第28話
さて、莢子にとっては昼だったが、実のところ御殿にとっては夜だった。彼女はまんじりともしないその夜を厠の隅、草の上で明かした。
それでも度重なる緊張と疲れからだろう、莢子はようやくウトウトと船を漕ぎ始めていたところだった。
そこへ、入口の方から呼び声がした。
「お姫様、お姫様。」
女性の声であり、例の鈴とやらがやって来たのかもしれない。
しかし、その潜められた声では、今の莢子には届かない。彼女はまだ船を漕いでいた。
対する鈴は手前の個室から一つ一つ扉を開けて確認し始めたらしい。それでも御殿が明けた今は明かりが点いており、彼女は容易く人の有無を見極められるようだ。だが、莢子は厠の一番奥に居る。それで鈴は今しばらく、順に個室を覗く羽目になった。
その扉の開閉の音が、莢子の意識を釣り上げてくれた。彼女はパタパタとする音に引かれて瞼を上げた。
その時になり、居眠りをしていたのだと自覚した。音の方へ顔を向ければ、一人の女性の姿を見つけた。奥から順に、個室の中を調べているらしい。後から来てくれると言った、例の鈴さんではないだろうかっ。勢いよく立ち上がると、そちらへと走り寄った。
突然奥の方から立ち始めた草を分ける音に、鈴は覗いていた個室からヒョッと顔を覗かせた。見間違えようもない見慣れた相手の姿を認めると、彼女も足早に近付いていく。互いは中間付近で対面した。
「お姫様だね。」
相手は尋ねるけれど確信している。莢子が頷く前に話を続ける。
「見つかって良かったよ。さあ、こっちだ。」
余程急いていたのだろう、言いながら、もう手を引いて厠の出入り口を目指し出す。莢子は鈴の手によって開けられた帳を越え、「渡り」に出た。
それからまた手を引かれて、通路の奥へと向かう。まだ一度も進んだことのない方向、「三の条」だ。そこに突き当たると左に折れた。それから真っ直ぐに進んで環条に入り、詰所の官吏前を抜ける。
そこには数人しかいなかったが、彼らに姿を見られることに莢子は緊張した。だが、今は外民が辺りを歩いていても不思議ではない時間帯なのだろう、官吏の注意が二人に注がれたのは僅かだ。外民の服を纏い、茜の皮を着ている莢子は、彼らから何も言われなかった。
「一の条」の奥へと進み、左側にあった戸口から「一の境」に入る。勿論、帳がある為に、今度も親友がそれを開けた。
広いホールの中には、列を成した人の群れがあった。会場はざわめいている。鈴は一度離した手をまた引いて、群れに向かって足早に進んでいく。
一瞬錯覚してしまった。ここは王と共に家人らと会した、あの大広間と同じ造りだったから。おまけにここにも雛壇の様な高い台座が環条側に同じく設けられており、階層を飛び越えたかのような感覚を覚えた。けれど、雛壇の仕様は塗りではなく、王が使う物ほど立派でもなかったことが、莢子を落ち着かせた。
それに面するように、外民だろう服装の男女が性別に別れて、隊列を組んでいる。その数は部屋の広さに比べれば随分少なく見えた。
幾人もの官吏が列の間を行き来しながら点呼を取っている。鈴はその一つに飛び込むと挨拶をした。
「只今戻りました。」
早口に言うと、まずは莢子を列の中に押し戻した。それから少し後ろに戻って、自分用に空けられていた一人分の空間に収まった。
「うむ。厠に行ったのは一人ではなかったのか。」
成程、そのような設定になっていたらしい。
「はい。」
官吏が聞けば、鈴は即座にそれだけを答える。それで事は収まり、点呼が再開する。「にの二十四、ちの十七(しち)、だな。」
「はい。」
鈴がはっきりと答えた。
官吏は手にしていた台帳のようなものに印をつけると、列の後方、中断されていたところから点呼を続けた。
莢子は何事もなく紛れ込めたことに安堵の息をつく。ようやく周囲にも意識を配ることが出来るようになってきた。
男女が分かれて列を成しているので、周りに集まっている人達は女性ばかりだ。色に違いはあれど、皆同じ形の衣装を着込んでいる。
振り返ってまで視線を移すことは出来ないので、前方だけを窺う。一見して違和感を得たのは、召人の女人達とは違って、自分達の居る集団に服装以外の統一性がないことだった。下民は肌や髪の色に種々の違いがあるようだと分かり、もしや人種の違いで様々な国から奴隷のように連れて来られたのだろうかと恐ろしくなった。
全ての点呼が終わったのだろう、官吏の一人が前方の台座に上がって行く。そこから全員に向けて次のように伝令した。
