第27話

「さーこ、さーこ。」

「なあに、翠。」

「大人になったらさ、結婚するでしょう。」

「さあ、かもね。」

「そしたらさ、同い年の子供、産もうよ。」

「なあに、それ。」

「それで、同じ幼稚園通わせて、同じ小学校通わせるの。」

「そんなにうまくいくかなぁ。」

「いいの、いいの。それでね、子供が私達みたいに、親友になるのよ。」

「なったらいいけどね。」

「でしょ、素敵でしょ。絶対いいよね。」

「はい、はい。」

「さーこ。」

翠が珍しく子供みたいに嬉しそうに笑って言った。

「一緒にお母さんになって、た~くさん、子供産もうねっ。」


「みどりっ。」

 まるで瞬きをしてから、開けただけのようだった。莢子は覚醒と同時に、それほど敏捷に跳ね起きた。

 だが、辺りは只今見ていたばかりの風景とも、明るさとも異なっていた。だから魔術に騙されたように、不思議な思いが彼女を呆けさせてしまった。

 そこに、静かな声がした。

「帰って来たよ。」

それきりしか言わなかった。それでも彼女は我に返って声の主を探した。室内は仄かに明るかった。

 右に顔を向ければ、御殿の主がいた。視線がぶつかった二人は、しばし無言で見つめ合う。初めに口を開いたのは、彼の方だった。

「今はまだ起きるに早い。もう暫く、眠っていてはどうだ。」

ゆっくりとした口調で、そう勧めてくる。

 莢子はすっきりと目覚めたようでいて、その実、頭の中はまだ眠っているのだろうか。先程のような勢いはどこへやら、反応がすこぶる鈍かった。それで未だに相手の目から視線を外すこともなく、ひたすら見詰め続けていた。

 再び下りる沈黙。男も目を離さない。彼の方も何を思っているのか読み取れない表情だ。おもむろに口を開いたのは、今度は彼女の方だった。

「ご主人様は、寝ないんですか。」

 これを聞くと、彼はどこかホッとしたように薄く微笑んだ。優しく返す。

「眠っていたよ。」

それからこう付け足した。

「ご主人様…は、止めてくれないか。私の方が、そう呼びたいくらいなのに。」

バツが悪かったのか、男は珍しく視線を逸らした。

「え、と、でも、何て呼べば…。皆さんの手前もあるし…。」

気安く呼んで老婆に叱られたくはない。

 男がそれを読み取ったかは分からないが、解決策の一つを提案してくれた。

「では、蓮花れんかと呼べば良い。」

「れんか…。」

恋歌だろうか、恋花だろか。と、莢子は思ったけれど、成人男性には可愛らし過ぎる漢字だから、違うに決まっていると思い直す。男は微笑んで頷いた。

「私の通り名だ。」

 そういえば名前を聞いていなかった。通り名とは、渾名あだなのようなものだろうか。つまり、愛称で呼んでほしいということだろうか。莢子はお門違いの予想を立てる。

「分かりました。それで呼ばせてもらいます。」

 そういえば、自己紹介をしただろうか。だが、今更フルネームを伝えるのも気恥ずかしい。それよりは流れに乗って、自分も何か愛称を提案した方が良いのだろうか。

「さっちゃん」とか、「さーこ」とか、皆が呼んでる「さや」とか、……翠が呼んでくれる「さーこ」、とか。

 体を横たえたまま漠然と布団の端を眺めていた莢子の目から、にわかに涙がポロリ、一粒零れ落ちた。

 ああ、結局元の世界には帰れなかったんだなぁ、という感慨。未だ凪いだ心の中が、じわじわと目覚め出したのだ。

 その一粒が呼び水となって、感情の高まりと共に、次から次に涙が溢れては零れ出していく。それでも今はまだ静かなその感慨に耽りながら、ただジッと黙って彼女は涙が落ちるままに任せていた。

 そこへ、控えめに声を掛けられた。

「どうか、泣かないで欲しい。」

 莢子の顔は下がっているという訳ではなかったが、俯いていた目線を相手へ向ける。濡れたままで拭うことも忘れた瞳が王を捉えた。彼は、痛みを堪えるような表情をしていた。そして言った。

「あなたに泣かれると、辛い。」

 これを聞くと、逆に彼女の涙は増してハラハラと零れてしまった。男もすっかり困ってしまい、背に腹は代えられないと、迷いながらも次の提案を持ちかけることにした。

「もし……、あなたが望むなら……、そのミドリというかいう者を、慰めに捕らえてこようか。」

 ミドリと言うのが何者か、男は既に知っていた。それが男か女かは重要ではない。大事な人の心を占めているという点で、望ましい提案ではなかった。けれど、彼女の慰めになるのなら、不本意ではあっても側で仕えさせても良い。

 男の内情とは裏腹に、今まさしく完全に目覚めたというように、莢子の瞳に突如意志が灯った。声を荒げて叫び出す。

「捕らえるですってっ、翠をっ。そんなことしたら、許さないんだからっ。」

逆上して、男に投げつけようと後ろ手で枕を掴んだ。

 彼は成されるがまま受け止める気があった。けれど背後から何かが飛んできて、彼女の手を枕ごと抑えてしまった。それは蜘蛛の巣のように粘着性のある繊細な網だったが、莢子にはまだ分らない。

