第30話
さて、いよいよ時が来て、列を成した一同は官吏に連れられて、しずしずと
食事処での陽気はどうしたのだろう、畏まっていること。皆のこの変わり様に、莢子は呆れるような思いがしている。それでも男性の中には酔いを覚ましきれなかった者がいて、しんどそうに足を進めている姿もあり、その方が却って腑に落ちるようだった。
一行は普段決して踏み入れることの出来ない、天空領へと入って行く。これだけの人数に対し、官吏の数は極僅かだ。今一斉に謀反を起こせば、逃げ出せるだろう対比である。
けれど、誰もそれを考えない。それは拘束紋があるからという悲観よりも、鈴が吐き捨てたように、皆が今の境遇に満足しているからに違いなかった。実際、国にいるよりも良い暮らしが出来ている者は少なくない。
そして、莢子にとっては久しい空(くう)の階に来た。丁度反対側に行けば、あの水の棚があるだろう。それをどこか懐かしい気持ちで見送りながら、列に引かれて一の空を目指した。
一の空とは、王に連れられて民と、その中でも召人と会したあの場所のことである。その時は環条にある入り口から入ったが、一同は六の条の奥へと進んで行く。そして閉じかけた扇型のような形の橋がある手前、つまり条の突き当たり、一の囲いの最も端にある戸口から、官吏は中へと入って行った。
列からざわめきが起こる。入口の人垣が分散することで莢子も中の様子を目にすること出来た時、同じように感嘆の声を漏らしてしまった。
当然ながら以前とは違い、場はすっかり宴会場と化している。とは言っても、祝宴開始の四半刻以上前である。勿論料理までが揃っている訳ではない。しかし、塗りの膳が整然と列を成して、既に並べられている華やかな光景には、目を瞠るものがあった。
ところが、彼女が全体を見渡すと、その感動は一転、驚きに変化した。
一の空の背後の壁が、すっかり取り払われていたのである。それだけはではなく、二の囲いに位置する七(しち)の空とは、続き間になっていた。
よく見れば、一の囲いと、二の囲いの境目の両端には、片流れの台形の橋が掛かっている。そこから察するに、元々続き間なのではなく、橋の間にも床材を渡した即席の間なのだろう。
確かに人間界に渡った時、臣下が七の空から王の火車で上ってきたのを莢子は見た。けれども、続き間かどうかなどの細かい事までは、目が行き届かず分からなかった。
二つの部屋を繋げることにより、広さは約二倍になっている。半分でも驚いた程だったのに、この広大さたるや、相変わらず規模が桁違いだ。
ここは実に面白い空間だ。部屋の半分は建物の中で、もう半分が外に出ている。そして、ぽっかりとした夜の中に、煌々とした室内が空中に浮かんでいるように見えていた。
何時もなら御殿が明る過ぎるので、何の光もない屋外など、漠然とした暗闇でしかなかっただろう。だが、今までとは違って、外は驚くほど白く輝いていた。その仄明るさは、まるで朝方が来たかのようだ。莢子にとっては実に久しい感覚で、だからこそ、彼女は暫く呆然として、白く輝いているような外の景色に魅入ってしまった。
(夜が、明けるのかな…。)
世界に白い光が降り注ぎ、端々を輝かせている。外からは勢いのある心地良い風が流れ込んでいる。莢子は穏やかに吹き流されながら、この世界に来て初めての喜びを感じていた。それは、起きれど起きれど日差しを身に受けることなく、何時でも夜でしかなかった世界に、ようやく目覚めの時が来たかのような感動だった。
不意に、代表の官吏が声を張り上げ、莢子の夢想は途切れた。
「各自、前日に確認してある通り、
莢子は突然の発表に内心非難の声を上げた。全く預かり知らなかったことに不安を抱いたのだ。これでは席表を見直さなければならないが、見たからと言って分かるような自信もない。
二の足を踏んで、一人動けないでいる彼女許に、頼れる親友が教えを呉れた。
