運命という言葉で逃げない。

目が覚めると、白い天井があった。


いつも通りの朝、起き上がろうとすると身体がいうことをきかない。

軋む身体。何か管の様なものが私の鼻に入っている。


ぼぅっとする頭。少しだけ痛い気もする。


白い服を着た女性が私の顔を覗き込む。私の顔に変なものでも付いているのか、驚いた表情で走って行った。


多分、ここは病院。何故自分がここにいるのか、思い出す。

バイト先に向かう途中から思い出せない。私は無断欠勤してしまったのだろうか。


医者であろう人が部屋に入って来た。何か言っているが強い眠気のせいか、言葉は1つも聞き取れない。

すぐに母も入って来た。母の目に浮かぶ涙とこの身体の痛みがことの重大さを教えてくれた。


自分の余命はあと60年もあるだなんて鷹を括っていた。

明日、何が起きるかわからないのに、何を言っていたんだ。

これも運命だとでも言うのだろうか。


否、私は運命という言葉で逃げない。



私の世界から音が消えた。


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大学生1年生の冬、友達の勧めでバイクの免許を取った。

ガールズバーのバイトで買った中古の原付。

バイトに明け暮れて、私は一体何をしていたのだろうか。


時給は高い方ではあったが、楽しくはなかった。


不思議と30代くらいの男性に気に入られやすく、サラリーマンの人の愚痴を聞くことが多かった。外に出てビラを配っていると若い男性にジロジロ見られることもあった。


正直、気持ち悪かった。

それらの何が私の人生を豊かにしたのだろうか。


これも運命、とでも言いたいのだろうか。


運命なんて都合の良い言葉だ。そうやって人は何の努力もせずに、全てを受け容れ正当化する。弱い人間のすること。行動しない人間の逃げ道の言葉。


自分自身を叱責している最中、連絡が来た。大学の友人の彩からだった。

体調を気遣う言葉の後に喫茶店への誘いがあった。


そういえば退院してから家の外に出ていない。

せっかくの誘いを無下にしたくない。

すぐに着替え、軽く化粧をし、家を出た。



駅前の喫茶店へと足を運ぶ。

相も変わらぬ街並み。私の心情を嘲笑うような平凡な喧騒。


お店に入ってすぐの席で待っていてくれた彩は、私に気付くと手を振ってくれた。何かを言っているが、今の私には聞こえない。

私は手を振り返し、その席へと向かう。


彩が何か話し始めた。

状況を伝えるため、すぐにスマートフォンを取り出す。

事情を話すなら早い方が良い。メッセージを送る。


『耳が聞こえなくなった』


彼女は目を丸くした。すると間、髪を入れず、口を動かし始めた。

そしてすぐに自分の行動の意味の薄さに気付き、口を閉ざす。


初めて家族以外の人に打ち明けた。正直怖かった。

どんな反応をするのか、全く見当が付かなかった。


彩はアイスコーヒーを1口飲んだ。ストローが変形している。かじり癖は抜けていないようだ。また何かを話し始めたが中断し、スマートフォンを触る。メッセージが届いた。


『体調は良いの?』


気遣ってくれている。感謝の気持ちを伝えたい。

聞こえはしないが、声なら出せる。感謝の気持ちを思い切って声に出してみる。


「ありがとう」


隣の男性2人がこちらを見てきた。自分の声が大きかったのだろうか。

自分の声すらほとんど聞こえない。すると目の前の彩からメッセージが届いた。

なんだか不思議な感じだ。まわりからはどう見えているのだろうか。


『大学の子たち、みんな心配してるよ』


私は少し小さめの声を心掛け、話した。


「連絡してみる」


彩は何かを話しながら、スマホを操作している。

少し待っていたがなかなか終わらない。長文のようだ。


彼女は私たちの中でリーダーのようなポジションだった。

社交性があり、先輩にも知り合いが多い。

色素の薄い肌、くっきりとした二重。

その美しい容姿を眺めていると、眉間にしわが寄った。

前髪がその隙間に少し入る。


小さな溜め息が視えた。何か呟いているようにも見えた。

そして思ったよりも短いメッセージが私に届いた。


『また連絡する』


上品に微笑む彼女に私も返信する。


『ありがとう。』


きっと彼女の口は「めんどくさい」と言っていた。

聞こえないけど、それは聞こえた。