 そして、これは今の彼女には悪い回避のされ方だった。莢子は一層頭に血が上ってしまい、衝動に任せて更なる暴言を吐いてしまう。

「出て行ってっ。皆、出てってよっ。あなた達の顔なんか見たくないっ。」

彼女は片手を拘束されたまま、崩れるように泣き伏せた。

 誰もが口を閉ざす中、嗚咽だけが辺りに響く。その悲痛さに耐えきれなくなったように、ややあって一言聞こえた。

「……分かった。」

了承の旨だった。

 伏せた莢子の髪から覗く右の手に、男の手が微かに触れた。すると彼女は見ないでも、拘束が解かれたのを感じた。

「行こう。」

彼はそれっきり、老婆を連れて出て行ってしまう。

 彼女が帳の向こうの側女に声を掛けずとも、気配を読んだ彼女らによってそれは拍子良く左右に開いた。二人はその間を潜ってこの場を後にする。

 幕を下ろす前に、先輩がそっと莢子の姿を盗み見た。だから彼女の帳の方が垂れるのが遅かった。

 何を言われても心など少しも晴れなかったが、言った通りに行ってしまった相手の態度がやけに虚しくて、莢子は一層さめざめと悲嘆に暮れた。


 泣き疲れて暫く経った頃だった。

 莢子は一つの決意にガバリと上半身を起こした。何としても煙の彼に会おう。そうして、必ずここから逃げ出そう。その思いに燃えていた。

 泣き寝入りを続けながらも、頭の中では最前から策を考えていた。勿論、大半が行き当たりばったりのものなのだから、何の備えもない。つまり、策とも言えないものなわけだ。にも拘らず、思い立ったが吉日とばかりに、莢子は大胆にも今それを行おうと心決した。

「あの」

思うより小さな一声を出しただけだったのに、サッと帳が動いて、中から顔が僅かに覗いた。

 待っていましたとばかりに声を掛けてくれたのは先輩だ。彼女は正座したまま片手で絹布けんぷを除けていた。

「はい姫様、何なりと。」

 その喰いつきようが今は嬉しくもあったが、懐柔されてはいけないと、莢子は気を引き締めて計画を進め出す。

「あの……、またお風呂に行けたらいいな、って。」

 先輩は大変乗り気で「それはようございますね」と返事をしてくれる。

「今から向かわれますか。」

こう尋ねられたので、莢子は頷いた。

 先輩は向かいに座る後輩に指示を出した。

「替えと道具一式を昨日さくじつと同じように。人払いは言わずもがなである。掛かれ。」

「はっ。」

 垂れたままの幕の向こう側で、短く返事をする後輩の声が聞こえる。先輩は莢子の方に向き直り、

「では、こちらへ。」

と、言ってから立ち上がると、もう一人の後輩と共に御幎みとばりを左右に開けた。

 これを越えたら、引き返せない。そのような制約を自分に課して、深呼吸を一つ。莢子は身を引き締めると応えて立ち上がり、足を進めた。

 中の手に入ると、先輩が莢子の支度に取り掛かった。彼女はその時になってようやく気付いたのだが、何時の間にか寝間着姿になっていた。御殿に運ばれた時に着替えさせてくれていたのだろう。

 主人の急な要求に何時でも応えられるようにと、身支度の為の準備は事前にされていたようで、改めて運び入れる物は何もないようだった。幾つかの衣文掛けに上衣がそれぞれ掛けられており、長持ちの中には袴が入っている。化粧道具もあって、顔を拭かれ、髪を梳かれる。風呂に行くから軽装なのだろう、今回も上衣は一枚だけだった。

 既にこれらの品が備えられていたのは、先輩なりの配慮だったに違いない。莢子が元気づくように、何かを求められたら…、気分転換に寝間の外に出たいと言われたら、直ぐに取り掛かれるようにと。

 身支度を終えた莢子は、先輩に促されて下の手へと入った。そこから下の間へと向かう。何時もより一人少ない、お付きの側女が二人。下の間の引き戸を開ける控女ひかえめが室の外に二人、それ以外は誰もいない。

 四の至を抜けて環条へと出た莢子は、先輩に案内されて順調に水の棚にまで来ていた。


 美しい白亜の岩場を奥へと進み、湯船にまで行く。そこで昨日と同じように一人きりにさせてもらうことにした。

 先に使わされた一人を加えた側女ら三人は、莢子が十分だと思う位に引き下がってくれ、その姿が岩の裏に隠れ切るまで彼女は見届けた。満足するまで確認すると、次なる行動に移った。

 実に計画は、ここからが本番だった。

 緊張に鼓動を速めながらも、彼女はまず上衣をその場に脱ぎ捨てた。山吹色の袴姿だけになると、外周沿いで最も近くにあった岩陰に身を潜める。下は履いているのだから、下着姿だとは思われないだろう。軽装であることが最優先だ。

 足音に細心の注意を払い、衣擦れの音さえ意識して、岩の影から岩の影へと移っていく。後ろから声を掛けられはしないだろうか。恐怖を抱きつつも引き返しはしない。

 己の鼓動の音を一番騒がしく感じながら、彼女は徐々に出入り口へと遠回りしながら近付いていく。そしいて遂に、入口である帳が見える所までやってきた。距離にして残り、約百メートル。ここで一考した。