「本日は、我らが君の婚儀が行われる佳日である。」
ドキリ、と跳ね上がる心臓。遂にこの日が来てしまった。血の気が引いていく思い。初めの衝撃が和らいでも、ある疑問が同じくらいの勢いで噴出する。
(え、三日って、もうなのっ。後二日あるって、言ってなかったっけっ。二日過ぎた次の日じゃなく、二日目ってことだったのっ。)
そう困惑するが、なにせ時間の感覚が全く得られない生活の上に、莢子は何度も寝落ちしている。最早今日が何日目なのか確信など全く持てない。
彼女の当惑を他所に、官吏の声は続いていく。
「よって、お前達にも褒美を取らせ、前日に申し伝えたように、今から亥の刻までは自由とする。各々祝いの席を各自で設けても良いことになっておる。故に、食事処も好きに使うがよい。」
どうやら今日だけは外民にも休みをくれるらしい。とは言え、但し書きが付け足されるようだ。
「尚、以前にも伝えたように、亥の刻までは自由と言っても、それまでには天空領に上がっておかなければならない。主人のある者は各々その方々に、ない者も同じように捕縛者を持たない方々に給仕することになっておるから、四半刻前にはここに集まっておるように。また身なりも祝宴用に変え、無礼のないように整えておきなさい。」
「畏まりました。」
一同がそれに答える。莢子も慌てて頭を下げる。
それから最後に、官吏はこのようなことを告げた。
「精一杯主人に礼を尽くすがよい。さすれば恩赦が与えられ、身を解かれるやもしれんぞ。では、これにて仕舞いだ。散るがよい。」
官吏が台座を下り始めると、一同は途端にざわつき始めた。列は徐々に乱れ、話の声は大きくなっていく。官吏らはゾロゾロと前方の出入り口から去って行く。
莢子が茫然と成り行きを見守っていると、直ぐに鈴が来てくれた。
「
そう言われたので、大人しく付いて行く。会衆は官吏の使った前方以外の戸口から、各々好きに出て行き、好きな条を通り、食事処へと向かった。
三の条、四の条の左右から、厠の向かいにある食事処へと、外民の一行が入っていく。それも入口が二手にあったから、左手から、右手から、ここでも皆好き好きに分かれていた。
中では早速、女性の有志らが率先して調理場に集い、紐でたすき掛けにし、腕まくりを始めている。その傍ら、男性でやる気のある者達は、前日に用意していたのだろう、酒樽を奥から担ぎ出していた。
「ご主人様の前に出るんだ、溺れるなよっ」。「恩赦だ、恩赦がふいになるぞっ」。
野次が飛び、笑いが起こる。ご主人様と言う割には、その言葉は茶化されているようだ。
活気のある様子に、莢子は多少面食らった。外民と言う言葉、彼女はそれを下民と、奴隷のようなものだと誤解していた。それもそのはず、誤解している言葉自体もそうだったが、今まで彼女が接してきた家人らの言葉の端には、明らかに彼らに対する蔑みが含められていると感じていたからだ。
にも拘らず、想像していた待遇とも様子とも全く違う現実が目の前に広がっている。もっと暗く、惨めな思いをして、それに耐えるばかりの日々なのだと思っていた。今日が特別だからだろうか。
鈴は莢子の手を引きながら、誰かを探していた。「居た」との声が立ったかと思うや、彼女は手を上げて自分の存在をアピールした。
彼女の視線の先を辿れば、見たことのない、青年。年上だからというのではなく、落ち着きのある所作と表情をしている。
「無事に会えましたね。ちゃんと、あなたですよね。」
莢子は声を上げてしまった。話し掛けられた声は、彼女を
「あの時は化けていましたから、この姿でお会いするのは初めてですね。因みに私の片手も茜によって、召人の一人の手に化けていたのです。それ故、連れ出す時に結界に触れても平気だったでしょう。」
それを聞いて、莢子はすっかり忘れていたことを思い出した。そう言えば、以前彼がこう言っていた。下民が幕に触ると、特別な反応が起こる、って。
正しくは、許可されていない結界に触れると、なのだが、今の今まで全く気に留めていなかった自分の抜かりに対し、今更冷や汗をかいた。成程、通りで男性にしては細くてきれいな手だったわけである。
それにしても、茜が厠で言ったことは本当だったらしい。彼女の施術は正確で、下民の存在を隠してしまう位に効力があるのだ。にも拘らず、自分はその皮を着ても尚、王が契約の印を探れば、見つかってしまうかもしれないと言った。
