第26話
それは、莢子を呑み込んでしまった本殿の神鏡だった。閉ざされた暗闇の中で、にわかにその表面が独りでに輝き出した。
その光は、だが、淡いままで変化がない。それでも突如、中から一筋の影が飛び出してきた。
ニュッと現れたものは、シュッというように勢いがあり、まるでその圧力に押されたかのように、幣殿と拝殿の境の御簾が激しく閃いた。
社殿の両引き戸も独りでに開いていく。防犯用に設置された鍵は全く役に立たず、従順かのようだ。どこにも欠損を作らずに自ら開いてしまった。
それを考えると、不思議なことが一つある。莢子が連れ去られた後、誰かが戸を閉め、鍵を閉め直したかもしれない、ということ。
物理的な障害をものともせず、中から現れたのは、奇怪で色鮮やか、妖しげで華やかしい異様な集団。時代絵巻から飛び出した、物の怪だろうか。
青い炎に縁取られた反物にでも乗ったような、古から現れた幽鬼かのような。その艶やかで奇抜なこと。
先頭を行くのは二人の男。続く十数名も合わせ、いずれも武人の装いをしている。それから王の輿が続き、内部には収められたような麗しい男女の姿。着物の美しさだけを見ても、まるでお内裏様とお雛様であるかのようだ。
次に豪傑な大男と神経質そうな文官だろう男が続き、その後ろに大女と右女、それから二名の側女。輿の曳き手や階段持ちなども続いている。様々な品を手にした女官たちや、
役職ごとの衣装には色味の統制が取れており、それを見るだけで身分が分かるようだ。ここに連なる者達の三分の二は
彼ら、青くも美しいひと筋は昇竜のように、社殿から空へと滑り上がっていく。左に旋回しながら、地上から何十メートルかを上がっていく。
光の中に吸い込まれた時は眩しくて、莢子は硬く目を瞑っていた。瞼の向こう側に再び闇を感じて暫く、そっと目を開けていく。輿の前方、天蓋が左右に纏められたその間から、懐かしい色合いが見えてきた。
輿で遮られた小さな視界。それでも、一瞬で判別できた。明るい闇夜。美しいその色合いが。
視界はゆっくりと上がって行く。何気なく左に顔を向けた彼女の目に、胸を焦がす見慣れた町並みが。世界は何もかも同じ、一つも変わってはいなかった。
たった一日やそこらで大きな変化など無いはずなのに、肌に触れる湿気も、眼に馴染んだ景色も、莢子は感動せずにはいられなかった。
あれだけ帰りたかった自分の世界に、あたかも瞬き一つで、こうもあっさりと戻ってきてしまった。
呆ける余り、目には出来なかったが、きっと隣町のバス停も、煙の彼が座っていたあの家も、そこに変わらずにあったのだろう。何時も涼しさで守ってくれた杉並木も、そこにあったのだろう。ああ、見上げてみたら、どうだろうか。
莢子は目を開けたばかりの時に見えた夜空を思い出して、衝動的に輿から身を乗り出した。よもや輿から身を投げ出すつもりかと君主は慌てたが、空を見上げて動きを止めた彼女を、そっと見守ることにした。
夜空は美しく晴れ渡っており、零れるほどの星の瞬きが彼女の目に飛び込んできた。ああ……、なんて、美しいのだろう。空に、星がある、それがこんなにも美しいなんて、知らなかった。
感嘆が深い溜息となって漏れる。莢子は首を巡らしてみたが、月はどこにも見えなかった。それでもふと、宵闇が彼女の鼻腔を満たしていることに気が付いた。
匂い、…匂いだ。いつもの、夜の匂いがする。
同じ夜なのに、
だが、こちらに出る直前に辺りを覆っていた、あの巨大な木々の中を渡った時は、確かに今の様な匂いではなかった。勿論、種類によって発するものが違うからだろうが、世界の違いも関係しているのかもしれない。
夜空を悠々と渡る長い行列は、まるで夜空を泳ぐ青い竜だ。莢子は慣れ親しんだ世界に慰められ、解放された気分に目が潤んでしまった。
実際、彼女がこの世界から離れていたのは、まだ一日と僅かでしかない。にも拘らず、余りに懐かしくて食い入るような彼女の様子を、男は隣から心配そうに見詰めていた。
里心が付くだろうと分かっていたが、彼女の為と思えばこそ、これを許した。だが果たして、これは吉と成り得るのだろうか。
彼の懸念を他所に、天日国に没頭する莢子は一転、ハッと息を呑んだ。確かにそれまで耳を掠めていた音が、余りに聞きなれた響きだったために意識していなかった。が、それが急に理解できた瞬間、視線を下ろした。