 あの幕は結界だと言っていた。だからこそ王には位置が分かってしまうのだ。平然と潜っていいものだろうか。本当に考えなしに行動したので、初歩的なことさえ準備が無かったことに気付かされてしまった。

「姫、私です。」

 二の足を踏んでしまったこの時、思いがけず、だが聞いた声が彼女に呼びかけた。

 忍んでいたところだったにも拘らず、彼女が声を上げずに済んだのは、それが囁き声であったことが一番大きかっただろう。まるで自分の意識がその声を思い起こしたかのように感じられたからだ。二番目の要因は、相手の姿が直ぐには見えなかったことだろう。

 潜みながら彼女があちらこちらを探り始めると、次の声がした。

「今から出て行きますから、声を立てないでくださいね。」

 数秒の間が空いて、ようやく相手が岩陰から姿を現した。予想した通り、あの小さなヘビだった。実はその色が青っぽいものだったことまでは、見越していなかったが。

 このヘビとは、共にけいにまで忍び込んだ仲。それが今、このタイミングで目の前に現れるなどという好都合は、只の驚きでしかない。

「どうして。」

と、囁くつもりだった。

 実のところ、彼は昨夜の国渡りの際に、境に勤める者も含めた召人が、ほぼ全員天空領に上がった時に便乗していたのである。

 それから天領閣に潜みつつ、莢子の動向を左の捨間すてまから窺っていた。ところが天日国あまつくにから戻って来たかと思えば、御殿の主が彼女に付きっ切りで接触も図れなかった。

 そこに訪れた好機。ヘビは湯殿である水の棚へと向かう彼女の跡を密かにつけ、この対面となったのであった。

 出かかった莢子の疑念を制するように、ヘビが先手を取った。

「私が道を開けますから、付いて来てください。あなたは決して結界には触れないようにお願いします。」

言うや、何の説明もないまま行ってしまう。

 実際、莢子には考えている暇(いとま)もない。彼女は後ろを盗み見て安全を確認すると、頭を低くしながら最後の通路に身を投じた。

 しかし、あのように肩に乗っても小さなヘビが、一体どのようにして幕を開けてくれるというのだろうか。

 次なる疑問を抱いた途端、当のヘビが幕の合間に滑り込んで、先に一人だけ姿を隠してしまった。

 アッ、自分だけっ。そう非難しつつも、もう隠れるに適当な所もないほど見通しの良い通路では、見捨てられれば引き返すしかない。

 幕を開けてあげると言われたばかりだったので、自分で開けることは彼女の念頭から消えていた。こうなってしまっては、逃げ帰るしかないのでは、という案が頭に過る。またもその時だった。

 視線の先にある幕が開いた。不思議なことに、幕を押し広げる片手が覗いている。まさか、別の側女が。彼女らのように綺麗な手にも見える。

 逃亡しようというのが知られてしまったか。ここで計画はとん挫するのか。捕まってしまうのか。それともあれはヘビの仲間で、言った通りに幕を開けてくれたのか。

 疑心に囚われている場合ではない。一刻も早く逃げなければ百パーセント見つかってしまう。莢子はもう構わずに、開いた道に向かって忍びながら急いだ。幕の隙間に滑り込む。一か八かだっ。

 人影が視界の端を過った。幕を開いてくれた人だ。味方なのかっ。飛び込むなり振り返る。見たこともない青年が立っていた。

「さあ、先を急ぎましょう。」

声を聞いて一驚を喫する。ヘビだっ。

 声から予想するよりも、若い見た目だった。落ち着いた雰囲気の分、年上には見えるが、実のところは分からない。言ってはなんだが、ポニーテールが可愛くすらある。

 色々なことが衝撃的で、莢子は開いた口が塞がらない。それでも相手は先に進んでしまうから、唖然としたまま付いて行くしかない。二人は人払いのされた安全な空の階を階段の入口にまで進んだ。

 ここで、青年の姿に変わったヘビは振り返り、莢子に指示を与えた。

「ここから下には見張り番がいます。まだ起きるに早い時だからと言って、昨日のように眠っているとは限りません。その場合は、私が彼らを引き付けます。あなたは見張りが離れた隙に、階を下り続けてください。辺りに誰も居ないか、十分に注意してくださいね。」

 莢子は頷いて返したものの、既に己の計画の欠点がまたもや明らかとなり、肝が冷えていた。そうか、見張り番のことを失念していた。しかも昼にもいるとは、何時も人払いされていたからだろう、知らなかった。

 青年は彼女の気持ちを知る由もない。「では、参ります」と合図をして、階段を下り始めた。

 一体どのようにして見張りを引き付けると言うのだろう。ここに来て莢子は一番の緊張を感じていたが、何のことはない、ただ平然と下りて行くではないか。彼女は高い声を出して呼び止めたくなる思いだったが、努めて後ろ姿を見送った。

 踊り場の折目から顔を覗かせて、下の様子を窺う。だが、階下はそれまでとは一転、全体が消灯していたので暗かった。成程、空の階は莢子の為に明かりを点けてくれていたのだ。

 もう暫くで、就寝の時間は終わるのだろうか。見張りは起きているのだろうか。ここには時計というものがないので、時間の感覚が狂ってしまう。まだ夜明け前なのだとしたら、風呂に行くために側女たちを働かせたということになっていまう。