そう考えて、莢子は婚姻の契約の重さを実感した。これでは例え逃げ出せたとしても、直ぐに連れ戻されてしまうのではないだろうか。
彼女の心配を余所に、一同は近くにあった席に着く。まずは互いの自己紹介から始められた。
対して鈴の方は、姫である茜の付き人という役目であったらしい。幼少のみぎりから彼女の母が茜の乳母となり、共に育てられた仲、つまり乳飲み姉妹というわけだ。
けれど同い年ではなく、鈴の妹が産まれた際に、彼女の母は乳母となった。だから一層おこがましくも、茜を妹のように愛し、女官として、また護衛として尽くしてきたそうである。それ故、二人の繋がりは強く、青年と同じように仲間に加わったのだと言った。
また鈴の場合、茜が囚われた時、側にいてあげられなかったという後悔もあったらしい。その為、立場的にも人一倍責任感を抱いているようだった。
因みに清珆は煙にとっての乳飲み兄弟であるらしかった。乳母は鈴の母とは別の女性だ。それから煙の彼と、もう一人の仲間についても聞くことが出来た。
だが、話してくれたのは、ごく簡単なことだけだった。煙の彼は今の通り名をそのまま煙と言うらしく、茜の兄であること、それだけで終わった。
莢子は煙のことについてもっと尋ねたかったが、聞いてはいけないような雰囲気を感じたので、それが出来なかった。
残る一人の仲間は、年若い弟分のような者らしく、その通り名を
鈴が言った。
「煙はお姫様、あなたに賭けておいでだ。その理由を知らないが、煙が言われるのだから私達はそれに従う。」
随分信頼されているようだ。彼女は続ける。
「私はどうしても茜を助けたい。そして、二人を結ばせてあげたい。それが私の願いだ。」
男のように力強く宣言する。
対面している青年は、少しだけ弱ったように微笑んだ。莢子は単純な疑問を口にした。
「ここでは、結婚できないんですか。」
鈴は頷き、こう返した。
「そうだ。ここでは外民に権利はない。どれだけ互いに想い合っていようとも、捕らえた者の所有物でしかない私達は、何時までも個人でしかいられないんだ。」
「ただ…。」
言葉を濁して、青年が説明を加える。
「異種族による囚われの身に一度堕ちると、例え解放されたとしても、私達は仲間から蔑視され、疎外される身となってしまいます。故に自由の身になったとしても、茜を元の身分に回復することだけは、決して叶わないのです。」
これを聞くと、先程官吏が言った最後の言葉は、実は皮肉だったのだと理解出来た。鈴は拳を握り、顔を歪めた。
「悔しいっ。」
その唸りは、周囲の賑わいに掻き消され、誰の注目も集めない。成程、ここに集った訳である。
よく考えもせず、莢子は思った疑問を口にした。
「ここから逃げ出せたら、自分の国に戻らないってことですか。」
いや、知っている。時読が言っていた、煙の彼は国を捨てた、と。
頭の中で己の意見を翻していると、青年はその考えに同調するように答えた。
「はい。私達は元より
「はぐれ者。」
莢子は新たな単語に対して首を傾げた。今度は鈴が答えた。
「ああ。逸れとして生きるのは辛い。だが、私達は一人が百人力だ。皆で居れば、何も怖くはない。」
頼り甲斐のある態度だ。
成程、少数でも乗り込める勇気が持てたのも、分かる気がする。御殿側から、浅はかだと言い捨てられていたにしても、だ。
見た目彼女達は年上だったが、それでも自分の命を掛けて何事かを成そうとする姿に、莢子は素直に感動していた。自分の世界では、自分の生活では目に出来ない決意だ。
それでも青年は続ける。
「確かに、ここの暮らしは外民であったとしても過ごし易いことを知っています。御殿の下界であっても同じです。他の外民を持つ国では、決してこのようではないでしょう。実際、恵まれた状況故に、誇りを捨てている者達は多いのです。」
こう前置きをして、彼もまた決意を宣言した。
「けれど、その易き道には甘んじません。私は茜を取り戻します。清廉な彼女を他人の所有物などという、卑しい身のままにしてはおきません。」
「無論だっ。誇りは捨てぬっ。誰もが後悔を抱いている。必ずや、この機を物にしようっ。此度こそなっ。」
鈴が興奮して息巻いた。
それを削ぐように清珆が言う。
「まあ……、奈多はどうだか知らないがね。」
途端に、鈴も調子が萎えた。溜息を漏らす。
「あいつは、
聞きなれない言葉は字の如く、「『煙』と『楽しい事』を第一に置く主義」の意味である。鈴の造語だ。
「それでも腕は確かだ。今も犠牲になって、獄に入ってくれているのだからな。」