車っ。眼下に広がる景色の奥から、一台の車がやってきたのである。
上空にいるからといっても、これだけの群衆だ、気付いてもらえないだろうか。誰か、自分に気付くのではないだろうか。
だが、その期待はあっさりと
莢子は虚しさに襲われた。故郷に意識が囚われ過ぎている。何故この一行が教えられもせずに、彼女の家を目指せているのかにさえ気づかない程に。
彼女の視線は落胆の色を帯びながら車から外れた。一行の動きに合わせて視界が左へと折れて行く。そのようにして入り込んできた新たな風景。莢子は本能的に顔をその行く先へと向け下ろした。
「あ、
驚くほど速く我が家が目の前に迫っていた。色々なことに気を取られていたからだろうか、それとも、直線距離を行く一行の移動が、単純に速やかだったからだろうか。今は闇に深く染められた、恋しい青の瓦屋根。
再び興奮した莢子は座ってもおられず、乗り出していた身のまま立ち上ろうとした。王は素早く彼女の腰に腕を絡めると、しっかりと支え引き留めた。
それを微塵も気にしないで我が家だけを見詰める彼女の気持ちに呼応するかのように、鬼火のレールは左に旋回すると同時に、既に目的地に向かって滑り降りていた。
敷地前の道にレールの先端が着くと、先頭の家臣たちは続々と鬼火を降りて、もう少しだけ前進した。輿も自動的に道に降りたが、丁度門柱に挟まれた敷地の出入り口の横だった。
昇降口とは反対から食い入るように顔を出していた莢子は、男に腰を取られたまま引き寄せられて輿を降りていく。
二人は先頭に立ったが、どちらかと言えば、彼の腕から逃れるように莢子は玄関に向かって走り出していた。
すると、どうだろう。どこであろうと鍵は御殿の主に忠実らしく、何の障害にもならずに親子玄関の両戸さえ開いてしまった。
暫時驚きに呑まれた莢子の足は一度止まったが、あれ程帰りたいと思った家に、今まさに入って行く。住宅の闇に呑まれていく彼女の後ろ姿に、男の胸はチクリと痛んだ。だが、彼は静かに歩んでいく。
その後に続くのは武官のあの豪快な男と、神経質そうな文官だ。主と共に玄関に入室を許可されたのは、あの二人の男性だけのようである。老婆と右女も彼らの後に続くことを許された身だったが、玄関の外で動きを止めた。
ところで、この時でも鬼火、つまり火のレールに乗ったままの家人たちがいる。青いレールもまた、地上と空中とを繋いだままで止まっている。地面に降り立っているのは、前方に並んでいた一部の者だけだ。家人は誰もが主の命令を待つように、莢子の家の方に身を返し、黙して待機していた。
当の彼女は両親の寝室へと、階段を駆け上がっているところだった。部屋も廊下も何も、この標準的な狭さ。階段が何と短いことだろう。両親に縋り付きたくて、泣きたくて、だが、彼女にとっての標準のどれもが、笑い出したくなるほどに嬉しくてならない。
前触れもなく一晩留守にしたのだから、随分心配を掛けさせてしまったに違いない。静寂もお構いなしに、バンッと弾ける音を立てて寝室に飛び込んだ。
「お父さん、お母さんっ。」
シングルベッドに分かれて寝ている、両親の間に体を滑り込ませる。彼女が何かをする前に、二人は最初の大きな音で飛び起きていた。第一、突然蒸発した娘を思って、夜も眠れない思いで床に就いていたから尚更だった。
一体何事かと浅い眠りの内に驚けば、娘の声がしただろうか。暗闇の中、二人は娘の名を叫んだ。
答えるように、もう一度する娘の声。ところが、釣られてお互いの間に目を引かれれば、そこにいたのは我が子のものとは思えない、和装のような女性。
時代を越えてきたような人影が母親に飛びついた。驚いて、抱き着かれた勢いに押し倒される彼女。何度も聞こえる呼び掛けは、確かに娘の声である。両親は狐につままれたように、タイムスリップしてきた様な女性を凝視した。
「さっ、ちゃん……。」
母親が信じられずに問い掛ける。
「そうよっ」と、直ぐに返ってくる。
やはり娘なのだろうか。そうとしか見えなくなってきた若い彼女は泣いていた。
母親は急に感極まって、同じように泣き出しながら、ベッドに仰向けに倒れ込んだまま娘を抱き締めた。二人して声を上げて泣く。すると父親も二人に体当たりして抱き付いてきた。
「どこに行ってたんだっ」、「心配してたのよっ」。安心感が湧いてくると、今までの反動から口々に喚き立ててしまう。
