第29話

 後は、時を無駄に過ごすだけだった。

 周囲の馬鹿騒ぎは拍車を掛け、それでも与えられた時が半分も過ぎれば、酔いを覚ます為に寝床に戻る者が大半だった。残りの者達は穏やかに会食を続けている。

 莢子達はと言えば、一旦青年と別れて「二のけい」に来ていた。驚くことに、外民には専用の浴室とレクリエーションの場までもが設けられていたのである。

「どうして、下民にここまで。」

素直な驚きを口にする莢子。鈴は顔を歪ませながらも答えてくれた。

「敵を褒める義理は微塵もないが、ここの王は、呆れるくらいに善政を布いている。本当に、呆れ果てる程だ。」

 言葉ではなじっていても、馬鹿にしきれない実績は認めざるを得ないのだろう。莢子は再び素直な感想で返した。

「本当に、良い王様なんだね。」

 鈴は素直になり切れない。どうしても悪く見たくて、こう反論した。

「だが、それこそが奴の手かもしれない。こうして敵をも懐柔する気なんだ。見ろ、誰もが策に溺れて腑抜けになっている。」

 彼女が手を向けた二の境は、このようになっていた。囲いの内部に仕切りは無く、あちらには男女別の浴場が、こちらには公園が、またそちらには寛ぎの場所が広がっているのが見える。ここでは午睡しようが本を読もうが談笑しようが自由らしい。誰もが満足げに平安を享受しているようだった。

「これだから逃げ出そうとする気概のある奴がいないんだ。逸れの身が辛くて、自らこの国の外民に落ちてくる者がいるほどなのだからな。」

吐き捨てるように鈴が言う。主人を持たない外民の中には、単に蜘蛛の王に隷属しようとする者も含まれていた。

 策か……。それなら、それの方が、気持ちを割り切れていいのだが。莢子は王を憎み切れなくて残念に思った。

 

 それから時は迫り、周囲が慌ただしくなってきた。どうやら亥の刻に近付いており、そろそろ身支度に入らなければならないらしい。多くの者が風呂に浸かりに集まっていた。

 しかし、莢子達は一足先に身を清めていたので、混雑を避けることが出来た。人の皮を借りている莢子は、湯に浸かるだけにしておいた。

 準備が整った者から、一の境に集まって行く。彼らは普段着よりも少しだけ質の良い服を着ていた。だから、上着の袖は窄(すぼ)まってはおらず、召人と同じように開いていた。

 集合しつつあるとはいえ、まだ定刻には早い。それで、会場にいる者達はまだ列を組まずに、好き好きに群れてはお喋りしていた。

 莢子達も早めに会場に入ったが、それよりも前に来ていた清珆の姿をそこに認めた。だから、彼女達は連れ立って彼の許へ向かった。

 と、そこには、もう一人別の男性が立っていた。あれが、例の奈多という人物だろうか。

「準備は抜かりなく済ませて来たか。」

清珆が尋ねた。

「ああ。解放されたのか。」

肯定した後、鈴がもう一人の男性について尋ねれば、相手はおどけたように返した。

「いやあ、すっかり忘れられちゃってると焦ったね。一晩の拘留だって言ってたのに、仕方ないから獄から叫んじゃったよ。出してくれ~、って。」

 鈴は半眼で答えた。

「そのまま入ってろ。」

「そんなぁっ。俺だけ締め出すのなしだよ~っ。」

「誰も置いて行かないから、落ち着きなさい。」

と、清珆が割って入る。そこで莢子に視線を向けると、奈多を紹介した。

「この煩いのが奈多です。どうか大目に見てあげてください。直らないのです。」

 莢子は思わず笑ってしまった。自分と同じ年頃の男の子。長めの髪をポニーテールにしている。元気な子犬の様な子だ。

「止めてよ。茜さんに笑われちゃったじゃないかぁ。」

と、不貞腐れて非難する。

 清珆はこれを否定して、確かめるように言った。

「今は彼女ではない、と分っているよね。」

 すると、茜に化けた莢子に紹介された件(くだり)を聞いていなかったのか、思い違いをしていたようで、アッと声を漏らした。どうも見た目に騙されて、入れ替わっているのか本人なのか混乱してしまったようである。

