アリスの巡礼

千多

 

Chapter1:


 白い封書が届いた。差出人の名はない。封を切ると、これも真っ白なカードが出てくる。ナイフを入れたばかりの林檎に似る、瑞々しい香がほのかに立つ。僕は瞬時に理解する。これは恋人が送ってきたんだと。手近な椅子を引き寄せて座り、左手に紙を持ったまま電話をかける。相手は午後から約束のあった女の子だ。3コール目で出た彼女に、悪いが急用ができたので君には会えないという旨を伝え、返事も聞かずに切る。


 僕はトースターから焼きあがったパンを一枚とり、味も食感もわからぬままに食べ終える。歯を磨き、寝癖を直す。新しいシャツの袖をおり、手首にコロンをふりかける。電話が折り返されることはなかった。四月最初の日曜日の朝にひとりの善良な女の子を傷つけてしまったことを、僕は哀しく思う。けれど仕方がない。何かを選ぶことと何かを選ばないことは、常に一体なのだから。


 いざ、旅に出よう。失踪した恋人を捜しに、ここではない別の世界へ。


*


 導かれるように僕は列車を乗り継ぎ、湖を過ぎ、眠り、窓外の平原に野生馬を見る。

 石畳の街で下車する。ひといきれの中を往き、旧市街の暗がりへ出る。細い通りには、絨毯や複雑な意匠のグラスを並べた商店が、乾いた細胞のように連なっている。巻きあがる砂埃を吸わないように、鼻から下を覆う。聞き慣れない異国の言語は、耳が拾わないので助かった。お陰で僕は、恋人の残した気配に没頭することができる。入り組んだ路地だったけれど、彼女の足取りを辿っていけば、たとえ目を瞑っていても正しい方向へ歩けるような気がした。


 日没が近くなる頃、僕はようやく休息した。くすんだ青い壁のちいさなカフェは、恐らく市場の北に位置している。通りに面したテラス席で、粘つくように甘い、泥水のような熱い紅茶を飲む。ぼそぼそした食感のケーキにはスパイスが効いている。何を頼んだわけでもない。席に着くならウェイターが黙ってこのふたつを置いていったのだ。テーブルの表面を指でなぞる。うすらに砂が付着する。中に入れてくれないかと頼もうにも、薄暗い店内には客どころか店員もいない。椅子を逆さにかけたテーブルが四つ並んでいるだけだ。この店にはそもそも何かを選択するという選択肢がないのかもしれない。日に焼けたパラソルの縁はところどころがほつれ、乾いた風を受けている。

 グラスを金属製の匙でかき混ぜながら、僕は恋人について考える。しかし困ったことに、僕は彼女を損なった経緯や理由について、何ひとつ思い出すことができない。頭に籠を載せた女の子が、僕に横目を送って過ぎる。彫りの深い、うつくしい子だった。恋人もあんな風に睫毛が長くて、伏し目がちなんだ。

 ケーキを三分の二ほど食べ終えたあたりだ。突然、足元へ向かって急速に血液が引くのを感じる。僕は不安定なテーブルの上に肘をつき、両手を組む。しばらく耐えたが、駄目だった。堪らず絡めた指に額を預ける。道ゆく人々の汗や濃密な香料の匂い、ざわめき、子どもの笑い声、鶏の羽ばたき、獣の臭いがひとつのうねりを成す。深く息を吸い、時間をかけて吐く。卓上のイランイランの花が拡大と縮小を繰り返している。この身を取り巻くもの全てが、一斉に僕を指して嗤っているような気がする。強烈だね。大学生の頃、留学先の寮でグラスをやったことがあるけど、あんな戯れの比ではない。目蓋をきつく閉じる。パラソルの破れ目に風が通る、その道筋をミルク色に幻視する。脳裡で恋人の顔のパーツが、その配置が、頸すじの香りが解け、結集し、分裂し、また整列し、拡散する。身体が巨大な排水溝に吸い込まれていくような感覚に襲われる。僕は勘定をテーブルに置き、夢遊病者のように立つ。そしてふたたび、恋人の痕跡を辿って歩き出す。額の汗をぬぐい、くちびるを舐めた。塩の味がする。ウェイターは店の戸口にしゃがみ、ラジオの傍らで煙草を吸っていた。

 弦楽四重奏。

 高い窓から窓へ物干しを伸べた細い道に入る。肋骨の浮いた黒犬が行く手を塞いでいる。

「悪いんだけど、」

 言葉が通じるのかどうかはわからないけれど、一応声をかけてみる。聞き入れてくれたようだった。やおら去っていく痩せた肢体を眼で追う。肉でも投げるのが礼儀だったのかもしれないが、生憎何も持ち合わせてはいない。