耳のこれがあったって、なんの意味もない。



私は、話すことを辞めた。



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久しぶりに大学に来た気がする。


水が出ているところを見たことがない噴水。

ドミノ倒しになっている駐輪場。


わかってはいたが、ここも何も変わってはいない。

変わってしまったのは私だけ。胸が痛い。


校舎に入ってすぐ、学内掲示板が目に入る。

未だにサークル紹介の張り紙が多くある。

文字を読むことが楽しみになっていた私はそこで暇を潰すことにした。


思い返すと、部活やサークルに入ろうなんて考えたこともなかった。

高校時代は進学校だったが故に規則が厳しく、アルバイトが禁止されていた。

その反動か、大学に入った翌々週にはバイトの面接を受け、すぐにお小遣いを稼ぐ日々が始まった。


掲示板の右端から順に見てみる。

活動風景を載せた写真や、色鮮やかなイラストが目を引く。


1番大きいテニスサークル、今の自分にとってスポーツは乗り気じゃない。

女子が多い吹奏楽、きっと今の私には何もできない。


研究会のようなものでもいい。なにか視覚的に楽しめるもの。

30枚以上ある広告の中、地味なデザインに目が留まる。


手話サークル「つばき」


おあつらえ向きだな、と思った。

その中には自分のように聞こえない人はいるのだろうか。

傷を舐め合うのは大嫌いだが、同じ苦しみを持つ人がいるかもしれない。


活動日は毎週水曜日の18:30から。


丁度、今やっている時間。

運命...という言葉は使いたくない。

そんな弱い人間の言葉、絶対に使いたくない。


場所はRoom304。C棟の1階。奥から2つ目の部屋。


行ってみて合わなそうなら辞めればいい。

そんな軽い気持ちでその場所へ向かう。


薄暗い廊下を歩く。空調が効いてないのか、少し寒い。

部屋の扉は開放されており、中の様子が伺える。

たまたま通り掛かった人。そんなくだらない演出をし、中を除く。


メガネを掛けた男性が見える。

両手を色々なかたちへと動かしている。何か話しているようにも見える。

オーバーリアクションな程に表情も七変化している。笑っている。


楽しそうだった。羨ましいとさえ、思ってしまった。


そして悩んだ。ここまで来て。


人生が少しだけ好転するのではないか、という淡い期待を持ってしまった。

人の背中を押し続けてきたくせに、自分事となると足踏みをする。

私も意志の弱い人間の一人だということを痛感する。


視線を戻すと、先程の男性がこちらに気付き近付いて来る。

笑顔で歩いて来る彼は、思ったより身長が高かったが威圧感はなかった。

黒縁の眼鏡をかけている。何か言っているが、わからない。


「あの...」


言い掛けて、引っ込めた。

健聴者と勘違いされたくないと言うより、自分が聴こえない人間であることを打ち明けるのが怖かった。


そんなソワソワしている私を見て、彼は笑った。

はにかむ細い目の下の泣き黒子が印象的だった。


彼は大きなボディランゲージで空席を示した。

その好意を素直に受け止め、会釈をしながら恐る恐る入室する。


案内された席に座り、まわりを見渡す。

他に男性が1人、女性が4人。想像より女性が多くて安心した。


先程の彼がホワイトボードに何か書き始めた。


『ようこそ!』


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手話を勉強していた。


手話サークルでは健聴者とそうではない人の比率は7:3だった。

1年生は私だけだったが、みんな驚くほどに明るく接してくれた。こんなにも表情豊かに話す人がいるだろうか。

私と話す時だけホワイトボードを書いてもらうのも申し訳なく、手話を猛勉強している。


手話には大きく分けて2種類ある。

何かの名称や行動を表す一般的な手話と、50音を表す指文字。

コミュニケーションのおいては前者の手話の方が実用的だが、手話がわからない時は指文字を覚えておけば、なんとかなる。


面白いのは表情や口の動きも重要というところ。

例えば、うちわで仰ぐような手話では「うちわ」以外にも「夏」「暑い」「南」などの意味がある。如何にも暑そうな表情をすると「暑い」。名前が「南」の場合は口パクでも「みなみ」と言った後、小指を立てると南さん(女性)となる。