「ああ。連れて来たのは間違いではなかった。宣言通り、ちゃんと役に立ったな。」
と言うことは、昨日、階段の見張り番を攪乱してくれたことで、捕まって牢屋に入れられてしまったということなのだろうか。それを見込んで、清珆は奈多に化けていたということか。
莢子は獄と聞いて思い立ったように尋ねた。
「煙の彼は、彼も、牢屋に居るんですか。彼は無事ですか。」
彼女の勢いに、二人はちょっと目を瞠って見返すと、青年が先に答えた。
「はい。彼の場合は奈多とは違い、普通の獄に入れても煙となって逃げてしまいますから、隙間のない特殊な獄に入れられています。婚儀が終わるまでは、そこに閉じ込め続けられることになるでしょう。」
「そんなっ。」
莢子は声を荒げた。彼の身を案じたが、鈴は慰めるように言った。
「心配するな。数日くらい、大した支障にはならない。煙はあのお姿に化けてからというもの、輪を掛けて異種の存在となってしまわれたからな。一カ月は平気だろう。」
どこか呑気な様子に、莢子は固くなった身を解かざるを得ない。やはり、妖怪か何かの類だから、人間の基準には当てはまらないらしい。
話は核心へと入っていく。鈴が言う。
「案ずるな。私達は煙を取り返すつもりがある。既に手は打ってある。そして皆で、この国を出る。」
遂に、青年が計画を明かし始めた。それは思ったよりも、短絡的な印象があった。
先も聞いたが、外民は祝宴の席で、自分を捕らえた者の隣に付いて、給仕しなければならないことになっている。その機会を逆手に取って、酌に乗じて自分の主人に一服盛るとのことであった。つまり、相手を毒殺する。
莢子は息を呑んだ。自分が、誰かを殺す……。
清珆は言った。
「相手を殺さなければ、私達に自由は無いのです。本当に恩赦が与えられるなどと思っていますか。」
「この薬は苦しまず、眠ったように命を奪う。だから傍目には寝ているようにしか見えないだろう。だが、危険をなるだけ回避する為に、皆同じ頃に薬を飲ませることになっている。」
「それは、婚儀が始まる前です。十分に酔いが回った時、王達に視線が集まるだろう時を見計らい、飲ませます。」
この国の者ではない彼らが聞きかじった、式の大まかな流れとはこのようであった。
祝宴が開始されて半刻後、王と姫が入場して祝宴の席に着く。そこで一同と共に暫く過ごす。その後、月の光が最高潮に達した時に、珍しくも祝宴という気安い雰囲気の中、婚儀が執り行われる。それから酔い潰れて眠るまで、その宴は続いていくそうであった。
ここで、遂に莢子にしか出来ない役、入れ替わった意味が明かされた。
「婚儀の契約が履行されてしまう前に、あなたには人質になってもらいます。」
それは、驚くべきものだった。鈴が言う。
「お姫様、つまり茜であるあなたも含め、私達が自分の仇を殺した後、私達は皮を脱いだ茜、つまりお姫様を盾にする。」
「そしてあなたの命で、煙の命を王から奪い返すつもりです。」
清珆は続けて言った。
「ご心配なく。あなたを傷つけるつもりは微塵もありませんから。」
それを聞いても安心出来る筈がない、何とも力尽く、そして強引な作戦ではなかろうか。
何よりもまず、本当に自分が他人を殺さなければならないのだろうか。そして人質の件。煙を解放するのは自分にしか出来ないと、以前にも彼から言われたことがあった。だが、その意味するところは、本当にこの身を盾にすることだったのだろうか。
あの時は結婚を
様々な疑念と不安が彼女に重くのしかかる。以前から分かってはいたが、やはりこちらの人とは明らかに感覚が違うようだ。
それでも自分だけが拒むことは出来ないと分かっている。全員が一致しなければ、元の黙阿弥だ。それでも、莢子は思案した後に、こう提案せざるを得なかった。
「あの…、私が、私が最初から人質になるから、それで皆の自由を交渉できませんか。」
残りの二人は顔を見合わせた。各々予想する。
「あなたが王にとって特別なことは知っています。ですから、あなたを盾にすれば、私たち全員と引き換えることも可能かもしれません。ですが…。」
「それでは弱い。」
鈴が断言した。
「そうです。全員が拘束される危険のある中、やはり無理です。私達が一斉に拘束されてしまえば、あなたを人質に取ることも出来なくなりますからね。」
「ああ。王一人と交渉が出来るなら、話は違ったかもしれないがな。全員が集っている所では、無謀な話だ。」
莢子は閃いたように言った。