「案ずるな。茜の分も覚えている。こっちだ。」
全く有難い存在だ。莢子は己にとっての親友の姿を鈴に重ねた。翠の世話焼きは、まるで心配性な母親の様に、何時でも周到だった。
翠……。そうだ。彼女の許に、帰ろう。
親友こそが人間界の象徴であるかのように、その姿を心にしっかりと刻んだ。
鈴に連れられて移動しながら、配膳を見ていく。七の空では全ての膳が横に並べられているが、一の空では中央を開けて左右に分かれている。また、揃えられたその膳は、やや斜めに置かれてあった。誰もが中央の雛壇に注目しやすいようにしてあるのだろう。
皆一様に膳の数を指さしながら数えている。ある者はこれで幾つ目だったかを失念して初めから数え直す羽目になっていたし、またある者は官吏が持っている席表を何度も確認に行っている。
その中で鈴に連れられて莢子が案内されたのは、一の空でも半分から切って前の方だった。ところが、彼女をそこに残していく親友の先を見てみれば、彼女は一の空のやや後ろ寄りだった。
頼みの綱と離れてしまい、一層の不安に襲われる。隣に居てはくれないのか。一人で多くのことを決断しろというのか。華やかで賑やかしい会場にあって、莢子は孤独を感じずにはいられない。
それでも、すべきことをしている振りをしなければならない。主人の席となる敷物の後ろに座った彼女は、懐に仕舞った薬袋に服の上から手を置いた。
これを、決断しなければならない時が、もう直ぐ来る。それでも、異世界のことだ。人間界では犯罪者にはならないだろう。問題なのは、この罪を自分自身で許せるか、なのだ。
誰かの為に、誰かを殺すしか本当に手はないのだろうか。事が差し迫っていると言うのに、彼女は未だ迷っていた。
煙の彼は、この作戦を本当に知っているのだろうか。時読の許で請うた願い。解放してくれないかと、彼は言った。莢子にはその力があると言った。その彼が賛成したとは、何故か思えない。
ふと引かれたように顔を上げて視線を向ければ、やや対面するような位置に清珆がいたのを発見した。互いが互いにそれぞれの位置で斜め前を向いて座っている。だから、どちらかと言えば、前よりも横だ。彼女の視線に気付いたのだろうか、彼も目を合わせると微笑んでくれた。
暗い気持になっていたから、その微笑みには力があった。慰められ、力が抜けて行くような気持になる。莢子は薄い笑みを返した後、奈多はどこだろうと気になって会場を見渡した。すると、彼は七の空の方を歩いており、誰よりも遅れたように、ようやく席が分かったところらしかった。獄に居た彼も、事前に座席表を確認することが出来なかったからだろう。
彼はあんなにも遠くなのかと、その行動を振り返るようにして見守っていた莢子に、彼もまた気付いたようだった。腰を下ろしかけていた彼の視線がチラリと向いた。それが彼女のものとぶつかると、律儀に体を伸ばし直して元気よく手を振ってくれた。
この世界にも、あんな無邪気な子がいるのだ。そう微笑ましくなり、莢子はそっと手を上げて、小さく振り返した。見た目、年の頃が似通った唯一の存在だ。それだけで心強くもあった。
この遣り取りに満足した彼は、横並びになった膳の最前列、その中央に座った。
全身を震わせるような轟音が鳴り響いたのは、それから更に四半刻は経った頃だった。
突然、銅鑼が打ち鳴らされた。途端に一同は居住まいを正し、緊張の面持ちへと変わる。銅鑼に僅かな悲鳴を上げてしまった莢子は、彼らの様子を見、慌てて自身も身なりから整え始めた。向かい側では彼女の様子に、清珆が笑いを堪えていたとは知らなかった。
官吏が声を張り上げた。
「亥の刻であるっ。只今から入場を開始するっ。」