私が初めて覚えた手話は「ありがとう」だった。

左手の手の甲に右手をチョップして付ける。そして右手をそのまま上げるだけ。


初めて手話サークルで「ありがとう」が伝わった時、嬉しかった。

感動に近い感覚だった。誰かとコミュニケーションをとれることがこんなにも楽しいことだとは思わなかった。

英語を勉強して、初めて言葉が通じた時もこんな感じなんだろうか。


親切にしてくれたあの時のメガネの彼の名は「真央」というらしい。

女の子みたいな名前。色白で華奢な彼らしい名前。


彼も同じ文系で学年は1つ上の2年生、健聴者だった。

塞ぎ込んでしまっていた私にとても親切にしてくれた。

まだ上級者の手話は早くて読み取れないが、私の歩調に合わせて丁寧に教えてくれた。


いつしか手話サークルがある水曜日が楽しみになっていた。

みんなと話したい。元気をもらえる。


皮肉なことに事故に遭わなければ、手話を始めることはなかっただろう。


それでも運命をという言葉は使いたくない。

これは運命ではなく、自分が選んだ道なのだから。


それでも少しだけ、聞こえなくなって良かったかもしれない。

そう思い始めている自分もいた。



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今日は彼と一緒に映画を観に行く。


流行のアニメーション映画。聴こえない人向けの字幕放映もおこなっているらしい。楽しめるのかわからないが、彼は何事も挑戦していく精神が強く、積極的に私を誘ってくれる。色白でヒョロっとしてる割に、頼り甲斐があり心強かった。


