六羽 駄文
私にとって安希は、暇つぶしに付き合ってくれる子くらいの印象しかなかった。
どことなく感じるぎこちなさとか、ああいうことに対しての経験値の少なさとか、諸々を含めた危うさに何となく惹かれて、もっと見ていたいと思うようになってからすこしずつその印象も変わって、変わって、変わって。
今私が彼女に抱いている気持ちはよくわからないものになっていた。本なんてろくに読まないし授業も数えるくらいしか出席していないし、この気持ちを表す言葉を私はまだ知らない。
「七瀬」
呼ぶ声が聞こえた。
放課後になって人混みがまばらになった中庭では彼女の小さい声もよく聞こえる。
背骨につきそうなくらいに伸ばした黒髪は握ったら折れてしまいそうなくらいに細い体を覆っているようで、触れてはいけないと言われているような感覚に陥る。自衛であるのか知らずにそう育てられてきたのか、生い立ちが容姿にそのまま映し出されているように見える。
ベンチに座ると思いきや、手を引かれて突然のことに身体が拒んでしまう。
「ちょ、なになにどうし……」
「ここじゃ嫌だからちょっと来て」
最近は少し積極的になってきた彼女だったけれどここまで私を引っ張ることは初めてで、胸の奥が騒がしい。私が居なければいけないことなんだろうか。ひとりではやれないことなんだろうか。私とでなければ、いけないのだろうか。
安希が私に何を求めているのかはわからない。そもそも求めているのか、見出そうとしているのか、わからない。
校門を出て少しあるくと石階段を上がった。安希が初めて私と出会ったと思っている場所で、私にとっては見飽きたいつもの、なんら特別感もない神社だった。傍に置かれたベンチに座った彼女はようやく手を放してくれた。
「一昨日ね、すっごく怒られたの」
「誰に?」
「親」
親、という言葉を発した時には少し、憎しみが込められているような気がした。諸々のことがバレたんだろう。私の家だったら何も言われないだろうけど彼女の家は特別で、それだけのことでも大問題なんだと思う。それだけのこと。されどそれだけのこと。
禁止されていることならしなければ良い。たかが買い食いしたって、放課後にふらりと出かけたって、所詮それだけのこと。怒られてまでしなければいけないことでもないだろう。
鞄に手を入れて取り出したソレを私は、見たことがなかった。白いプラスチックの長方形で、その中間には見ただけで少し背筋が伸びてしまいそうなくらいに尖った銀色の針がついていた。
「もう嫌になっちゃった。私だけこれだけのことで怒られて、何もさせてくれなくて、しろといわれたことだけをする毎日なんて」
何も言えない。今ここで私が何かを言ったとて、それは事情を知らず隣の芝から無責任に声を掛けているだけだから。共感したつもりでいても理解なんて輪郭を少しなぞったくらいしかできていないだろうし、それはあの針よりも鋭く彼女の心に突き刺してしまいそうだったから。
「だからこれはせめてもの反抗。開けて欲しいの、耳に」
「それ、本当に言ってるの?」
「私はいつだって本当のことしか言わない。嘘はつかない」
嘘。それは私の手を動かすには十分に力のある言葉で、心を動かされてしまったらそのまま従ってしまいそうになる。
「安希、変わったね」
「私ははじめから何も変わってないよ」
「嘘」
何も変わっていないなんてよく言えたもの。いつだって本当のことしか言わないとか言っておきながら、これだ。
目は見られない。スカートの裾を強く握ることしかできなくて、早くここから離れたいとまで思わせられるよう。
「私はもう、安希に触れるべきではないと思う」
「どうして?」
「私のせいで安希がどんどん汚れてしまっているみたいだから」
言ってしまった。呼吸が止まって、木々の揺れる音だけがうるさく聞こえて、世界すらも私に無言の圧力を与えていた。
安希と会うことが辛くなったのは最近のこと。
純真無垢で真っ白なキャンパスみたいな彼女は私に触れる度に色が加えられて、塗り重なって、塗り重なって、くすんで。安希は安希のままでいて欲しい。どうかその四角い箱のなかで、真っ白のままでいて欲しいと願うくらいには。
「ひとりで飛んでいかないでよ。私にも、私にも自由に飛んでいけるような羽根を頂戴よ」
「もういいでしょ。安希にははじめからあったんだよ。ただ飛び方を忘れてしまっただけ。もうひとりでもどこまでも飛んでいけるでしょ? だからお願い。もうこれ以上汚れないで、汚れようとしないで」
――私にそう、させないで。
熱いものが沸き上がってきて、それは抑えきれずに頬を伝って零れ落ちた。前が良く見えない。この先も、何もかも見えなくなってしまった。
人前で泣いたのはいつ以来だろう。恥ずかしさも気にならないくらい抑えきれなくて、必死で、心からの懇願で、精いっぱいだった。
滑るように入り込んで重ねられた別の暖かさは、未だ汚れを知らず真っ白な指。私をすくい上げるように手を取ってくれたその感触は初めてで、今はそれにただただ身を任せることしかできない。
「飛び立つ勇気を頂戴。どうかこの手を、私を受け入れて欲しい」
実に弱い女だ、私は。受け入れて欲しいなんて言われただけでどこか嬉しいような、彼女ともっと一緒に居たいと思わせられるような、それだけで彼女の手を強く握りしめるには十分な言葉だったのだ。
――パチン
「えっ?」
聞いたことのないような音と何かを噛み締めるような音が、声が耳に届く。
安希の指に涙を拭われ頬に触れられて彼女の方を向くと、耳には得体のしれないソレが刺さっていて、流れる少し黒みがかった赤は一瞬で私を凍らせる。
握られていたのは彼女の手と、白のプラスチック。
「あ……き、安希、血」
「七瀬、ちゃんと見ててね」
夕日に照らされて鮮やかに、おどろおどろしく輝くソレは見たくなかったのに。
手を離してはくれない。拒否権のない私はソレがねっとりと零れ落ちる様をただただ見つけ続けることになる。
「私、もともとこんなに汚れているの。もう戻ることなんてできないんだよ。不思議よね、戻りたいとも今は思わない」
叶ってほしくなかった、成就してほしくなかった彼女の願いを叶えたのは私そのもので、逃げることも戻ることももうできないんだろう。
こんなものは私が一番見たくなかったはずなのに。
けれどどうしてだろう。
どうしようもなくそれが、何よりも綺麗に見えてしまっているのは。
七瀬と出会ってから二度目の春が来た。
まだ冷える春の風と出会いを祝福するように咲き誇る桜にどうしてか気分が高揚する。
開けた穴はすぐに塞がってしまったし、あのファストフード店にももう行ってはいない。
いつも通りの毎日が続いている。変わったことを強いて言うとすれば……
「この曲、結構好きかも」
「明日CD持ってくる」
「やった」
先の繋がったイヤホンを片方ずつ、ふたりでつけているくらいだろう。
あの日私が願いを込めた星に、ようやくたどり着けたのだと思う。
昼休みは持たされた弁当を中庭で開けて、七瀬は相も変わらず購買のパンを齧っていた。
これでいい、これがいい。
「私って、生きていて良いのかな」
「いいんじゃないかな。少なくとも、誰かに迷惑かけてなきゃ。それに……」
――わたしは生きていてほしいって、そう思う。
白紙から駄文と駄文で綴られたソレに変わった人生は少なくとも生きるに値していて、ソレはこれからも長い年月をかけて完成に足を筆を進めていくだろう。
ふたりで、今日もここから。
ア・ガール・イン・ザ・ボックス 了
ア・ガール・イン・ザ・ボックス テルミ @zawateru
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