彼女が見た怖い話① 動く手

彼女は今日もいつもどおり職場に出勤した。

彼女の職場というのは、彼女曰いわく僕には全く見えない『アレ』が特に多いらしい。

増えたり減ったりするけれど、だいたいは賑わうショッピングモールくらい混んでいるそうだ。

どれが本当のお客さんかわからなくなるくらい。

お客さんの人数が落ち着く時間でも、人酔いをしてしまうくらい。

けれど『アレ』がいるということ、それ自体はたいして珍しいことではないと彼女は言う。

職場はずば抜けて多いと思うが、どんな場所でも多かれ少なかれいるそうだ。

僕には見えない『アレ』

それは僕たちが『幽霊や妖怪』と呼ぶものやその場に残ってしまった『強い思い』であったり、人に巣食う』悪意のかたまり』だったり。

または、人知を超えた神々しい『何か』であったりと様々らしい。

ただ他者に害をなすものばかりではないし、多くいても基本は問題ないと彼女は言った。

むしろ用途や場所によっては多いほうが栄えるとか言われて喜ばれる場合もあるくらい。

彼女の職場も接客業で、『アレ』のおかげなのかはわからないけれど、かなり繁盛しているそうだ。

だから、『アレ』が多くてもたいして気にすることはなかった。


けれど、今日売り場に出た彼女が見つけた『アレ』はそういうものでは決してなかった。

悪意、妬み、嫉み、恨み。

この世の汚く醜い感情を集め固めたように濁った色のドロドロな何か。

それがひとつ、ぐにゃりぐにゃりとうごめいている。

それを見た瞬間、彼女の全身の毛が逆立って、毛穴からは嫌な汗が滲み出るほど。

彼女は一瞬で目を背けた。

そして、まるで何も見ていなかったかのように彼女は平然を装い歩きだす。

一瞬しか見なかったから『アレ』がどんな形をして何がしたいのかもわからない。

けれどひとつわかるのは『アレ』はとてつもなく良くないもの、忌まわしいもの、危険なもの。

絶対に一切合切いっさいがっさい、関わりたくないし、関わってはいけないもの。

彼女はそう直感したそうだ。

ただ、『アレ』がいる位置はどうしても通らなければ仕事にならない場所。

彼女は諦めるように、そして覚悟を決めるように、ため息をひとつ吐いて、そちらに向かう。

完全に無視を決めこんで『アレ』からなるべく離れた場所を選んで通り過ぎた。

そして、さらに少し歩き『アレ』からだいぶ離れた場所で足を止めた。

その場で仕事の用意をしながら、ちらりとそちらを見た。

至極しごく自然な動作で、近くにいた同僚にも怪しまれないように『アレ』の存在を確認する。

『アレ』は、先ほどと変わらない位置にいた。

まるで地を這う虫や蛇のように蠢き、時に小動物のように跳ねたりする。

大きさは、さほど大きくはない。

それこそ小動物くらい、少し大きめのモルモットくらいじゃないだろうか。

彼女はあまり見ていて、自身が見えていることを勘づかれても面倒だと視線をはずす。

そして彼女は静かに仕事にとりかかった。

それからも『アレ』の存在に気をつけながら仕事を進めていたが、彼女が昼休憩から戻ってきた時にはいなくなっていたそうだ。

彼女はほっと胸をなでおろし、午後の仕事の用意をし始めた。

午後から出勤してきた同僚に挨拶をされ、彼女は振り返った。

その瞬間、『アレ』の形を彼女はしっかり捉えたそうだ。

『アレ』は虫でも蛇でも、ましてや小動物なんてものでもない。

『アレ』は手だ。

『アレ』は大人の手で、手首から下しかない少し骨張ほねばった手。

それが5本の指を動かし地を這ったり、大きく動いて跳んだり、転がったりしている。

マジで何なんだ?と彼女は思ったけれど、それと同時にもう自身と関わることはないだろうと察したそうだ。

『アレ』にも、その同僚とも。

そして同僚は、スマホを見ながら彼女の横を通り過ぎていったそうだ。

髪を頭皮から引き抜くかのように強く同僚の頭を掴み、蠢きながらへばりつく『アレ』の存在に気づかないまま。


『アレ』がその同僚と関係があったのか、はたまた運悪く目をつけられてしまったのかはわからない。

おそらくその同僚は職場にもう来ないだろう。

それが体調を崩すからなのか、何か良くない出来事が同僚の身に起こるのかはわからないけれど。

その同僚はこの先大変だろうと彼女は語った。

そして、少し間をあけてから彼女は言った。

「私が同僚にしてあげられることはないし、してあげる義理もない。冷たいと思われるかもしれないけど、私は私自身と私の大事なものだけを守るだけで精一杯」


その言葉を聞いた時、僕は安堵してしまった。

それでいいと、彼女が無事でいてくれたらそれだけでいいと思ってしまった。

そんな僕はもしかしたら冷たい人間なのだろうか。

けれど、誰に非難されても、否定されても、僕はその考えを変えることも、この先、後悔することもないだろう。

そんなことを思いながら、話し終えた彼女が美味しそうに唐揚げを頬張る姿をみつめていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の彼女の見てる世界は少し変わっている うめもも さくら @716sakura87

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