泡沫のイカロス

梅jaco

前編-1-

 山頂から登る朝日を見る、一人の青年がいた。山の朝は凍えるほどに寒く、彼の吐く息が白い靄に変わっていく。

「……やっぱり、ここは良い眺めだ」

 辺りには人影も鳥の姿も無い、彼一人だけだ。彼は静かに太陽がその姿を現していく様を見つめていた。

 彼の赤銅色の髪が太陽の光に照らされ赤く輝く。一部分だけが薄紅色になった髪が、爽やかな風に静かに揺れた。

 黄金色に輝く太陽が半分程姿を現したところで、彼は徐に上着を脱ぎだす。パーカーの下には、山で着るには寒すぎるであろう袖の無いインナーを纏っている。彼は上着を腰に巻き付けると、すぅと冷たい空気を飲み込む。

 瞬間、彼の両腕がみるみるうちに変化していき、やがて漆黒の翼へと変貌した。抜けた羽が宙に舞い、朝日に照らされ幾重もの色に輝きだす。

 そしてそのまま、山頂の切り立った崖から一思いに飛び降りた。傍から見たらただの身投げだろう。しかし、彼はただの『人間』ではない。

 バサバサッ、と大きな音を立てながら翼をはためかせ、朝焼けの空を滑空していく。

 その様はまさしく、巨大な鳥のようであった。





 また別のとある山。概ね7合目辺りに鎮座している山小屋。日の出を見に行った鳥の彼は、その山小屋にたどり着いた。ゆっくりと羽を羽ばたかせながら地面へと着地する。彼の両足が確実に地面についたところで、羽はまたもや人間の腕へと形を変えた。すぐに腕を口元に寄せ、ハァと吐息で手のひらを温めながら山小屋へ入って行った。

「うわぁさっみぃ……ただいまじーちゃん」

「なんじゃ、姿が見えんと思ったらまた日の出も見に行ったんか。ウィグ」

 青年は山小屋の中に居た老人に声をかけた。老人は青年の事をウィグと呼び、温かい茶を彼に差し出した。じーちゃんと呼ばれた老人は、彼の祖父にあたる人物、アウルだ。別の山で働いて暮らす彼の両親に変わって、ウィグを男手一人育て上げた逞しい人物だ。

 ウィグは四つに結わえた髪を寒さに揺らしながら、暖炉の近くに腰掛ける。湯呑に向かってふぅと息を吹きかけ、ゆっくりと嚥下する。食道に熱いお茶が流れ込んでいくのが分かった。寒く冷えた身体には何よりのご馳走だ。

「あったけぇ~……」

「そりゃあおめえ、そんな薄着で行ったらそうなるじゃろな」

 一般世間ではまだ秋の季節ではあったが、彼らの住む山は標高が高く、7合目にもなれば十分に冷える。ノースリーブにパーカー1枚で生活している方が無謀なのである。両腕が羽に変わる以上、長袖で生活するには不向きなのではあるが。

 アウルも同じように暖炉の傍にあるソファーへと腰掛けた。伸ばしっぱなしの白い髭が彼の年齢を物語っている。

「朝飯は食うたんか?」

「昨日の残ってた栗とマツタケ焼いて食べた」

「んだか」

 少々訛った声で反応する。ここ一帯の山々は彼ら『鳥人族』のテリトリーであり、山に実る作物もすべて彼らのものだった。しかし、彼らは決して乱獲はせず、その日の食事に必要な分だけを採って食べていた。

「この時期は胡桃が美味いからの、今日はそれを採りにいぐか」

「あーい」

 まもなく冬の季節がやってくる。そうなれば彼らの食料は無くなってしまう為、この時期はどうしても大量に食料を採る必要がある。先ほどと矛盾しているようにも聞こえるが、これも山で暮らしていく上では必要な蓄えであった。

 朝日も昇りきり、多くの生物が活動を始める時間帯。籠を背負ったウィグは山の中を徒歩で進んでいく。鉄製のトングで落ち葉をかき分けながら、胡桃や栗、キノコ類を拾い上げていく。