条に待機していたのだろうか、控女が各所の入り口の幕を一斉に開けた。そこから入ってくる家人の数々。その中には御前勤めをしていない下界担当の召人らもいたが、下界に暮らす同族の一般人は、ここには招かれていない。しかし、彼らには彼らにで、祝いの料理が御殿から振舞われていたから、お祭り騒ぎになっていることだろう。
上座から入る者、下座から入る者、位に合わせてそれぞれが雪崩れ込んで来る。とは言え、その全ての召人に外民が付いている訳ではないらしかった。
また、入室するのを見ていて初めて分かったのだが、女性陣は全ての者が七の空に入って行く。だから、奈多の主人は女性であると知れた。
ところが、彼の席には一向に誰も座らない。それだけではなく、彼の主人の両隣の幾つかも空いたままである。
身を固くして周囲の動向を窺っていた莢子に、ふと人影が差した。脇見をしていた彼女は我に返り、体の芯に緊張を走らせた。この人が、茜を捕まえた人…。
彼は遠慮も挨拶もなく、ドカリと莢子の前に腰を下ろした。顔も知らない相手、顔も見えない相手。その背は大人の男性のものであり、彼女は途端に恐れを抱いてしまった。
自分は下民として、どうしたらいいのだろう。莢子はキョロキョロと左右を窺った。まだ誰も給仕する気配がない。それは料理が出されていないから、という理由ばかりでもないようだ。
大人しく待っていると、移動が完了したのだろう、今まで仕切っていた官吏さえも席に着いてしまった。そして、上座の近くに座っていた一人が立ち上がり、中央前方に出た。
見憶えのない顔だ。ところが、声を聞くと憶えがあった。民に会した時に、一番初めに号令を掛けた声のようだった。
「只今より、我らが王の祝宴を始めるっ。各々方、今宵は盛大に楽しもうではないかっ。」
一斉に、「応っ」という男性陣の野太い声が上がった。一際耳をつんざく様な筆頭者は、あの小父さんではないか。何時か光の飛ぶ道に同行すると言ってくれた、豪胆で無骨漢な彼だ。
莢子の席からでも、彼の姿は容易に目に入った。対面する席の最前列、つまり中央側、しかも、最も上座、つまり雛壇側にいる。
では、もしや……。莢子は自分側の一団の右端を、隙間を縫って探した。最前列に、あの小父さんを邪険にしていた男性の横顔が僅かに覗いた。二人共、背後に外民を持っているようだ。
彼女が気を取られている間に、入り口の幕がまた開かれ、奥から料理が運ばれ始めた。大きな机にずらりと並んだ色とりどりの料理。それを一台につき何人かの女人で移動させている。机は中央に開いていた通路の端から端まで何十台と並べられたが、半分以上は酒の入った瓶(かめ)が乗っているようだった。
本当に全ての召人が勤めを離れるらしい。運び終えた女人らさえも、順に七の空にある最後尾の席へと行ってしまった。
料理はこの度も中央に置かれているそれらのみで、自分達で取ってくるというセルフ形式らしい。外民を所有していない者は、それこそ自分で取りに行くのだろうか。まるで立食パーティだな。この時代感には予想もしていなかった会食の仕方に、莢子は不思議な思いになった。
それでも、予め膳に置かれていた銚子にだけは、既に飲み物が入っていたらしい。家人の一同が杯を手に取った。莢子は左右にいた外民が酌をしようとするのに気付き、慌てて自分もそれに倣った。
主人の横に出て、見様見真似で銚子を持つ。急須のような形ではなく、円筒形に近く、茶器のような蓋が付いている。塗り物に蒔絵がしてあり、多少長めの柄が横に付いている。
初めての酒器での、初めての酌に、莢子の作法は何もなっていない。右手で柄を持ち、左手で蓋に手を添えもせず、主人が掲げる杯に酒を注いだ。慣れないことに緊張が増し、手が震える。自分の体を上手く制御できなくて、なみなみと注いでしまった酒に気付いた時には遅く、杯から溢れさせてしまった。
ハッと息を呑んだものの、事前に持つように言われていた半紙を思い出せたのは運が良かった。銚子を膳の上に戻し、懐から取り出そうと手を入れた。けれど、相手は左の手をちょっと上げて、それを制した。