 その時僕は、扉を見出した。犬の去った後、左手の住居、石造りの白い壁に、忽然と黒いドアが出現している。様式も色彩も、明らかに一枚だけが異質だった。真鍮のノブに手を掛け、自重で押す。強い風が吹く。これだ、と笑う。躊躇いなく足を踏み出すと、僕はそのまま奈落の底へ落ちていった。


Chapter2:


 長いこと落下していた。投降口を見上げると、外光のつくる四角形が等倍に小さくなっていく。ダクトのような細い穴の壁面にはたくさんの写真や絵画が掛かっていたり、埋め込むように設えられた棚があったりした。重力に従いながら僕は、12歳の頃の恋人の肖像画、瓶詰めのシュガードーナツ、鹿の剥製(頭部)、冬の海辺で僕と撮った写真、赤いエナメル靴、古い熊のぬいぐるみ、英国製のティーセットなんかを見た。恋人の歴史だ、と思い、陶然と落ち続ける。途中ですこし眠ったかもしれない。展示が切れたかと思うと、唐突に【3 Please】という表示が現れる。着地が近いらしい。【2 be】の左に、押しピンで蝶が留めてある。【1 careful!】を過ぎる。せめて7くらいからカウントしてくれたら、もっと親切なんだけどな。僕は埃っぽいソファに受け止められ、ぽんと跳ねた。相応の衝撃はあったけれど痛くはない。優れたスプリングのおかげかな。或いはあの甘すぎるお茶かざらついたお菓子に、麻酔薬のようなものが入っていたのかもしれないね。服の裾を払い、正面の扉を出る。思わず目を眇める照度だった。


 雲ひとつない晴天の下に立つ。幅の広く白い道の先には、二軒の家と背の高い黒い木がある。先ほどまでいた街に較べると格段に涼しい。僕は上着を羽織り、頸を鳴らした。青、白、黒で構成された単調な光景に音が備わる。動くものは僕と、僕の影だけだった。体内時計が狂っている。一日が何十時間にも引き延ばされているようなかんじ。気候といい時差といい、あまりにも目眩く変化し過ぎている。これは帰った時、(仮に無事元のマンションへ帰れたとして)生活リズムをとり戻すのに苦労するだろうね。


 家は黒い屋根と漆喰塗りの壁で成る、倉庫のような平屋だった。煙突のある、向かって左の家屋の扉が、ほんの少し開いている。

 恋人は、樫の木でできた古いテーブルについていた。背を丸め、祈るような姿勢で瞼を閉じている。晝間だというのに部屋は薄暗い。奥のキッチンに火の気配はなく、天井から下がる裸電球も沈黙していた。

「お願い、そっとしておいて」

「そういうわけにはいかないよ。迎えに来たんだから」

 僕は懐から件の白い封筒を出した。恋人は顔をあげ、ふっとわらった。


Chapter3:


 ものの少ない部屋だ。壁には真鍮製の鍋やフライパン、さかさまに吊られた黄色い花の束がある。隅の暗がりには上部の曇った姿見がひっそりと息づいている。床は綺麗に掃かれていたけれど、扉や窓枠の隙間から、絶えず砂利が侵入してくるようだった。

 恋人のとなりに座る。

「遠かったんじゃない? 疲れたと思う」

 紅茶を勧められる。恋人は平皿に載った、硬そうな円いパンを千切った。

「まあ、それなりに」

 カップに口をつける。柑橘のかすかに薫る、澄んだ紅茶だった。

「ところでここは何?」あまりにも抽象的な問いだ。

「わたしが子どもの頃に過ごした、北欧の村」

 僕は納得した。恋人の半生は、客観的にもあまり幸せなものだとはいえない。ゆえにここはおそらく唯一、彼女にとっての幸福な記憶が連続している座標なんだ。失踪するのに、これほど良い宛先はあるまい。短い夏のあいだに、繁みで赤いスグリの実を摘んだり野生動物を追いかけたりする彼女を想像する。それは素晴らしく幸せで、満ち足りた情景だった。

 恋人は手の中でパンを毟りつづけている。

「朝、出勤する途中、どうしようもなく足もとがぐらついて、自分がどこにいるのかわからなくなってしまったの。駅だったか信号待ちだったか、何にも覚えていないんだけど、なんだか蟻んこみたいに小さくなって消えてしまうような気がして」

 救ってあげたかったな、と思う。救えたかもしれないな、とも。たとえ彼女という人間を取り巻く存在のひとつにすぎないのだとしても、僕は特別でいたかった。

「それでそのまま、実際に姿を消してしまった」

「そういうことになる」

 皿の上はパン屑でいっぱいだ。

「やり直すことはできない?」

 恋人は目を伏せたまま言う。

「あなたのことは好き」

 僕は頬づえをつく。狡い答えだ。


Chapter4:


 陽は沈まなかった。僕らは家を出て、森の手前まで散歩した。青い麦畑のなかを縦列で行く。一定の間隔をあけたまま会話を続ける。辺りは変わらず森閑としていて、言葉は発するそばからひかりに吸い込まれてしまう。太陽は動かないし、風も吹かない。僕は気づく。


 これは巡礼、或いは何らかの罰なんだろう。


Chapter5:


 一日の境が無いものだから、どれくらいの間ここにいるのか、僕には解らなくなってしまった。そんなことを考えること自体、この世界では無駄なのかもしれない。眠り、水を浴び、食事を作り(一体どこから材料を調達してくるんだろう?)、散歩する。この繰り返し。もう一棟の家で僕は起居し、そこへときどき恋人が訪ねてくる。以前より外界の変化はずっと乏しくなったというのに、会話の尽きないのが不思議だった。仕事も娯楽も、共通の苦しみもないのに。

「卵をとってくる」

 ベッドに横たわり、本を読んでいた僕に恋人が言う。

「一緒に行くよ」

「いいの。続けて」

 片手で制し、恋人は柱の向こうに消えた。白い指と籠の輪郭が、窓の光に写し取られる。しばらくしてから、玄関の扉の閉まる音がした。僕は本を閉じて目に被せ、黙考する。


 僕はもっと恋人を識ろうとすべきだったのかもしれない。

 部屋を出て、煙突のある方の家へ向かった。もう見慣れたダイニングキッチンを抜け、暗く冷えた短い廊下を渡る。靴底がじきじきと鳴る。浴室の向かいにある彼女の部屋をノックする。返事はない。ドアノブに手をかけた時、なぜか鳥肌が立った。決して寒いわけでも、急激に照度が下がったわけでもない。本能が警鐘を鳴らしたんだ。この枯れた花環のかかった扉の向こうで、僕はきっと不都合なものを眼にするだろうという。しかし意思とは無関係に、手はノブを回している。地点Aに至ったら動作Bが起こるというようなアルゴリズムに則ったように。


 青いカバーのかけられたベッドと白い鏡台、白い書き物机、揃いの小さな椅子、箪笥と黄色い陶器の花瓶。どこに在っても、恋人の居住空間は質素であるようだ。きまりが悪く、僕は頸を触った。彼女に衣服や貴金属、香水を贈ってきたのは正しくなかったのかもしれない。

 主人の不在時に部屋を物色する。なんだか野蛮だけれど、僕は恋人を連れ戻す方法を知りたかった。先日(『日』という概念がすでに崩壊していることを承知したうえで、それでも時間的前後を表すにはもっとも適切であろう単語)「ずっとここで一緒にいたい」と言われ、初めて彼女から何かを要求されたと欣喜した。しかし、それでも僕はやはり、あのごみごみした碌でもない世界で生きたかったんだ。


 箪笥の最下段に手をかける。何かが詰まっているらしく、なかなか開かない。一旦押し、力を込めて引く。乾いた木が軋み、一段が丸ごと外れる。甘い香りと共に溢れたのは、無数の白い封筒とカード。

 呆然とする僕の背で扉がひらいた。振り返ると恋人が胸に籠を抱えたまま、暗い廊下に立っている。

「また間違えたのね」

 恋人が笑う。うん、と僕も笑う。

「また間違えたみたい、ごめんね」

「やり直すの?」

「今度こそうまくやるよ」

 重なる紙が暈を増す。水のように部屋を満たしていく。渦を巻く。あざやかな林檎の薫香。太い梁。ざらついた壁。恋人の青い襟。彼女が片手を挙げる。

「じゃあ、また」

 その白い指先を最後に、僕の視界は暗転する。


ChapterX:


 白い封書が届いた。差出人の名はない。封を切ると、これも真っ白なカードが出てくる。ナイフを入れたばかりの林檎に似る、瑞々しい香がほのかに立つ。僕は瞬時に理解する。これは恋人が送ってきたんだと。手近な椅子を引き寄せて座り、左手に紙を持ったまま電話をかける。相手は午後から約束のあった女の子だ。10コールを過ぎても出ないので、メッセージを残すことにする。悪いけど急用ができたんだ、君には会えない。


 僕はシリアルに牛乳を注ぎ、味も食感もわからぬままに食べ終える。歯を磨き、寝癖を直す。新しいシャツの袖をおり、手首にコロンをふりかける。電話が折り返されることはなかった。四月最初の日曜日の朝にひとりの善良な女の子を傷つけてしまったことを、僕は哀しく思う。けれど仕方がない。何かを選ぶことと何かを選ばないことは、常に一体なのだから。


 いざ、旅に出よう。失踪した恋人を捜しに、ここではない別の世界へ。


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