『ピピッ!』

「おっす、お前たちも冬支度か?」

 木の上からシマリスの鳴き声が響く。言っている事を完全に理解できるわけではないが、簡単な意思疎通は出来る。ウィグはちょうど拾い上げていた栗の中身を取り出すと、近くの枝に置いた。

『キュピピ!』

「いいって、気にすんな!」

 シマリスは躊躇いながらも栗を受け取ると、感謝の意を表して去って行った。同じ山に住む者同士、食料は分け合わなくてはならない。ずっと昔から続いていたこの世の巡り方だった。

 籠の半分ほどが山菜や果物、木のみで埋まった頃。ウィグは石の上で一休みをしていた。腰に括りつけていた鉄製のボトルには今朝汲んだばかりの新鮮な湧き水が入っており、まだひんやりと冷たい。朝とは違い、歩き回って体温はかなり上昇しており、火照った身体に冷たい水が染み渡る。今日の彼の昼食は蒸かしたサツマイモが練りこんであるパンだ。小麦や米といった穀物はこの辺りでは採ることが出来ない為、平地で暮らす種族たちから分けてもらっていた。その代わりに、彼らにも果物や山菜、キノコ類を渡している。等価交換は生きていくためには基本的な事だった。

「うめぇ。やっぱいいよなぁ麦って、この山にも生えてくんねーかな」

 ふわふわモチモチの食感はこの山にはないものだった。初めてパンを食べた時の衝撃を今でもウィグは覚えていた。この山で取れるものは大体固いか柔らかいの2択であり、ふわふわとしたパンは蒸かした芋とはまた違った柔らかさがあった。水よりもお茶の方が合うなぁと思いつつ、サツマイモ味のパンを水で流し込んでいく。そんな時、遠くの空からカラスの鳴き声がした。声は徐々に近づくとともに、羽ばたきの音も大きくなる。ウィグが後方を見上げれば、一匹のカラスがこちらに向かって飛んできていた。

「ヤタ!どうしたんだ?」

『カァー!』

 ウィグは立ち上がりカラスと戯れる。ヤタと呼ばれたカラスはウィグの友人……もとい友鳥である。生まれつき足に傷を負っており、それが数字の『8』に見える事からヤタと名付けたのだ。一緒に暮らしているわけではないが、何かと生活を共にする相手である。ヤタは彼の食べていたパンに興味があるようだ。

「これ?食うか?」

『カァ!カァ!』

 少しちぎって手のひらに差し出す。ヤタは鋭いくちばしでパンを摘まむと、顔を上に上げてパンを飲み込む。お気に召したのか、もっとくれと言わんばかりに羽を忙しなく動かす。

「しょうがねぇなぁ。これで最後だぞ」

『カァ!』 

 残ったパンをさらに半分に分けてヤタに差し出す。またせがまれない内にウィグも残りのパンを平らげていく。気ままで自由なひと時が流れていく。

『カァ!カァー!』

「なんだよ、もうねーぞ」

『カァァ!』

 手のひらを見せるウィグに対し、そうじゃないと否定の声で鳴くヤタ。じゃあ何だと問いかければ、くちばしを南の方角へ向けた。

「食料があっちに沢山……。あー……そっちは駄目だ」

『カァ?』

「だってそっちは『海』の方角だからな、俺たちは行けない」

 彼らの住む山を抜ければ、直ぐ近くには広大な海が広がっている。しかし、彼ら鳥人は海へはほとんど近寄らない。潮を含んだ風に長く当たれば、羽がうまく動かせなくなってしまうからだ。海辺で暮らす鳥人もいるが、あくまでもウィグ達は山で暮らす種族。到底海とは相いれない存在であった。

 祖父やほかの鳥人からも、昔から口を酸っぱくして警告されていたため、今更行くのも気が引けていた。しかし、興味だけはずっと持っていた。

 幼い頃、海を渡って生活を行うタイプの鳥人と会ったことがあり、海の青さや広さ、水平線というものを教わった。そして、海の中で暮らしている種族の事も。

「……まぁ。また今度な」

『カァ!』

 その今度とやらが来る日はあるのだろうか。そんな事を思いながら、ウィグは実の詰まった籠を背負った。太陽は既に空高く昇り詰めていた。


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泡沫のイカロス 梅jaco @sakitaro87

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