新宿駅の東口、階段を登って右手。

時間にはまだ10分ほどの余裕があったが、待ち合わせ場所には既に彼の姿があった。スマートフォンの画面を凝視している。彼の大好きなゲームでもやっているんだろうか。


ソロソロと近付く。どうやらSNSを見ているようだった。

声を出すことはできないので、横から肩をたたいてみる。


すると彼は驚きのあまり、スマートフォンを落としてしまった。

こんなにも驚くとは思ってなかった。申し訳ない。謝罪する。


スマートフォンを拾うと、彼はいつものように優しく微笑んだ。

笑うと糸のように細くなる目。左目の下の泣き黒子。


彼は不機嫌な顔をしながら手の甲をアゴに付けた。

これは「待った」という意味のはず。

待ち合わせ時間より早く付いたので、それを言われる筋合いはない。

すかさず反論する。


『まだ、時間、すぎて、ない』


私の手話を見た後、彼は笑って人差し指で頬を2回突く。

これは「ウソ」という意味だ。彼は冗談が好きだ。

話が進まなくなる時もあるが、手話の勉強になるので嫌いではない。


彼は映画館の方向に指さし、歩き出した。

新宿3丁目の方にある目的地まで一緒に向かう。



歩きながら ふと、友達のことを思い出す。



聞こえなくなって離れていってしまった人もいた。


いや、なんとなく疎遠になってしまっただけかもしれない。

いや、最初から友達ではなかったのかもしれない。


そういう運命だった。そんな言葉で割り切るしかないのだろうか。

否、自分で選んだ結果。目を背けてはいけない。


本当に大切にすべき人は、自分がどん底にいる時にも寄り添ってくれる人。

そんな言葉を聞いたことがある。


みんな、優しい人だった。

ただ私は自分から助けを求めたり、何かをお願いすることが苦手だっただけ。

変わってしまったのはきっと私の方で、みんな今も変わらず優しい人で。


しん、とした世界だと、物思いに耽ってしまうことが多い。


それでも悩んだって何も始まらない。他人に期待するのは辞めよう。

自分で決めて行こう。運命という言葉で逃げない。そう決めたはず。


はっ、と我に返る。映画館に到着していた。

彼を見ると「どうしたの?」と言わんばかりに微笑んでいる。


2Fがシアターとなっているので、エスカレーターを上がる。

発券機でチケットを出した後、売店のブースに向かう。


彼がこちらに身体を向ける。


『飲み物、何、したい?』


ジンジャーエール。そう言いたい。しかし手話がわからない。

生姜...一体どう表現すればいいものか。全く見当もつかない。

とりあえず指文字で伝えることにした。


『じ、ん、じ、ゃ、ー、え、ー、る』


一音一音を表現するこの手法は手間だ。

彼はその一音一音に深い相槌を打ってくれた。


笑いながら手話を返してくれた。


『オッケー! その、手話、表現は、』


彼は唐突にお参りのポーズを取った。

そして応援団のように旗を振り出した。


思わず笑ってしまった。そうゆうことか。神社とエールなんだ。

それよりも彼の必死の形相に笑ってしまった。

まるで俳優のような渾身の演技だった。

こんなもに笑えたのはいつ振りだろうか。


大笑いする私を見て、彼は少し不機嫌そうに笑う。

そしてまたいつものように微笑み、売店の方に歩いて行った。



私は「運命」という言葉に対して言葉狩りをしてるだけで、

その言葉の意味を実感しているのかもしれない。

それでも、使いたくはない。

しかし、それ以外に適切な言葉があるのだろうか。



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映画は面白かった。


洋画の字幕を観ることと大差はないように感じた。

キレイな映像、迫力のある描写。純粋に楽しめた。


そして今、喫茶店で映画の感想を手話で語り合っている。

以前の自分には想像もできなかった。


彼は目の前で私の拙い手話をにこやかに見ていてくれる。

時折、指文字も使いながら。私のペースで。


伝えたい言葉が溢れて来るのに、なかなか表現できない。

そんなもどかしさを吹き飛ばすように、彼は微笑んでいる。


幸せを感じていた。心が開いていく感じがした。

彼がいなければ、私はこうやって誰かとコミュニケーションを取ることもなかったのかもしれない。


あっという間に1時間近くが過ぎ、時計は16時を回っていた。


そろそろ出ようかというタイミングで、

彼は黒いリュックサックから白い紙袋を取り出し、私の前に置いた。


彼は取り出すこと促す手話を見せた。

なんだろう。お菓子かなにかだろうか。


紙袋を持ってみる。やけに軽い。小さなものが入っているようだ。

テープで封はされていない。折り目から中身を取りだす。


お守り。


中にはお守りが入っていた。健康祈願の文字が書いてある。

このご時世にノスタルジックで風情があるのか、ないのか。

彼の手が動き出す。


『前、神社、行った、時、買った』


さっき覚えた手話、神社。

以前に私が事故に遭ったことは話していた。

だから、私の健康を祈って買って来てくれたのか。


『ありがとう』


私が最初に覚えた手話で感謝の気持ちを伝える。

無宗教の私にとって、お守りは価値のないもの。

それでも、私の健康を願い、わざわざ足を運んで買って来てくれたことが嬉しかった。こうやって想ってくれている人がいること、大切にしなくてはいけない。


そう噛み締めると、涙が出てしまった。


その時、自分の人生に光が射したような気がした。

聞こえないなりに人生を謳歌し始めている自分が、確かにいた。



私は運命という言葉で逃げない。

でもこれは逃げているわけじゃない。

そう、これは宿命。命が宿ると書いて宿命。素敵な言葉だ。



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久しぶりの池袋、東口。


前のバイト先や大学は池袋の西口方面にあるが、東口は久しく来てなかった。