それでも、二人は娘が何か不思議な事態に巻き込まれているようだとは、ありえないその姿から感付いていた。
「警察にも届けを出してしまったんだ」と父が言う。莢子は泣きながらそれを否定した。
「誘拐でも、家出でもないの、大丈夫なのっ。でも、帰れないのよぉっ。」
いや、これは誘拐と言えるかもしれない。監禁されていると言えたかもしれない。
「一体何があったの、その格好はどうしたのっ。」
母親も迫る。
幾分か冷静さを取り戻し始めた両親は淡い希望を抱いて、コスプレか何かであってほしいと思った。
莢子は説明しきれずに口ごもる。それでもハッと思い出し、彼らの腕を取って一階に連れ出そうとし始めた。
「とにかく来てっ。見れば分かるからっ。」
三人は前後一列になって階段を下りていく。ふふ、本当に狭い。横に並んで下りられないなんて。妙なテンションに、涙で濡れる莢子は自分でも感情が分からない。
家族で飛び込んだ先、玄関付近で待っていたのは、またも平安絵巻から飛び出して来たのかと思われる三名の男。だが、開け放された玄関戸の向こう、男達の、もとい大柄な男の隙間から僅かに覗いていたのは、更に有り得ない光景だった。
手ぶらの者は一様に両手を腿の付け根に当てて、そこに居た誰もが折り目正しく両親に向かって
目にしたものに圧倒されて、両親は縫い付けられてしまったかのように、声も出せなくなってしまった。ひたすら口を開けたまま、目の前の一団にただ呑まれている。けれど、彼らに幾分か慣れてしまった莢子だけは、一拍の遅れのみで我に返った。そして一番前で、同じく頭を垂れる男に手を向け、両親に告げた。
「お母さん、私、この人と結婚しなくちゃいけないことに、なっちゃったのっ。」
ああ、言えた、言ってやったっ。
一家はパニック状態だ。追い打ちをかけるような娘の告白に、両親は思考と心臓がてんてこ舞い。理解したいが叶わない程の衝撃と奇怪さ。
それでも、流石はお父さん。我を取り戻すと、努めて冷静に情報の整理を開始した。
「莢子、初めから説明しなさい。まず、昨夜はどこに行ってたんだ。そして、そちらの方達は、どなたなんだ。」
待ってましたとばかり、娘は勢いよく父親に目を向けた。が、助けを求めて全てを打ち明けようと口を開けど、どこから始めて良いのやら。とてもじゃないが上手く説明できる自信がないと気が付いた。
その時だった。玄関側から男性の声が掛かった。それは混乱の中にある一家の意識を一本釣りにした。落ち着いたその声は、この場に似つかわしくないほど流暢に言った。
「御両親様におかれましては事前の許しもなく、このように突然伺いましたこと、恐れながら平に御容赦頂きたく、お願いを申し上げるものでございます。」
それは例の、豪快な男性に手を焼いていた、神経質そうな男のものだった。
玄関周りは三人が横一列に並ぶには狭かったので、今は主君を最前にして、後ろに男が二人いる。と言っても、武官の図体が大きいので、文官である彼は君主と武漢の二人の間に立っていた。
彼ら三人の背後、玄関外に老婆達が控えている。挨拶をしてきた男性は主のやや右後ろから姿を覗かせていたが、主を含めた誰もが、この挨拶と共に更に頭を垂れ、一斉に最敬礼した。
更に遜った御殿の主の姿に莢子も驚いたが、何も分からない両親はこの状況にもっと驚いていた。数秒経っても姿勢を戻さない一行に、父親は慌てて頭を上げるように求めた。
父親からの勧めで、まず主君が頭を真っ直ぐに上げた。臣下らもそれに倣って身を戻したが、彼らは尚も目を伏せたままにした。それから、初めの文官が再び口を開いた。
「早速ではございますが、
そのように開始した予想外の釣書のような内容についても、莢子の両親は圧倒されて、またも口を利くことが出来なくなってしまった。文官は述べた。
「人界とは国を隔てし遥かな地、
その努力の甲斐あって、夜常国の中でも特筆される若さで一城の主となりましたが、そのように偉大な影響を主君にお与えになられたのが、御両親様が御息女、姫様でございました。」
姫様っ。両親に最大の衝撃が走る。けれど相手は冷静だ。紹介は滞りなく続いていく。
「そのように偉大な御方を是非とも我が主の妻にお迎えせんと、この度、古より伝わる仕来りに則りまして、使者を派遣するに至ったのでございます。またその際、姫様には良い返事を頂くことが叶いまして、今回の運びと相成りましてございます。」