 階段の下付近だけが僅かに明るいのは、両端に雪洞ぼんぼりが灯されているからだ。そうした暗がりの中、青年は見張りの背中が近付いても、歩調すら変えずに平気で進み続けている。まさか、今いる見張りも、仲間…。

 足音ではなく、衣擦れの音から気配を察知したのだろう。見張りの一人が振り返った。やはり仲間なのだ。微動だにせず青年を見返している。平然とした様子で足を進める青年の後姿を視線だけで追う莢子は、未だ踊り場にいて、緊張が解されていく胸を撫でるように手を当てた。

 青年は一晩頑張っている見張り番の間を通り抜け、とうとう下り切ってしまった。過ぎ越して後クルリと反転すると、次の階に進もうとする。

 ここに来てようやく見張り番が青年に声を掛ける気になったのは、仲間としてだったのか、それとも我に返っただけだったのか。

 莢子は今の今まで、見張り番が仲間と入れ替わっており、青年が顔パスなのではないかと信じ込み、今にも身を踊り出しそうになっていた。しかし、それでは何の説明も受けていない自分だけが、またもや置いてけぼりにされてしまう。だから、今青年が見張りから声を掛けられたことで、却って彼女はホッとしてしまったくらいだった。

「そこの者、あらためたい。待つのだ。」

 何ということだ。このような時間帯に、しかも使こと自体の不思議さに当てられて、どうやら声も掛けられずにいただけだったらしい。相手が堂々としていたのも影響していたに違いない。心臓に毛が生えているとはこのことだ。

 青年はこれを聞くと、背を向けたままピタリと動きを止めた。見張りは歩み寄ると一転、驚きに問うた。

「その服は、外民かっ。何用でここに居るのだっ。」

 数メートル離れていたが、莢子には下民という言葉が嫌によく理解出来た。ヘビに化けていた青年は、下民。

 驚きつつも、煙の彼に味方しているのだから、当然だったかもと納得する。この得心は時読の話を彼女の頭に呼び起こさせ、青年の正体は、煙の妹を助けにやってきた仲間の一人に違いないことを確信させた。

 見つかってしまった彼の姿を目にしようとすれば、却って自分の存在に気付かれてしまう恐れがある。だから次の階へ向けて階段を折り返していた彼が、どのような反応を見せたのかは莢子には分らなかった。ただ、音から察するに、更に質問を重ねられながら、何も返さない気でいるようだった。

 見張り番が声を強めて、詰問し始めたのだろうと感じられる。

「何故答えないっ。識別名を言えっ。詰所に引き立てるっ。」

 ところが一転、にわかに二人の見張り番が慌て出した様子がする。何やら更なる展開が起こったらしい。

 この気配に隙を得て、莢子は遂に踊り場から姿を現すと、直近の手摺から下を覗き見た。どうやら見張り番が青年を追って持ち場を離れ、次の階へと駆け出したようだった。天空領の地の階には、見張り番が居なくなってしまった。

 青年が言った通りになった。莢子は息を吸うと一気に駆け下りる。次の階を通り過ぎ、更に下の階を目指して半分ほど進むと、手摺から顔を覗かせてまた下を窺った。

 存外進行速度が速い。うかうかしていられないと分かり、息急き切って残りの段数も駆け下りる。

 どのようにして追手から逃れているのか、下りても下りても青年の姿は見当たらず、同じように下りても下りても見張り番の姿もまた、きちんと排除してくれている。

 天下てんげ領、かいに入っても、じんに入っても、ましてや御前領、ぐうに入っても、見張りに会うことなく進み続けることが出来てしまった。

 一方、下りる階が増すということは、それだけ見張り番の数が二人ずつ増えていっているということになる。今青年は、既に八人から追いかけられているはずだ。莢子の耳に届く下からの騒ぎも、階毎に大きくなっていくようだった。

「構わぬ、捕縛しろ」、「挟み打ちだ」。そう聞こえたかと思うや、今度はアッと言う叫び声が聞こえる。勿論、青年のものではないだろう。

「どこに行った」、「姿が見えないぞ」、などと慌てている。そうかと思えば、「いたぞ」、「下だ」という混乱ぶり。見張り番には拘束の権限が無かった為に、自力でしか捕まえることが出来なかったのだ。

 彼らが構わずにわめいていても、今はまだ御殿にとっては眠りの時間帯。召人の住まいである宮の階とは言え、この騒ぎを聞きつけて起き出す者は僅かだ。

 それでも今は逃亡の身、他にも人が現れ始めたことに恐れを抱くのは当然だ。しかし莢子は、己の姿が例え見られてしまっても、構わず駆け抜けようと決意を固めた。そこで、まるで自分こそが騒ぎを聞き付けた野次馬であるかのように、青年の後を追い出した。

 更に階を下り進めれば、どうしたことか。見張り番の内三人が、何かに絡め取られたように、階段途中で身動きが取れなくなっていた。

 初めて姿を見られることに恐怖したが、それでも莢子は止まる訳にはいかない。拘束されているのを幸いと、彼らの視線を避けるようにして、その脇を通り抜けようとする。

 途端、「あ、待て、助けてくれ」と、その内の一人が呼び掛けてきた。冷静に見れば人間だと分かっただろうに、今の簡素な姿も効いていたのだろう、どうやら莢子のことを仕女だと思ったらしい。