「よい。このままにしておけ。どうせ浴びるほど飲むのだ。」
その声は冷たかったが、言葉は寛容だった。けれども、莢子は相手の顔を見ることも出来ずに、初杯の酌を終えた他の外民に合わせて、主人の背後に戻った。
祝杯を手にした一同に、乾杯の声が掛かる。
「我らが王にっ。」
と、言えば、
「我らが君にっ。」
と、唱和が起る。
男達は杯を一気に飲み干した。そこから始まる朗らかな談笑。外民たちが一斉に動いた。どうやら主人に対して、料理は何を取ってくればよいかと聞いているらしい。
莢子はまたもや慌てて、再び男の横に回った。
「あ、あの、料理は、どのようなものがお好きですか。」
以前、自分が受けたことを懸命に思い出しながら聞く。相手はこの度もすげなく返した。
「暫くはいい。横にいて酌をしていろ。」
それでは後ろに帰ることも出来ない。莢子は息の詰まる思いで、男が杯を自分に向けるかどうかに気を配らなければならなくなってしまった。
そこへ、あの大声が聞こえてきた。
「王が来られる前に余興を見せる者はおらぬかっ。今なら下手を打っても悔やむことはないぞっ。」
周囲から笑いが起こる。対面からは鋭い野次が静かに飛んだ。
「お前が腹芸でも見せればよかろう。
意味を解釈できないだろうという皮肉を込めて挑発する。相手は意を解せたのか解せなかったのか、どちらにしろ何時ものようにガハハと笑い飛ばし、こう広めた。
「それは良い案だっ。誰か、臍で茶を沸かす者はおらぬかっ。褒美をやるぞっ。」
「
会場が湧いている。莢子は相変わらずのコンビを見て、心が和んだ。思わず声を漏らして笑ってしまう。すると、主人の視線に気付き、慌てて口を閉じて下を向いた。
俯いていると、隣から声が掛かった。
「祝いの席だ、咎めるものか。好きに笑え。」
やはり口調は冷たいが、案外良い人なのではないだろうか。莢子は目を瞠って、そっと彼を窺った。
初めて相手の顔をまともに見てみたが、男は口髭を生やしていた。それでも更に注視してみると、肌の感じから意外に若いようだということも分かった。まあ、妖怪の類なら、見た目と年齢は釣り合うはずもないだろうが。
生真面目そうな顔をしており、笑うことがあるのだろうかと思えてしまう。今もあの男達の遣り取りで会場が湧いたというのに、にこりともしなかった。
杯を向けられる。莢子は慌てて銚子を持つと、求められるままに注いだ。
それにしても、まだ始まったばかりだと言うのに、この男の飲む速さには心配が湧いてくる。浴びるように飲むとは言っていたが、その通りだ。次から次に杯を空けてしまう。もう空になってしまった。
少ししか注げなかった杯に、またもドキリと緊張が走る。莢子は銚子を持ったままふためいて、中央に置かれた料理台に目を向けた。瓶には酒が入っていそうだが、彼女には確信が持てない。もしそうだったとしても、瓶ごと持って来ればいいのか、銚子を持って行けばいいのかも分からない。
苦し紛れに清珆に縋るような視線を向けた。折よく気付いてくれたのだろうか、相手も顔を向けて、と思ったその時。
「それを持って行け。瓶の下の方に注ぎ口がある。口の上に栓がしてあるから、それを抜けば酒が出る。栓を戻せば酒が止まる。」
急に話を振られて、暫時理解が追い付かなかった。反射的に主人に視線を移した莢子は、清珆がこちらを見てくれたのかは分からなかった。けれど、どちらにしても、今必要な助けはもらえたらしい。彼女は特急で過ぎて行った助言を記憶の中で引き戻し、銚子に酒を足す方法を理解しようと努めた。
確認のために質問したかったが、気安い相手ではないのでしり込みする。実際に瓶を見ればどうにかなるだろうと見込んで腰を浮かした。そうだ、ついでに料理の方も尋ね直してみよう。
「あの、料理も何か持って来ましょうか。飲んでばかりでは、体に良くないと思いますし。」
