さよなら風たちの日々 第7章ー2 (連載19)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第7章-2 (連載19)


              【3】


 急いでドアチェーンを外し、ロックを解除してドアを開けた。

 そこにはヒロミが立っていた。

 泣けばいいのか、笑えばいいのか、その判断がつきかねるような顔をして、そこにヒロミが立っているのだ。

 懐かしいセーラー服姿のヒロミ。手に学生カバンと黄色い花束を持ち、あの訴えるような上目遣いで、ヒロミは今、ぼくの目の前に立っている。

 手にしている黄色いバラに、何の意味があるのだろうか。花言葉は何だったんだろうか。ぼくはヒロミを見つめたままそれを考えたのだが、その答えはついぞ見いだすことはできなかった。

「すみません。突然来ちゃって」

 卒業アルバムの住所を見て、ここに来たんですと、ヒロミはか細い声でそう言ったきり、黙った。そうしてヒロミはこわばった微笑みのまま視線を足元に落とし、何度も何度も、叱られた子供のように髪をかき上げるのだった。

 ぼくはあたりを見回し、誰もいないのを確認してから、

「入れよ。今、誰もいないんだ」と言って、彼女を手招きした。

 でも、とためらうヒロミにぼくは大きくドアを開け、もう一度彼女を招くポーズをする。

 そのポーズに、今度は安心したのだろうか。ヒロミは小さくうなずき、玄関の中に入った。

「おれの部屋、二階なんだ。上がれよ」

 玄関を閉めてからぼくが言うと、ヒロミはもう一度うなずき、後ろ向きで靴を脱いだ。そうしてその靴を手で揃えて隅に置き、小さな声で「お邪魔します」と言った。  消え入りそうな声だった。ぼくはふと、ヒロミに初めて声をかけられた秋葉原駅を思った。あのときの声も確か、消え入りそうな声だったような気がする。

 ぼくが二階に上がると、ヒロミはそれに続いた。

 六畳サイズの洋間に入る。その部屋にはベージュ系のカーペットが敷かれ、ステレオ、勉強机、本棚、クローゼット、ソファーベッドなどが並べられている。少し殺風景かもしれない。しかし天井と壁にはアイドル歌手とオートバイの大きなポスターが貼られており、それが、かろうじてぼくの部屋であることを証明している。

 ぼくはレコード盤を裏返し、針を落とした。部屋に再びブリティッシュロックが流れた。

 ぼくとヒロミはカーペットの上にすわり、少しだけお互いを見つめ合った。

 懐かしかった。そしてヒロミは相変わらず、寡黙だった。


               【4】


 少しハスキーなボーカル。曲がサビの部分に入ってシャウトすると、それに呼応してギターがフレーズを入れる。するとシンバルがそれをバッキングし、スネアが連打される。グリッサンドするキーボード。忠実なリフを繰り返すベースラン。

 そんなブリティッシュロックが流れるなか、カーペットに座っていたヒロミは何度も何度も黄色いバラをいたわるように撫で、そうしてここまで来たわけをぽつりぽつりと話し始めるのだった。

「今朝、家の近くの花屋さんで、これを見つけて、買っちゃったんです。そうしたらどうしても、先輩殿に会いたくなってきちゃって」

「でもこのバラ、少し枯れてきたみたい」

 ヒロミは今にも泣きそうな顔をしてぼくに言う。

 見るとそのバラは、少ししおれていた。元気がないのだ。花びらの先端部分が少し茶色に変色していて、うなだれていたり、まくれあがっているのだ。

 無理もない。ヒロミは今朝このバラを買ったというのだから、バラはかれこれ五、六時間も水分を補給していないことになる。

 大好きな人のために、せっかく買ってあげたんだぞ。ようやく会えたんだぞ。元気ださなくちゃ、ダメじゃないか。わたしより先にしおれちゃ、ダメじゃないか。

 うぬぼれなんかじなくて、ぼくはそのとき、そのヒロミの姿がそんなふうに見えて仕方なかった。

「ちょっと待ってて。下から花瓶になりそうなもの持ってくるから」

 ぼくはそう言って階下に降りた。台所にさっき飲んだ牛乳の空き瓶が置いてあるのだ。

「牛乳はやはり、瓶で飲まなくちゃおいしくない」

 これが父の口ぐせだったから、わが家では毎日牛乳が配達され、その空き瓶も台所でゴロゴロしていたのだ。


 ぼくはその中から帰宅してすぐに飲んだ牛乳の空き瓶を水で洗い、中に水を半分ほど入れて部屋に戻った。するとヒロミはようやく安心したような顔になり、バラの花を牛乳瓶に生けた。

 伏し目がちのヒロミと、膝小僧を抱え込むような恰好をしているぼくに、懐かしい沈黙が訪れる。

 そう。いつもそうなのだ。ヒロミは無口で、その場の空気に慣れるまで、なかなか口を開こうとはしないのだ。慣れてくるとヒロミは小さく笑い、ときには饒舌になることもあるのだが、そこにいたるまでは時間がかかる女の子だった。

 この雰囲気は、初めて秋葉原で呼び止められた、あのときに似ていた。どうやらそれは、今も変わってないようだ。

 いつしかレコードが終わっていた。スピーカーからは規則的で単調な、そして雨音のようなノイズが続いている。レコード針が最後の溝を、何度も何度もトレースしているのだ。

 その間延びした雨だれのような音が、いつまでもいつまでも部屋に流れ続けている。ぼくはようやくそれに気づいたふりをして、針を元に戻した。


 ぼくは慣れっこになっていた。ヒロミといる時間。何も話さない時間。 

 けれど、なぜか満ち足りた時間。

 そして、大切な時間。




                           《この物語 続きます》




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