 けれど助ける訳にはいかないのだ。莢子は無視して、再び階を進み出す。見捨てられたと思った彼らは、後ろから更に声を掛けた。それでも彼女は聞こえない振りをした。

 御前領、だいに入った。残すは後一階。にも拘らず、騒ぎは常に下の方から聞こえてくる。ここでも莢子は不在の見張りに咎められることもなく、けいへの階段に侵入した。

「どこに行った」、「いないぞ」、「探せ」。未だに撹乱が成功している声が立っている。けれど境には中央である、一の囲いに外民専用の官吏詰所があって、そこにも交代制の見張り役が昼夜問わず常駐していた。だから青年を探す人員は倍増する筈だった。

「どうしたのだ」、「何の騒ぎだ」。やはりそうした新しい声が加わり始める。そこで莢子は一度立ち止まり、踊り場から下の様子を探る必要があった。息が激しく上がっている。

 ここでも階段の下からは、漏れなく見張りが退いている。だから勇気を出して、莢子は更に階を下り進めることにした。

 境では一の囲い全体に微かな明かりが灯されていた。今までとは違い、闇に紛れることも難しくなってしまった。おまけに折り返しを更に半分も過ぎれば、流石に見張り達が同じ階の近くにいる気配がし、臆病風にも吹かれ出す。ここから後一段でも下りてしまえば、捕まってしまうのではないか。そう危ぶんだ。

「何があった。」

前触れもなく背後から声を掛けられた。勿論、聞き覚えのない声だ。

 ビクリッ。莢子の肩が飛び上がった。だがどうしたことか、背後の人物は彼女の怪しさには少しも構わないで、話を続けてきたのである。

「誰かを追いかけているのか。」

「どうした。何が起きたのだ。」

立て続けに重ねられたのは、更に別の声。

 どうやら寝所から新たにやって来た召人達のようである。二の足を踏んでいる場合ではなかった。

 彼らは、まさか我らの姫がこのような所にいるとは、微塵も思っていないのだ。しかも今は袴だけの簡素な姿。そこで目の前にいる莢子には少しの注意も払っていなかった。

 だから初めに声を掛けた男も、次の男も、それから更にやって来た何れの者達も、尋ねた割に彼女が答えないのには全くお構いなしで、好奇心の引かれるまま階段脇を通り過ぎ、状況を探りに行ってしまった。

 この驚きは、却って莢子に好機をもたらした。この異様な状況下、身元が発覚しないことに気付いた彼女は、彼らに紛れて野次馬と化す為に、自らも雪崩れ込むようにして境に下り立った。

 四の条から、一の囲いを窺う。あの青年は人目を奥へと引きつけてくれているのだろうか。この筋には見張りも官吏の姿も無く、更にやってきた者達も奥へと走って行ってしまう。

 境到達には成功したものの、その一方で先導者が居なくなってしまったことが問題だ。ここからはどうしたらいいのだろう。あの食堂に行けば、煙の彼に会えるのだろうか。

 しばし左右を窺いながら逡巡する。足はすっかり立ち止まってしまっていた。その時である。「こちらへ」という声と共に、突然グンと腕を引かれた。

 驚きに息を呑み、目を大きくしたまま、力強く後方へと引き寄せられていく。そのまま勢いに乗せられて振り返れば、莢子を引いて走り出したのは女性の後ろ姿であった。

 互いは背格好が近かったが、髪の長さは断然違う。前を行く女性は腰まである豊かな髪だ。それを簡素にうなじで一本纏めにしてあった。

 にわかに視界が眩しくなる。灯りが昼の様に灯された。莢子の心臓は飛び上がり、急に体が強張り出す。足がもつれてしまうのではないか。

 その緊張を読み取ったかのように、見知らぬ女性は初め莢子の腕を取っていたが、決して離れないように力強く手を握ってきた。二人は四の条から渡りへと飛び込んでいく。そこは時読に会う為に通ったことのある横道だ。ところが、女性は食堂のある右ではなくて、左にある入口の帳を開けた。

 莢子が触れないように注意を促しつつ、中へと通す。再び強い明暗の差に視界が奪われたようだ。覚束ない足取りは闇のためか、緊張のためか。背後で帳が下りた音がする。

 彼女の視界は直ぐに慣れてきた。帳を越えた先にあったのは、以前来た時に予想した通り、厠であった。

 配置が同じなのだろう。宮の厠と同じ場所、同じ大きさ、同じ配置で設けられている。当然ここにも草が伸びている。とは言っても、中には明かりが点けられていなかったので、青くは見えなかった。

