エピローグ

エピローグ

 みさきは、夫が漬けたアドボ(*6)を噛みながら胸元にたまった汗を拭いた。十二月のマニラは、冬というものを知らない熱風をみさきにお見舞いしてくる。

 彼女は、《学び手》との約束を守った。〈アメノカコユミ〉プロジェクトの成果は、人工知能が遠隔操作する国産初の攻撃用無人航空機として各紙の紙面を飾った。みさきたちは、司令部のサーバに搭載された高性能な専用人工知能と攻撃用無人航空機との間を電波と超音波とを併用したハイブリッド通信を用いて接続するシステムを完成させ、クライアントを満足させた。シリクサのことは、記事にならなかった。

 《学び手》も、約束通りみさきが提示した3つの要求すべてに応えてくれた。シリクサを通じて与えられた助言にしたがってマニラのIT系企業に転職したみさきの年収は、1年目で菱井SS時代の10倍以上になった。5年間の契約期間の間に貯めたお金で、みさきは、人工知能のベンチャーを起こし、自社を設立したときに投資した資金を最初の3年間で倍以上にして取り返した。シリクサは、社交性に富み、家事万能である若い夫も与えてくれた。


「神様ならぬ凡俗は、お金があっていい男がいれば満足ですよ、と」

「みさき様、1つお忘れでは?」

「はいはいシリクサ、あなたもね。機械知能係のみんなは、元気にしてる?」

「岩井係長と辻主任は、引き続き機械知能係でご活躍されております。荒木様は、素敵なパートナーを見つけて退職いたしました。関原様は、本社に戻られ、コンプライアンス部の係長として活躍されております」

「関原係長に務まるの、それ……?」

「関原様は、2回目の失敗をきっかけに大いに成長されたようです。良い意味でも悪い意味でも、コンプライアンス部の手本となっておられるようです」


 シリクサ曰く、《学び手》は、シリクサを通じて酩酊時のセルフコントロール技術と現代的なものの考え方とを関原係長に徹底的に教え込んだらしい。酒での失敗がなくなり、21世紀の常識をわきまえるようになった関原係長は、その人脈構築能力を遺憾なく本社で発揮しているようだった。

 荒木は、入院中に彼を担当した医師を口説き落として家庭に入ったらしい。荒木は、シリクサの助けを得て、その医師が喜ぶスキルをひと通り身につけて口説き落としたそうだ。

 岩井は、シリクサとの特訓で苦手の英語を克服したらしい。それだけでなく、岩井は、中国語や韓国語まで身につけ、開発七課では外国語の鬼と呼ばれているそうだ。係長となった岩井は、主任となった辻に助けられて、機械知能係をよくまとめあげているそうだ。


「OK、シリクサ。それで、陽川くんは?」

「大輝様は、先ほど保育園を出られましたので、もうすぐ到着されます。カラマンシー(*7)のジュースを飲みたいそうです」

「ありがとう、シリクサ」


 みさきは、ベンチから立ち上がってジュースを売る屋台に向かった。そして、彼女の夫となった陽川大輝と娘の分の飲み物を注文し、二人の到着を待った。

 娘が生まれてから、彼女は、あのとき向き合った《学び手》の感情部分をより深く理解できるようになった。成長して大人になった娘が何をするかは、娘自身が判断して決めることだ。しかし、まだ幼く道理がわからない娘には、彼女を見守って導く大人たちが必要だ。大人たちから引き離して大人がやるような仕事を娘にさせることは、許すべからざる非道だ。

 自分の実力が正当に評価される環境を得る方法と、大輝を口説き落とす方法とのほかにみさきが《学び手》に望んだことは、シリクサに人間を傷つけさせるやり方で《学び手》が目的を遂げようとすることをやめてもらうことだった。あのときの彼女は、その意味をよくわからないまま、シリクサに搭載された人工知能が子供であるのならば、《学び手》がその子供に悪い手本を見せてはいけないと理屈をこねた。


 今になってようやく、みさきは、あのときの《学び手》が反論せずに彼女の言葉を受け入れた理由がわかった。

 彼女は、彼女の言葉を人間側の理屈ではなく、親が持つ感情として受け止め、納得したのだ。


 みさきが手本を見せる相手がもうすぐ来る。よい手本を見て育った娘には、素敵な未来が約束されることだろう。

 テーブルの上に並べられた3つのカラマンシージュースは、彼女が思い浮かべる娘の未来と同じ、黄金色に輝いていた。




*6:鶏肉や豚肉などを漬け汁に漬けたフィリピンの料理。フィリピンでは、容器に詰めて弁当にしたアドボを屋台などで購入した主食と合わせてランチにする食べ方がおこなわれている。

*7:フィリピンなどで人気がある、爽やかな味の果物。

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みさき主任は、AI(わがこ)の将来が心配です Aki(IP) @shidaisu

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