「じゃあ、今から私達で王に会いに行くのはどうですか。」
頓狂なことを言い出した。青年達は目を丸くする。彼は困ったように微笑みながらこれに返した。
「今また見張りを欺くのは、難しいです。とは言え、確かに彼らを含めた召人の全てが、祝宴に招かれて完全に引く時刻というものがあります。ですが、その時には私達も祝宴の席に着いていなければ怪しまれてしまいます。やはり無理があるでしょう。」
そう、御殿全体が完全に封鎖され、守衛という守衛までもが祝宴に招かれるという危険な時間帯がある。
しかし、それは彼らが内部の紛争を完全に制圧できる拘束力があること、また外部からの急な敵に対しても、即座に鎮圧出来るだけの完全な自信があるからこそ可能なことだった。
提案を否定され、莢子は視線を落とした。自分一人で王の許に、とも考えたが、言い出せそうにない。
その様子を隣で見ていた鈴は、そっと片手を莢子の方へと、机の上に滑らせた。ただそれは、彼女を慰める手ではなかった。
「これを渡しておく。相手に飲ませるものだ。」
莢子はハッと目を見開いた。それを受け取りたくない。彼女は鈴の手を見詰めたまま動かなかった。
対面から青年がこのような提案をしてきた。
何でも、姫が席を立つ時が二回あるそうだ。一つは婚儀の前。祝宴用の服から婚礼用の服に変えるらしい。それが終わった後、祝宴用の別の服に再び変えるという二回目があるらしい。
清珆が続ける。
「もしあなたが出来ないと言うなら、婚儀前に茜と入れ替わり、式が行われた後、再び茜と入れ替わるということも出来るかもしれません。つまり茜本人が相手を殺し、人質になる時はあなたという寸法です。
厠で二度、お互いを取り換えなければならなくなる訳ですから、その分危険は増すでしょうが。」
莢子は目を上げた。彼は続ける。
「ただその場合、茜が仇を殺すのは儀式の最中ということになり、あなたは滞りなく王の妻となってしまうでしょう。契約から来る婚儀ですから、履行された後でそれに背くことは難しいと見ます。
とは言え、実際に古の契約が果たされるのを目にするのは私も初めてですから、何とも言えませんが。」
莢子は敗北感を味わった。確かにそれは嫌だ。何が嫌かって、式を挙げておきながら、相手を裏切ることである。裏切る為に式を挙げるのだから。
けれど、この結婚は何もかも、人間界に照らし合わせれば無茶苦茶なものだった。始まりから理解できない方法だった。掛けられた謎を良しとしたから結婚が決まったなどと。しかも相手を全く見もしない内に。何一つ有り得ない。
とは言え、だが、とは言え、それを裏切りの理由には出来ない。大人しく式を挙げておきながら、終わった直後に背くなど、人間界に照らし合わせても非道なことだ。
それなら、初めから式を拒む。けれど、この作戦では、それが出来ない。
煙の仲間達のことを考えなければ、自分のことだけしか考えなければ、それも出来たかもしれないが……。
莢子は色々な柵(しがらみ)から、何時の間にか自分のことだけを優先させることが出来なくなってしまっていることに気が付いた。
彼女の立場にしてみれば、この世界の人達こそが非道、何もかもが自分勝手でしかない。彼女は純粋に巻き込まれてしまっただけである。だから、冷たいと思われても、切り離して保身に走っても許されるのではないだろうか。
だが、相手が目の前に、確かに存在している。そして、係わってくる。おまけに自分からも係わらなければ、もう人間界にも帰れないのだ。
莢子は自分の境遇を恨んだ。クモを、あの時クモを、助けなければ良かったのに。至った思いは、これだった。
思考の片側から清珆の声がする。
「あなたには済まないことを求めているのは知っています。それでも、私達を助けてはもらえないでしょうか。私達も、あなたをここから助けます。」
鈴も迫る。
「頼む。もうこの機会しかないと思っているんだ。だから…。」
それでも、誰かを殺す。その決断は余りにも重く、非日常的なこと過ぎて、莢子は呑み込めない。けれどややあって、彼女は鈴の手に隠された薬を密かに受け取った。流れに、押し流されてしまって。
相手は目を輝かせて礼を言ったが、莢子はまだ承諾してはいなかった。持っているだけだ。ただ、持っているだけだ。そう己に言い聞かせ、罪悪感をなだめた。
「では、当初の企て通りに。」
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