 それでも、まるで外の景色だ。途端に別世界に来たかのような不思議な感覚に襲われる。さながら月のない夜の草原のようではないか。

「こちらへ。」

品の良い声で囁かれた。

 女性は衝立ついたてで仕切られた個室の一つを開けている。そこに入るように莢子を促した。それから自分は隣の厠の扉を開けて、その中に入ってしまった。

 一体何をする気だろう。さっぱり分からない。困惑している莢子に、衝立の向こうからまた声が掛かった。だが、それは彼女を更なる当惑へと陥らせるものでしかなかった。

「衣を全て脱いでください。」

 莢子の思考が停止する。それを察したのか、「お早く」との催促が即座に降ってきた。

 その勢いに押されて彼女は訳も分からず着物に手を掛けた。だが、「全て」とは、その全てとは、一体……。今だって、肌に直接着ている上下だけしかないのだが……。

 すると、衝立の下の方から声が掛かった。

「これを足から履いてください。」

草の上を滑らせるように、白っぽい絹の様な塊が差し入れられた。衝立は下三十センチほど開いていたので、その絹のような何かは簡単に手渡しで受け取ることが出来た。

手に触ると、それは縮んだ弾力のある布のようだった。とても滑らかで、シルクとも違う、キメの細やかさがある。

「伸ばさずにこのまま、まず足を中に差し入れてください。」

 シルクのようなそれは、ストッキングを履く時のように手繰り寄せて纏められている。とは言え、それよりは何周りも大きい。

 莢子は言われた通り、楕円形に広げられた布の中に足を入れようと思った。が、その後のことを考えて手を止める。

「あの、まさか、全部脱がないとダメってことですか。」

 今し方、相手から言われたばかりの科白を返してしまった。その為だろう、彼女は多少戸惑ったらしく、ちょっとの間を開けて返事をした。

「はい。素肌の上に直接纏いますから。」

 やはりっ。莢子は軽い衝撃を受けた。が直後に、裸でなければならない理由を聞くことが出来たのは幸いだった。

「今から私の皮を着ていただきます。」

結局、莢子は更なる混乱に陥ってしまっただけだった。

 布と認識していたものを、手から思わず取り落してしまう。けれど、服を脱ぐ為に両手が空いたと思えば好都合だ。

「お早く。」

再度、急かされてしまった。

 もう何も考えず、言われた通り行おう。その方が自分の心も、今よりは安定するに違いない。莢子は着物を全て脱ぎ捨て、脇に置き、覚悟して相手の皮を手に取った。

 ゴクリと固唾を飲み、中に足を差し入れる。足の裏で触れた初感覚は、確かに皮のようだと思えた。編んだ感じが全くしない。一枚物の完全な融合感と滑らかさがある。

 縮んだ皮を上に引き上げる。うっかり破いてしまわないだろうかと思ったが、案外しっかりと伸びるようだ。厚みは、買い物用のビニール袋よりもある気がしたが、皮だと思えばかなり薄い。勿論、日焼けで剥けた皮膚に比べればかなり厚いと言える。

 感心することに、ストレッチまで利いているようだ。が、何せ履き慣れているはずもない皮。全身皮など、誰か着たことがあるというのか。タイツのように片足ずつ伸ばしながら履いていたのだが、相手の方が待ち切れなかったらしい。音から察して遅々として進まないのを悟ったのだろう。

「私がお手伝いします。」

 え、と思うや、何と、皮が勝手に莢子の体を這い上がってきたではないか。

足が終われば、前身ごろが真ん中から分かれて、上着を着るように背と指先から彼女の体に張り付いていく。

莢子は驚きの声を漏らしたが、それさえも直ぐに呑み込んでしまうかのように、皮はあっという間に彼女の顔まで耳から鼻にかけて、それ以上に髪の先まで全てを閉じ込めようとする。恐ろしさに思わず息を止めた。

 同時に体の皮さえも、前身ごろの中心で、その切れ目をピタリと閉じた。閉じると、それは継ぎ目の一つもない、完璧な皮膚になっていた。しかもどのように出来ているのか、各部位のサイズも元の自分から変化している。そればかりか、髪の長さや質までもが変わっていた。

 莢子が驚きながら自分の体を見下ろしている。息は、ちゃんと出来るようだ。手探りで確かめる。肌が滑らかだ。けれどヒヤリとしている。胸の形も変わっている。指の細さも変わっている。顔の形も、位置も、違うようだ。だが、それ以外は暗かったのであまり分からなかった。ただ、頭が重くなった気がした。

 すると、

「今から私も、あなたの皮を着ます。」

と、聞こえた。

 莢子は衝立越しに疑問符付きの視線を向けたが、「あなたは私の衣を着てください」と、矢継ぎ早に次の指示が飛んできただけだった。

 今度は衝立の上から相手の着物が手渡された。つま先立ちをして頭から被るように抱えたが、「あなたの衣をください」と言われたので、直ぐ様もらったそれらを草に下ろした。自分の着物を抱え直して、同じように渡す。

 言われるがまま相手の着物を着込み始める。多くの女人達のようにやはり袴だったが、上から羽織るのは上衣ではなく、丈の短い作務衣に似た服で、割烹着のようなものになっていた。

 その時に発覚したのは、髪の長さが腰まで伸びていたこと。明かりが無くとも分かる。何と黒く、艶やかな髪だろう。

 すっかり支度が終わったと思われたので、莢子は厠から出た。だが、遅れて服を着た筈の相手の方が先に出ていた。

「お分かりですか。私達はお互いを取り換えました。今から私はあなたです。」

 暗がりの中だったにも掛かわらず、莢子は実に奇妙なものを見、幻かと目を疑ってしまった。

 正面に立っている人物は、確かに自分のように思われた。鏡、そう錯覚してしまった程に背の高さまで完璧だった。どうやったというのだろう、切る音などしなかったのに、髪の長さまで元の自分と同じではないか。何の違和感もない。

 鏡の中のような自分が言う。ここに来るまでに直接莢子の手に触れていた。そこから彼女の体を読み取っていたので、その皮膚を作り上げることが出来たのだ、と。

 これは彼女特有の能力で、実のところ秘匿すべき重大な術である。これ程簡単に明かしたのは、相手が人間だからだろうか、それともこれから行うことが命懸けだったからだろうか。