買い物のため、一人で気楽に出歩く。


土曜日ということもあって、人が多い。

横断歩道で信号待ちをしている人がたくさんいる。


青信号に変わると同時に、皆一斉に歩き出す。

私もその中の一人、少しだけ早歩きで歩き出す。


大通りから向かうより脇道が空いている。

そこを通り抜けて、高架下を過ぎればショッピングモールがある。


気付けば11月も終わり。とっくに冬は始まっている。

風が冷たい。マフラーを忘れてしまった首元が寒い。


駅から10分程歩いただろうか、目的地に到着した。


今日はグレーのコートが少し欲しいくらいで、特になにかを買う明確な予定はない。良く言えばウィンドウショッピング、悪く言えば冷やかしか。


私も女子大生だ。人並にオシャレは楽しみたい。

今までバイト代をバイクや携帯代、日々の食費のために使ってしまったが、これからは楽しく過ごしていくために使おう。


それにしてもバイクか。なんであんなもの買ってしまったのだろうか。

当時は後悔の念が大きかったが、今ではそこまで気にしていない。


ふと我に返る。歩きながら考え込んでしまう癖は抜けない。


若者向けと思われるアパレルショップを5~6店舗まわってみる。

時間はたっぷりある。ゆっくり見て楽しむ。


何かを集中して見ることに長けてきたような気がする。

以前は割と直感で買っていたが、今では細かい点も気にしている。


90分ほど歩き回った。

お目当てのグレーのコートはあったが、ディティールが好みではなかった。

1着、ビビっと来るものがあったが値札を見て諦めた。

そのお店は私みたいな女子大生がターゲットではないのだろう。


特に今すぐに欲しいわけでもない。

軽くご飯を食べて帰ろうと踵を返す。


出口へのエスカレーターへ向かう途中、見覚えのある顔が見えた。

ゲームグッズを売っているお店から出て来る、彼が目に入った。


偶然だった。


学校は近いと言えど、まさか休日に遭遇するとは思わなかった。

運命ではない。そう、これは偶然。たまたま。


彼も私に気付くと、驚いた表情をしながらこちらに向かってきた。

いつもの黒縁メガネ、華奢な体格、色の白い肌。



運命なんてロマンティックな言葉は嫌いだ。

そんな乙女でセンチメンタルな言葉、嫌いだ。

それでも緩む表情は止められなかった。



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交際を始めて、数週間が経った。


彼からの連絡は少ないが、その少ない連絡が来るのが楽しみだった。

メッセージのやり取りは聞こえなくても全く関係がない。

送られてくる文字のありがたみも日に日に強くなっていった。

送る1文1文を大切にするようになった。


そんなことを考えながら一人、部屋でテスト勉強をしている。

その最中スマートフォンが振動した。


彼からのメッセージだろうか。期待が込み上げてくる。


しかしその期待は尽く破壊された。

送信者は1Fにいる母からだった。


『ちょっと降りて来てくれる?』


私を呼び出す時は主にメッセージを利用してくれている。

特に何も考えず、部屋を出た。


階段を下ると、玄関にアイボリーのコートを来た男性が2人。


通院している大学病院の人か、それとも私の大学の偉い人か。

心当たりはないが、そんな風貌の人だった。


30代に見える男性はクシャっと笑い、こちらに会釈した後、コートのポケットからメモ帳を取り出した。それをこちらに見えるように回転させる。


あらかじめ書いてきたのだろう。

そこには書き殴ったような字が書いてある。


「田中真央という男性を知っていますか?」


知っている。他でもない彼の名前だ。

どうして彼の名前が? それを何故 私に?

頭が混乱し、首を縦にも横にも振らない私。


メモ帳がぱらりと次のページへと進む。

「あなたの交通事故の引き逃げの件です」


何を言っているのか良くわからなかった。

文字の意味は理解できたが、状況はまるで掴めない。

心臓が高鳴る。動揺を隠せない。


コートの男性は少し微笑んだ後、メモを捲った。

「また来ますね」


母に何か言い残し、2人は去って行った。

もうそこには誰もいないのに、母は深々とお辞儀をしていた。


急いで自室へと戻る。

心臓が痛い。鼓動が伝わって来る。


部屋に戻ると、ドアを強く閉めた。

とにかく今は1人になりたかった。


頭の整理が付かない。思考がまとまらない。気持ちを落ち着かせたい。

リュックに付けていた彼から貰ったお守りを強く握りしめる。


そこで気付いた。硬い感触がする。


中には何が入っているのだろうか。


迷った。開封するなんて罰当たりな行為だ。

彼を信じる心も疑いたくない。


それでもこの状況を打破したかった。

居ても立っても居られない。心音が強い。


私は結び目を解くことを決めた。

お守りのヒモに手を伸ばす。


しかし、とても固い。異常と思えるほどに固い。

罰当たりかもしれないが、ハサミで切り落とす。


中から出てきたのは神社の模様が印刷されているプラスティック製の箱。

一般的なお守りの中身はどんなものが入ってるのかわかないので比較のしようがないが、この中にご利益のある砂やおが屑でも詰まっているのだろうか。


箱の繋ぎ目は接着されている。

乗り掛かった船、開封を試みるもののハサミが通らない。


力任せにハサミの柄で、思いっきり叩く。

ハサミは宙を舞ったが行方を追っている暇などなかった。


へこんだ箱に視線を落とす。

その割れ目から、強引にこじ開ける。


中には、見慣れぬ黒い機械のようなものがあった。






私は運命という言葉で逃げない。

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私は運命という言葉で逃げない。 九津 十 @kokonotsu10

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