 それを見て、年長の二人が溜息をついた。

「これだから、お前は信用が無いんだ。」

そう鈴が愚痴ったが、相手はお構いなしである。

「へえ、どこから見ても茜さんにしか見えない。凄いなぁ。中身はお姫様なんだねぇ。初めまして。」

呑気な感想を口にする。

 莢子はペコリと頭を下げてこれに応えた。

「初めまして。私、さ、」

ムグッと口を塞がれてしまった。鈴の手が莢子の口を封じたのだ。彼女は耳元で囁く。

「まさか、自分の名を口にしようとしたんじゃないよな。」

 莢子は拘束されながらも首を上下に動かした。すると、相手から次のように忠告された。

「軽々しく明かすものじゃありません。命取りになります。」

 対面に立つ清珆が付け加えた。

「ここでは自分の真(まこと)の名は命の次に重要なのです。それは己の命を助けるものである一方、敵が用いれば自分の身を好きに使われてしまう危険ともなり得るからです。」

「びっくりしたぁ。ごめんね。危うく言わせちゃうところだった。」

奈多が詫びる。

 同じ感想を莢子も抱いた。知らずに、危うく明かしてしまうところだった。皆通し名を使っている訳である。この世界では、名がそれほど重要な意味を持っていたのだ。

 そう言えば、ここに来てからというもの一度も名乗ったことがなかった、と気付く。その必要さえなかった。誰もが自分のことを姫と呼び、名は要らなかったから。

 同じように、王の名も聞いたことがなかったし、煙の名も聞いたことがなかった。それでずっと不便が無かったのだから、可笑しな話かもしれない。だが、人間界では名など、誰もが幾らでも呼んでいる。

「婚儀の際は、それを互いにだけ明かします。お互いに命を預け合うのです。まあ、それは普段の婚儀の場合ですが。」

 その言葉に意識を引き戻されて、莢子は清珆を見た。それでも続けたのは鈴だった。

「勿論、茜はお姫様の名を知らない。だから、今回の契約は元から履行されないだろう。どの婚儀でも偽りでは成立しないようになっているんだ。とは言え、古の契約だからね、名を交わすかは知らないが。」

「だからこそ、企てが明らかになる前に、事を起こしたいと思っているのです。」

清珆が続いた。

「けど、王の名は知りたいかな。それからでもいいんじゃない。そうすれば、相手の弱みを握れるからね。」

と、奈多は言う。

 確かにそうだ。名が命取りならば、それこそを盾にすればいいのではないだろうか。そうすれば毒を盛らずに済むかもしれない。傍で聞く莢子は、期待に目を大きくした。

 けれど、清珆の丁寧な説明によって、奈多の意見は直様否定されてしまった。

「残念ながら相手の力が強ければ、それと同等、あるいはそれ以上の力を持っていなければ、何の効力も及ぼせないのだよ。」

「まさかそんなことも知らないとか、言わないよな。」

呆れ返った鈴は、最早おののいている。

 相手は憤慨したように返した。

「俺じゃないよっ。兄貴が使うんだよっ。それくらい知ってるって、もうっ。」

 ところが、これもまた清珆によって反論されてしまった。

「煙にそれを伝える前に、偽りが知れてしまう。王の名を知った茜は殺されるだろう。」

「じゃあ茜さんにさ、知ったと同時に会衆に向かって名を叫んでもらう、とか。凄いことになりそうだよね。」

奈多が茶化して提案すれば、

「王はそれを聞いた者を、ことごとく殺すだろう。」

と、すげなく返されてしまった。

 あの優しい王がそんなことをするだろうか。莢子にはにわかに信じられなくてそれを心内で否定した。けれど、あたかもそれを見越したかのように、鈴が清珆の意見を肯定した。

「うん。如何な賢王と言えど、即座にそうするしかあるまい。私達も殺されるな。」

そう言う割には、あっけらかんとしている。

 莢子は子供の様に聞いた。

「皆、百人力なのに。」

 すると、鈴は声を立てて笑い、愛情を込めて架空の宣言をした。

「そうだったな。では、精一杯健闘しよう。」

 これに奈多が加えた。

「兄貴がいれば、へっちゃらさ。御殿の王よりも強いんだから。」

「そうだな。」

清珆が優しげに返した。

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