「今からあなたは私です。私の識別名は、『にの二十四にじゅうし』。通り名は『茜』。」

 いきなり自己紹介が始まった。声だけは莢子のものではなかった。品があり、愛らしい。自分の口から他人の声が出る、それが一層奇妙に感じられたが、自分の声を聞いたとしても違和感を抱いていたに違いない。

 彼女は続ける。

「私は仮病を使って床に就いた振りをしました。今も友がその偽装を保ってくれていることでしょう。そして官吏が交代する隙を見て逃げ出し、あなたが来るまでここに隠れていたのです。

 酉の刻になれば初めの点呼がなされます。それに紛れて『すず』というわたくしの友が呼びに来てくれることになっていますから、それまでは同じように、ここに隠れていてください。」

 相手の説明はこれで終わったらしく、今度は莢子の情報を求められた。けれど、名は聞かれなかった。ただ、今回の婚儀に関しての気持ちを聞かれたので、こう答えておいた。

「望んだ訳じゃなくて、だから、元の生活に帰りたい。でも、相手のことは嫌っている訳でも何でもなくて、やっぱり、別世界の人って言うか…。」

 それを聞くと相手は頷き、「分かりました。そのような心持ちで臨みます」と答えた。え、何に、と莢子は思ったが、敢えて話の腰を折ることはしない。茜は続ける。

「では、あなたがこの幎を開けてくださいますか。今、指の皮だけを開けますから。」

 莢子はその意が理解できず、相手の目を見返した。すると、このような前置きから始まった。

「私の施術は正確ですが、あなたは古の契約印をもらっていると聞きます。どのような契約印でも、交わした相手を見つけることが出来てしまいます。

 前回は御殿が寝入っているときだからということで、時間の余裕を狙い、しかも言い訳の立ち易いあなたに、敢えて幎を開けてもらうことにしました。ですが、警戒を強められているかもしれない今回は、同じ方法をとることは出きません。

 ですから今回は『清珆せい』に仕え女の皮を手にはめてもらい、幎を開けることで時間を稼ぐことにしたのです。」

 セイ、あの青年の名だろうか。それから彼女は先の要求の理由を明かした。

「故に、あなたに触れていただきたいのです。ですが気を付けてください。皮で見えないとは言え、契約の効力を隠すことまで出来るのかは、試したことがないのです。王がそれ見ようと思えば、見えてしまうものなのかもしれません。」

 続けて彼女は、何故莢子に開けさせたいのか、その理由を詳しく教えてくれた。

「きっと私は王に連れられて戻る方が、周囲の混乱が少ないような気がします。何せ連れ戻されたばかりの明暗の地にまで、また逃げ出してしまったわけですから。」

 成程、一度失敗しているのだから、家人には注意喚起がなされていたかもしれない。にも拘らず再びここまで来てしまったとなれば、上の指示を扇ごうと混乱するに違いない。

 とは言え、先にもあったように、今は御殿中が寝ている時間帯だ。果たしてそううまく王が動いてくれるだろうか。しかも数時間前に喧嘩別れしたばかりである。まだ特別な存在でいられているなどとは信じ難い。

 万一、相手が寝ているにも拘らず莢子に気付けたとしても、怒っていては迎えになど来ないのではないだろうか。いや、そもそも、

「え、戻るんですか。」

それだ。危険を冒して、勇気を振り絞ってようやくここまで来たというのに、何故戻る必要があるのか。

「このまま逃げましょうよ。今なら出来そうです。」

「いいえ、契約印のある限り、あなたは逃れられません。」

 けれど、自主的な行動計画もない莢子には、求められるままに厠の帳を開けるしかない。今は彼女が側女で相手が姫だ。

 開けられた幕を潜って、莢子に化けた相手が出て行く。渡りの明かりでその姿を見れば、ゾクリとするほど同じだった。誰も偽物などと気付かないに違いない。

「それでは、私は参ります。どうかそちらから出ず、見つかりませんように。幎を下ろしてください。」

 言われて手を下ろす。別れの言葉を残した相手が、帳の向こうに消えていく。莢子の指の皮は元に戻っていた。

 聞きたいことがまだまだあったが、何も尋ねる暇が無かった。嵐のように互いの交換は終わってしまった。厠の帳が下りてしまえば、後は静寂があるばかり。それは莢子の心を非常に心細くさせた。

 一旦先程と同じ厠の個室に戻ってみたが、だからと言って洋式のように座るタイプではない。これでは腰を下ろすことも出来ないと改めて自覚する。では、どうやって時間を潰していたらいいのだろう。途方に暮れたが、思い立って個室を出ると、厠の一番奥にまで移動することにした。

 彼女が向かったのは、階で見れば一の囲いにある中央の間、官吏の詰め所側になる。つまり環条に向かっている。彼女は本当に王がやってくるのか、壁越しに探れるのではないかと思ったのだ。