と、ここで一区切りついた。
両親は相変わらず口をポカンと開けていて、父親は「は、はあ」と、気の抜けた返事しか出来ないでいる。
娘が余りにも高く評価され過ぎてはいないだろうか。本当にこの娘のことを言っているのだろうか。人間違いなのでは。と、親子揃って同じ感想を抱かずにはいられない。
置いてくれたのは一拍だけで、文官は再びつらつらと話を続けた。
「常でしたらこのようにして国を渡り、
故に、前触れもなく誠に無礼ながらも、このようにしてお目に掛からせていただいたという次第でございます。」
また一区切りついたようなので、両親は声を揃えて「は、はあ」と、気の抜けた返事を繰り返した。文官は四度口を開いたが、今度は交代を告げる為のものらしかった。
「それでは、これより
長い紹介文が終わったらしい。それにより、ようやく主役の一人である御殿の主が口を開いた。
すると、その穏やかな声は、誰の耳にもはっきりと入り、誰の心をも釘づけにした。それは彼の持つ妖力が魅了として働いたからなのかもしれない。
「御尊父、御母堂、こうしてお目に掛かれましたたことを光栄に存じます。この度は御息女を我が城にお迎えすることが叶い、栄誉の至りでございます。これ程の僥倖は生涯有り得ないものと心得ております。
さすれば御息女のことは誠心誠意お守りし、永久の愛をもって幸福の内に慈しむ所存でございますから、御二方には心の憂いをどうぞ払われますようにと、心からお願い申し上げるものでございます。」
すると、やはりすっかり魅了されてしまったようで、驚くことに両親は態度が急変してしまった。
「あ、ああ、いえっ、こちらこそ、大変丁寧なご挨拶を頂きまして、恐縮ですっ。」
と、父が言えば、
「花嫁修業の一つもさせていない娘ですので、お恥ずかしい限りですっ。申し訳ありませんっ。」
と、母が謝り始めた。
莢子は険しい顔をして両親を顧みた。
「ど、どうしちゃったのよっ。娘が人間じゃない人と結婚しちゃうかもっていう話しなのよっ。分かってるのっ。普通は反対するでしょうっ。これきり会えなかったらどうするのっ。」
ところが、切羽詰まったように非難しても、両親の顔からは御殿の主への好意は消えず、歯牙にも掛けてもらえない。逆に彼の味方についたように、娘を懐柔しようとし始めた。
「まあ、そんなこと言っちゃ失礼でしょう。素晴らしいお相手じゃないの。こんなに望まれて結婚できるなんて幸せよ。」
と、母が言えば、
「却ってご迷惑をお掛けしないか心配です。何の躾もしていない娘ですが、どうかよろしく。」
と、父は御殿の主に向かって頼んだ。
彼は目を細めてこれに答える。
「恐れ多いことでございます。御息女は私にとっては夢のような存在。御両親に於かれましてもかけがえのない宝珠でございましょう。さすれば
両親はすっかり惚れ込んでしまい、終いには「ありがとうございます」と声を揃えて礼を言う始末。
莢子にすれば飛んだ見込み違いである。両親は莢子の味方になって引き留めてくれると思っていた。それに乗じて、
この変化は異様にも思えたが、それで話は纏まってしまう。気付いた時には帰る段取りに入っていた。
「御二方に、これをお持ち致しました。受け取ってくださいますか。」
主が言うと後ろから老婆が進み出て、否、男達の脇を擦り抜けて、父親に小さな木箱を差し出した。彼が恐縮しながらそれを受け取った後、神経質そうな文官が中身について説明した。
「そちらは主君自らが念を込めた、得別な品でございます。身に付けられました時には、必ずや御二方の御力となりましょう。
姫様が天日国にお出でにならないことを不思議に思われぬように、誰もが化かされてしまう、というものにございます。」
それは困るっ。と、思ったのは莢子だけだった。両親は呑気に「それは助かります」、「ありがとうございます」と平伏する勢いで礼を返している。
「では、暫しの滞在で申し訳ございませんが、私共はこれにて失礼いたします。」
とうとう御殿の主が別れの挨拶を口にしてしまった。床に着いていた莢子の足元にも、ポッと鬼火が灯ったではないか。体が浮かび上がってしまう。
彼女は取り縋るように両親を顧みた。それでも相手の気持ちは前向きで、母親が浮かべている涙は、ただの感涙だ。
「元気でね。幸せになってね。」
「体に気を付けるんだぞ。」
