エピローグ 人の過ち
エピローグ 人の過ち
第1節 人の器量
小男は本能寺にいた。
そのかたわらには堀秀政がいる。
「秀政よ、信長様を討ったのは誰であろう?」
秀政は主君が言ってる意味が理解できないが、答えないわけにもいかない。
「明智殿が討ったのではありませぬか?」
これが精一杯である。
「わしは本能寺の周囲にいた者達に当時のことを聞いた。信長様は抵抗することもなくすぐに討たれたとのことじゃ。まるで暗殺ではないか。軍勢が討ったにしてはおかしいであろう。しかも、ここは塀もあり堀もあるのに戦った跡がない。」
小男は話題を変えた。
「坂本城はどうであった?」
「落ちましてござります。」
「あれを見せたのか?」
「明智左馬助殿に見せております。その後、城内の貴重な物を全て明け渡し天守に火を放ちました。」
「そちは何もせずそれを見ていたのであろう?」
「城を落とせとの命は受けましたが、首をはねよとの命は受けておりませぬ。」
小男は笑い出した。
「わしは明智殿の申し出を受けることしたが、御嫡男だけは助けるわけにはいかなかった。周りに示しがつかぬのでな。だが、それ以外の者達が血を流す必要はない。これで明智殿を慕う者達からの恨みは最小限にできたと言える。明智殿配下の者は皆わしの配下になるであろうな。」
「左様にございます。」
「秀政、明智殿がわしにあのような戦いを挑んだのはなぜだと思う?初めから勝ち目の薄い戦いであったにも関わらず、だ。」
「まさにこの結果を産むためにござりましょう。あの戦いで我らは多くの犠牲を出し、明智軍の強さを目の当たりにしました。我らにとって明智軍は戦いたくない相手になったのでございます。」
「さすがじゃ、よく分かっておる。明智殿は戦う目的を誰よりもわきまえておられた。わしとの戦には負けたが、人として負けておらぬ。むしろ勝ったと言えよう。結果的にわしがこうして明智殿に従っておるのだからな。加えてあの引き際は見事というしかない。まさに織田家随一の器量人じゃ。秀政、覚えておくといい。人は誰もが失敗し過ちを犯す。失敗や過ちを認めすぐに最善を尽くすか、そこから目を背け人のせいにし自らを安全な位置に置こうとするか、人の器量は、まさにそのときに問われるものぞ。」
「かりこまりました。この秀政、胸に刻みまする。」
「わしは明智殿にはどこかで生きていて欲しいと思っておる。敵でなく味方であればともな。これは本心じゃぞ。」
第2節 後継者
三河国岡崎城(愛知県岡崎市)である。
壇上には小肥りの男が書状を読んでいる。
徳川家康である。
書状(手紙)を読み終えると、かたわらにいた者に渡した。
「直政、読んでみよ。」
直政とは、井伊直政のことである。
家康の部隊長の中で優れた4人の者達を徳川四天王と呼ばれていたが、その中でも直政は最も若く、最も家康に愛された者であった。
書状には本能寺の悲劇に至った過ちが書かれている。
内容はこうだ。
信長は国の政治を担うことを決断し、息子信忠に尾張と美濃の地方の政治を移譲した。
ここで肝心な問題が発生する。信長直属の国の軍の不足である。
信長が元々持っていたのは、大半が尾張人と美濃人で成り立つ地方の軍であり、信忠に譲る兵を差し引くとどうしても兵が足りない。
当然ながら、国の政治を担う以上、国の軍という力は必須だ。
信長は自分直属の兵を増やすことが急務になったが、これには大きな問題が3つあった。
一つ目は、信長の軍の大半が尾張人、美濃人なことである。彼らは尾張や美濃のためなら戦うが、他の地方のため命を掛けて戦うだろうか?
この解決のため信長直属の国の軍は、尾張でもない美濃でもない土地に家族ごと移し、地元意識をなくさせることにした。
近江国安土(滋賀県安土町)に城を築き、そこに兵とその家族を強制移住させた。
だが、家族が住み慣れた土地を離れたがらないという理由で抵抗する者も多かった。
例外を許せば規律はゆるむ。命令に従わぬ者達を厳罰に処し命令を徹底させたため、兵達から怨嗟(えんさ)の声が上がっていたのである。
二つ目は、当時の兵はほとんど農業を兼業していた、いわゆる農兵であったことである。当然、農業が忙しい時期は戦いに参加できない。
このため、信長は農業を兼業しない専門の兵、足軽を大量に雇うことにした。大量の足軽の維持には大金が必要で、潤沢な税収を得るべく、元々支配していた津島や岐阜に加え、堺、大津、草津、敦賀、大坂などの物流の活発な町や港の完全支配を目指した。
この方針は、敦賀を巡って朝倉氏との争いとなり、大坂を巡って石山本願寺との泥沼の争いへと発展し、新たな火種を生んだ。
また支配すると更なる発展を促すべく、道や港を整備し治安を向上させるなど様々な手を打った。
これによって物流はますます盛んとなり税収も増えたが、これは信長のみならず信長の敵にも大量の鉄砲や武器などを行き渡らせることとなり、戦いをますます激化させる原因となったのである。
三つ目は、実際のところ兵が手足のように使えないという一番厄介な問題であり、これには大名の持つ構造的な問題と関係していた。
大名はその地方で一番の長なのだが、地方には大名よりも小さい小領主が多く存在し、彼らは大名にある程度は従っていたが独立し自由を獲得していた。
つまり、大名は緩やかに小領主を支配していたのである。
加えて、地方全体では大名直属の兵よりも小領主の兵を合わせた方が多かった。これが大名が小領主達に厳しくできない要因でもある。彼らが連合して対抗すると、さすがの大名も苦戦を強いられてしまう。