何故か、相手がピタリと固まってしまった。その反応に莢子はまたも冷や汗を噴いた。余計なことを言ってしまった、と後悔する。お酒だけ取りに行きますと訂正するため、慌てて口を開いたのだが、
「そうか…。では、何か腹に良さそうなものを頼む。」
と、意外な答えが返ってきた。
余りにも予想外のこと、莢子はその返答もまた、呑み込むのにちょっとの間を要してしまった。それから慌てて立ち上がると、中央の料理に向かって出た。
ところが、彼女は直ぐに引き返してきた。膳に用意された器を持っていなかったことを思い出したからである。
顔を赤くして、左手に銚子、右手に器の一つを取ろうと手を伸ばせば、主人自らがその一つを差し出してくれた。
「存外、慌て者なのだな。」
莢子は恥じ入りつつも情けなく、その評価を貼られてしまった茜にも詫びて、それを受け取った。
中央の料理台の前に立てば、ようやくここまで来られたか、というような疲労感。瓶が並ぶ台の上に器と銚子を置き、その内の一つを観察する。なるほど、瓶の腹の下の方に、注ぎ口がある。瓶自体には専用の足が着いており、台から浮かんでいる。上輪五徳の環の中に瓶の腹がはまっているような形だろうか。環の下に取り付けられた足は四本で、環を含めた全体が金属だった。机に傷がつかぬようにとの配慮もあってか、酒瓶の机にはラシャのような毛織物の布が掛けられていた。
五徳で足が長くなった瓶の下に銚子を置く。その蓋を取って、注ぎ口の下に来るように位置を合わせた。注ぎ口は変わった作りで、上と下に穴が開いている。上から木の栓がしてあり、それを上に引っ張り抜くと、口の下から酒が流れ出るようになっている。上から栓を押し込め直せば止るという仕組みだ。栓はコルクのような柔らかさがあった。
どうにか酒を足すことが出来、胸を撫で下ろす。実際に行ってみると、主人が先程呉れた助言は、かなり親切なものだったことが分かった。寡黙で厳しそうな態度なのだが、端々にそれ以外の面が見えてくる。
重くなった銚子を手に、器を持ち直して料理の机へと向かう。どれがお腹に良さそうかと選んでいれば、同じようにしてやって来た清珆が、莢子の許に寄ってくれた。声を掛けられてホッとする。
「大丈夫ですか。上手くやれていますか。」
途端に、泣きつきたくなるような思いが湧く。眉尻を下げた顔で莢子が視線を返した。それを受け取って、相手もまた困ったように微笑んだ。
「どんな料理を探しているのです。手伝いましょうか。」
莢子はパッと顔を明るくして、腹に良さそうなものを頼んだ。彼は一つの皿を指し、あれが良いと進めてくれる。礼を言ってそれを取ると、幾分楽になった気持ちで席に戻った。
「お待たせしました。これをどうぞ。」
打って変わって和やかな口調で料理を進めてきた茜に、男はチラリと冷たい視線を送った。そして、聞く。
「今話していた男は、同郷の者だったな。お前の、
険を含むようなその声色に、莢子は再び身を固くしてしまった。何か、気に障ることでもしてしまっただろうか、と怯える。相手はきっぱりと告げた。
「お前は私のものだ。忘れるな。」
ヒヤリとした。彼女は不覚に固唾を飲んでしまった。突き出された杯に対し、再び震えそうになる手で酌をする。すると暫くして、ぼそりと聞こえた。
「…済まない。」
それだけを言ったまま、彼は黙って杯を空けた。
……多分、不器用な人なのだ。この人を、本当に殺すのか。
莢子は胸に手を当てた。決断の時が迫っている。これだけ飲んでいる人なら薬を盛っても、飲ませるのは訳ないだろう。だが、どうして……。温和に事を終わらせることは出来ないのだろうか、誰もが。
夏の宵に見る夢 君影抄 @Maby3
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