そんな言葉が欲しいんじゃないっ。娘は二人に向かって手を伸ばした。だが、両親は別れの挨拶だとばかりに、娘の指先をぎゅっと握り返すだけで満足し、無情にも離してしまう。
そうじゃないのよっ。這うようにして家に残ろうとしているのに、体は勝手にご主人様の許に流されていってしまう。とうとう彼に掴まってしまい、
「別れが惜しいな。」
と、声を掛けられれば、悔し涙が溢れてしまった。
「嫌だっ。お母さん、お父さんっ。私、ここにいたいっ。」
必死に訴えたが、相手も別れが辛いと泣きはしても、何故だろう、決して引き留めには向かってこない。
「さあ、行こうか。」
優しい声が耳元でするが、莢子には全く意味を成さない。彼女は思い出したように両親に言った。
「翠、翠にっ、」
だけど言葉が続かない。翠に、どうして欲しいのだろう。
それでも母は答えた。
「さっちゃんがいなくなって、みいちゃんの家に電話を掛けたんだけど、ずっとお留守で繋がらなかったのよ。」
これを聞いて、そうか、と思い出した。親友は一家で旅行に行ってしまったのだ。
「じゃ、じゃあ、月曜には帰って来るって言ってたから、そしたら翠に、私のこと、伝えてっ。」
そうしたら、どうなるのだろう。
分からなかったが、とにかく親友に自分のことを知って欲しかった。
「ああ、分かったよ。」
父が答えると、御殿の一行は身を返した。
振り向いて両親を求める莢子の体を、主はしっかりと支えている。まだ混乱している彼女は、まるでうわごとの様に親を呼んでいる。当の二人は涙ぐみながらも、笑顔で微笑み返している。
玄関へと出てしまうまでの短い間、主君はこの場にいた臣下達に警告した。
「この方の名に関することは他言するな。」
彼らにとっても当然のこと、文官は即座に返した。
「心得てございます。」
他の三人も、同じ気持ちで頭を下げる。その間に玄関から外へと出てしまった。両親も見送りについて来る。
最後尾にいた老婆らも外へと滑り上がれば、後を追う両親に対して開かれていく夜の視界。上空にも予想外の臣下が待っていたことを知り、尚も驚かされてしまった。
莢子は輿が目の前に迫ってようやく、現実に立ち返った気持ちになった。輿に乗るまいと抗って、男の体から離れようと手を突いた。が、相手はビクともしないし、足元は勝手に上がってしまう。行列の前方では、地に降りていた武官達が、再び青いレールに乗っていた。
急に切羽詰まったように両親を求める娘の叫びと、主の意志に従って上昇し、旋回を始める臣下の一行。その光景は、まるで大蛇が身をくねらせていくようである。
居るわ居るわ、どれだけ経っても途切れない行列。女人らが龍の腹から分かれるように、門柱の内にいる両親の前に次々と貢物を置いていく。きっと青い龍の尻尾が見えなくなるまで、両親は夢見心地で見送り続けることだろう。
だが、彼らの娘は心が引き千切られて、家から離れるに従って強い衝動に駆られ始めた。
輿に座ったことで、既に男の腕から解放されていた彼女は、右側の開口部に身を寄せて、両手で横木を掴んでいた。「お父さんっ、お母さんっ」と、泣いている。
旋回したことでその姿が見えなくなると、絶望したように両手の間に顔を伏せた。もう声も届かなくなると思えば、ついに我慢が出来なくなってしまった。
両親が化かされているのなら、誰が自分を助けてくれるというのだろうか。それはきっと彼女、そう、親友しかいない。旅行に行っているかもしれない、だが、ここに居なくても構わない。彼女を呼ぶっ。
莢子は顔を上げると、開口部から躍り出て叫んだ。
「み、翠ーーーっ。」
アッと思ったのは主君だけではなかった。助けの手を出そうとしたのも彼だけではなかった。
輿から飛び出した彼女は、落ちなかった。何かが体を引き留めたのだ。男の手ではなかった何かが、彼女の全身に張り付いていた。体はもう元の位置に引き戻されており、頭上から聞こえたのは男の声。
「今は暫く眠っていなさい。」
気遣う様な囁きと共に、何やら甘い香りがした。と思うや、一瞬にして睡魔に引きずり込まれていく。
彼女が最後に思い浮かべたのは、両親だったか、親友だったか。力を無くした彼女の体を離さないように、男はしっかりと抱き締めた。
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