この力関係により、大軍を編成するには小領主達の協力が欠かせない。大名は戦いをするとき、彼らに戦いの目的を説明し、報酬を約束して兵を集めたものである。
信長も、この小領主達をどう扱うか悩んでいた。
大軍を編成するのにいちいち、小領主達に説明し協力を求めていては迅速な対応はできない。
欲しいのは、無条件に従う兵なのだ。
加えて、この無条件に従う兵を迅速に集めなければならない。
信長は強引な手段を使うしかなかった。
自分に無条件に従わない小領主の一族を滅ぼし、その配下の兵を吸収し始めたのである。
例えば丹波では、信長に従わなかった波多野一族、赤井一族など在地の小領主の一族を抹殺しその配下は光秀所属の兵とした。
大和(奈良県)の松永一族や摂津(大阪府北部)の荒木一族も信長に反抗するとこれも一族を抹殺しこの配下は信長直属の兵とした。
信長の制裁対象は積極的に従わない家臣へも及ぶ。家老であった林秀貞、佐久間信盛、安藤守就などは追放され、その配下は信長直属や光秀所属となった。
これにより信長と光秀は短期間で手持ちの兵を増やしたのであるが、当然その中にはかつての領主を慕っていた者も多く、その恨みは信長と光秀へ向かうこととなる。
かくしていつの間にか信長も光秀も自分の配下に多くの潜在的な敵を抱え、その敵達は信長と光秀への復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのであった。
これこそが最終的に本能寺への悲劇につながった信長と光秀の犯した致命的な過ちである。
直政は読み終えると、
「これが本能寺の真相にござりましたか。家康様が常々おっしゃっていた、織田家の家臣で一番の器量人の明智殿でもかような過ちを…」
「わしは何度も過ちを犯しているぞ。織田殿と同盟を組んだ直後、わしは一向門徒の家臣に改宗を求めた。仏様よりわしを優先させるためじゃ。従わねば討つと脅した。だが多くの者が拒み戦になった。」
家康は続ける。
「まだあるぞ。わしは浜松の地を得たとき浜松の者達を優遇し味方に取り込んだ。そちもじゃ。だが、岡崎の者達は面白くない。息子信康を立てわしに反抗的になった。岡崎の者達を討とうとすれば泥沼の戦になる。一罰百戒、わしは信康を武田領の近くに幽閉した。武田へ逃げろと何度も言ったにも関わらず、あやつは自分の責任だと言い逃げなかった。頑固者め…いつまでも放置すれば示しがつかぬ。わしが自害させたのじゃ。」
「家康様、ご自分を責めてはなりませぬ。」
「いや、わしは過ちを犯した。急ぐあまり無理したからじゃ。何事も時がある。やるべき時、やってはならぬ時が。織田殿も明智殿も国の政治を担うため、事を急がれ過ちを犯された。それをわしに伝えてくれたのであろう。同じ過ちを繰り替えさぬために。」
家康は感慨深く頷くと、
「ところで、書状の最後の部分を読んだか。」
「明智殿は一人の後継者を育てていたようにございますな。」
「そこじゃ。五十五年の夢をその者に託した、とある。つまり生きておるということであろう?」
「左様にございます。ただ、どこにおるのでありましょうや。」
「分からぬ。だが、時がくれば出てくるのであろう。その者がわしを選んでくれたら良いのだがな。」
第3節 絶たれた連鎖
利三は廃寺を後にしていた。
つい先刻、明智光秀に仕える前の主(あるじ)である稲葉家から保護の申し出があった。
自分は死を選ぶが、最愛の娘である福の保護と、家臣達を召し抱えてくれることを頼んだが、どうやら稲葉家はこちらの希望を想定済みだったらしい。
そもそも稲葉家を去ったのは稲葉家との仲がこじれたからではなく、長宗我部氏との外交交渉のためである。明智家が滅んだ今は前の主に戻るのが筋というものだろう。それに、斎藤家と稲葉家は元々親戚なのだから。
稲葉家への仕官が決まっても、家臣の多くの者は付いてきたいと言ったが、許さなかった。死ぬのは自分一人で良い。
「父上、父上!どこにいくのです?わたしを見捨てないでください…」
最愛の娘である福は、枯れる程に涙を流していた。
愛おしかった。叶うならば娘のために生きたいと、強く抱きしめた。
だが、宿命には逆らえない。
利発な娘だった。男に生まれていればと今まで何度思ったことか。
だが女子(おなご)だからこそ今は安全なのかもしれない。
「福よ、父はいつもそなたの心の中にいて、そなたを守っている。いつか、この戦の世を終わらせるのだ。女子だからできぬと思うな、考えよ。そなたは賢い。女子でなければできないこともある。」
自分の足を掴んで離さぬ娘を無理やり引き離し稲葉家の者に預けた。
「父上ー、父上ー、父上ー!」
娘の悲痛な叫びが頭から離れない。
光秀の残した遺書で利三は全てを知った。恨みの連鎖を絶つために光秀は命を捨てたのである。
だがそれには一つ足りないものがあった。明智家筆頭家老である自分の命である。
それに秀吉は利三が行方不明のままにしておけず、今頃は必死に探しているはずだ。
秀吉は本能寺に来て、光秀様が討ったことを不審に感じただろうか?彼が光秀様の言うような器量の持ち主ならば感じるはずである。
であれば、光秀様の汚名を注げる可能性もあるということだ!
どうせ死ぬ命であれば最後の奉公をしようではないか。
山を降りる利三の足取りは不思議と軽かった。
(エピローグ 人の過ち 終わり)
五十五年の夢(明智光秀編、第一) いずもカリーシ @khareesi
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