 何せここの壁は木の板だけだ。耳を当てれば漏れ聞こえないだろうかと試してみたくなった訳である。

 それで莢子は一番端にまで行くと部屋の角に立ち、耳をピタリと当てて外の様子を窺った。すると思った通りである。壁一枚向こうの音が何となく聞こえた。

 未だにガヤガヤと騒がしいようだが、青年がどうなったのかは把握出来ない。その中で、不意にハッとする程はっきりとした叫び声が聞こえた。

「我が君っ。」

確かにそのように聞こえた。

 本当にやって来たのだ。驚いた莢子は、一層耳を壁に貼り付けた。

 王の登場で、向こうの騒ぎは一気に静まった。だからこそ有難くも、向こうで話される声が聞き分けられるようになった。

 ところが場が鎮まった為に、話し声自体も落とされてしまったようで、結局何を言っているのかは分からない。彼女はそれでも暫く耳を当て続けていた。

 一方、彼女が耳をそばだてて聞こうとしている会話は、このようなものだった。

「何の騒ぎだ。」

と、王が言う。

 けれど彼は只一直線に、誰にも姫だと気付かれていない莢子の皮を着た彼女に向かって、歩みを進めていた。そして官吏が、

「誠に申し訳ありません。見張り番によれば、何やら外民が出歩いていたらしいのですが、その姿がどこにも見当たらず、捜索していたところでありました。」

と言うのを聞いていた。

 莢子の偽物は疎(まば)らな人影の向こうで、階段を上がろうとしていた。中央の大路からやってきた王は、当初厠の方に行くつもりだった。けれど階段でその姿を認めたので、彼女に詰め寄った。その手首をしっかりと掴まえながら、けれど言葉は官吏に対していた。

「外民の間を検め、照会せよ。」

 その指示を聞くと、官吏は女人の手を掴む王を不思議に見つめる視線を切って、「はっ」と答えた。直ちに外民が寝ている部屋に走っていく。それでも相手が男だと言うことは判明していたので、男性用の部屋へと向かった。

 一方、王は莢子の手を掴みながら、今度は彼女を問い質していた。

「どこへ向かおうとしていたのだ。」

それでも、その声は官吏に利いたものとは違い、厳しさは無かった。

 莢子に化けた彼女は答える。

「……人の世に。」

声までは変えられないので、口ごもるように、そして端的に言う。

 突然、男が彼女を強引に引き寄せて、その胸に抱いた。化けた彼女はアッと驚いた。余りに咄嗟のこと、「無礼なっ」と言って、彼の頬を引っぱたきそうになった。

 しかし、反射的に動きかけた右の手は、彼女の強い精神力で留められた。莢子本人であったとしても同じような衝動に駆られたかもしれない。けれど、彼女はすっかり自分の気持ちで、今それを行ってしまうところだった。そこから目敏く感づかれてしまうかもしれない。だからこそ懸命に己を制した。

 それで良かったとホッとする。彼女は唇を噛み締めながらこれに耐えた。その時である。誠に心の不意を突いて、男が彼女に囁いた。

「私から、離れないでくれ。」

 彼女は息を呑んだ。王が、弱さを見せている。

「頼む。」

と、続けられた。

 これは、自分が聞くべき言葉ではない。そう後悔したが、取り替えた今となっては遅かりし。彼女は心の平静を保つように意識しながら、男の胸を押し退けようとした。けれども、やはり動転していたのだろう、うっかり次のような苦言を呈してしまった。

「王が、人前で執るべき行動ではありません。」

 彼女は顔を下に背けていた。彼は力強く、彼女が押したところでびくともしない。それでも胸の辺りから漏れたこれを聞くと、腕を緩め彼女を見下ろした。

 そして、やや恥じ入るように答えた。

「そうだな。しかし、あなたのこととなると、どうも見境が付かなくなってしまうのだ。」

間を開けて請う。

「許せ。」

 王が、詫びるなど。彼女は自分に向けられた言葉ではないと分かっていても、動揺から頬が熱くなっていくのを止められない。

 これも、自分が聞いて良い言葉ではない。相手の腕が緩んでいる隙に、彼女はクルリと背を向けて再び階を上ろうとした。が、またもや彼に止められてしまった。

「どこに行く。」

 そのように聞かれたので、彼女は「諦めて、部屋に戻るのです」と早口に答えた。直後、またもや僅かな悲鳴を上げてしまった。

「あっ。」

肺から押し出される、漏れた息の様な声。予期もせず、男が彼女を横抱きにした。

「では、私が送ろう。」

 階を上り始める二人。莢子に化けた茜は、それこそ目論見通りのはずだと自分に言い聞かせながら、懸命に堪忍し、これに甘んじてみせた。

 確かに好機だった。今なら、王の皮さえ作れてしまえる。

 隙を突いてこの国から逃げ出す力など、仲間が助けに来てくれた時点で十分に揃っていた。無理な脱出くらい、しようと思えば幾らでも出来た。逃亡者の身に落ちても、ここで幽閉されて一生を終えるよりましなのだ。

 けれど、今までそれをしなかったのは、拘束の紋をつけられていたからだ。何処に居ても所有者に探り当てられてしまう上、拘束されれば抗うことも出来はしない忌々しい身。

 王の皮を借りて、解放を迫れるかもしれない。だがそれは、浅はかで余りに乱暴な手だ。やはりあの作戦しか…。これらの機会は、確かに好機なのだ。

 兄は、どうしてこの少女に全てを賭けておいでなのだろう。この王は、何故これ程までに人間の娘に拘っているのだろう。古の姫の言い伝えに倣ってまで。

 莢子の皮を着た茜は、御殿の主に抱きかかえられながら、彼の顔を盗み見た。 

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