「行くな!」

そう言えていたら、と今でも思わずにはいられない。どうして手離したのか、何故他の道を探せなかったのか。

俺の言うことなど聞かないのは元より分かっていた。一度決めたら何があろうと貫く。無茶で面倒な女。それでも、その強さと純粋さに惹かれた。


京から届けられた荷には、どこか懐かしい薫りが染み付いていた。佐殿——そう、頼朝公が好んでいた沈香の匂い。


彼女の遺品の形見分けをしてくれたのは、左兵衛佐殿である源具親殿。いや、今は左近衛少将だという。従五位下の俺など到底敵わぬ相手。

丁寧な文と共に届いたのは、絵が数枚だった。それらに目を落として息を呑む。

——ヒミカ。


記憶のままの姿で、此方を向いて微笑んでいる彼女。その目は穏やかで口元は優しげに微笑んでいた。


幸せだったのだな、と安堵すると共に胸をジリジリと灼き焦がす嫉妬の炎。


——何故、手放したのか。守り切れなかったのか。焦ったのか。


ぐしゃりと握り潰してしまった文を伸ばして開き、もう一度目を落とす。


「護り切れずに申し訳がない」


——何故、あんたに謝られなくてはいけない。守れなかったのは俺の方。


身一つで京に行った彼女を護ってくれたのは、あんたの方なのに。


「最期まで、彼女は鎌倉のことを、貴殿のことを想っておられた。架け橋になりたいと。絵の一枚は私が猶子にした、ヨリという口のきけない九つの男児が描いたもの。彼は鎌倉には戻らず絵師になるそうです。だからどうぞお見逃しを。また別の古い褪せた二枚は、彼女の荷の奥に、貴殿からの文と共に大切にしまい込まれていたもの。貴殿の元にある方が良かろうかと思い、お返し致します」


幼い少女の似せ絵と元服前の童の似せ絵。その筆から、同じ描き手によるものだと分かる。絵の横、薄く消えかけた字を見て、その描き手を知った。藤判官代、藤原邦通殿だ。

では、この少女はヒミカで、この童は俺か。

改めて、薄く消えかけた文字を明るい所へ持って行って読む。

「別れをば 山の桜にまかせてむ 留む留めじは花のまにまに」


——何故、藤原邦通殿はこんな歌を?それも、もう二十年も前に。でも、不思議と今の自分の心に添うような歌だと思った。



ヒミカが鎌倉で産んだシゲとカグヤはもう暫く京に居たいと言っているらしい。殆ど顔を合わせることのなかった二人の子だから、仕方のないことだろう。今は彼に託すしかない。


次に、先に藤五に託してヒミカに送り、戻されてきた文にもう一度目を通す。そこには薄桃色の色筆で短い文が書かれていた。


「この国を一つにまとめ、佐殿の目指した泰平の世をつくってください。私はそれまでここで鎌倉と京を結ぶ架け橋をつくっていますから」


もう一度その薄桃色の字を指でなぞると、大きな溜息を吐いて立ち上がった。


「まだ道半ばじゃないか。早過ぎるだろう。ふざけるな。俺一人に全て丸投げして、とっとと先に逝くなんて。お前の我儘には、ほとほと呆れ返る」

そう、毒づいてやる。


その時、ふわりと風が、ホトトギスの鳴き声を運んで来た。


——大丈夫。一人じゃないわ。尼御台様に泰時、朝時、シゲにカグヤ、それに沢山の御家人が、仲間たちがいるじゃない。


彼女の声。


「でも、お前がいない」


拗ねるようにそう答えたら、くすりと小さな笑い声が聴こえた気がした。



突然俺に求婚してきた、幼い少女。無茶ばかり言って困らせて、振り回されて掻き乱されて。お陰で、欲しくもない役を与えられ、重い荷を背負わされ、きっとこれから先、死ぬまでずっと血と泥の中を這いずり回ることになる。


でも、お前がそう望むなら——。

「しょんない。やるしかないか」



見上げた空から薄桃色の桜の花びらが舞い降りてきた。


「花の頃に散るとは、お前らしいよ」


——そう、いつまでも花のように美しく清浄であれ。俺の大切な白巫女。ヒミカ。



——————


その後、義時は鎌倉幕府の二代目執権として、尼御台北条政子と共に鎌倉の幕府を統括し、承久の変を経て、京の皇統にも影響を及ぼす程の力を持つようになる。



ヒミカの産んだ朝時は、北条の名越館を継いで名越流の祖となり、源具親の次男、輔時を猶子にした。重時は三代将軍、源実朝暗殺後に、京の九条家の三寅を四代将軍家として迎えに行き、小侍所の別当としてその後見にあたり、その後は京の六波羅探題の北方に任じられて京と鎌倉の架け橋として長く幕府を支えた。カグヤは在京御家人の中原親広の側室となった後、京の公卿、土御門定通に再嫁し、京を、源具親の側を離れることはなかった。


 また源具親は、承久の変の後、少しして出家し、如舜という名で歌人として八十を超えるまで活動した。


「今はとて 思ひたゆべき槙の戸を ささぬや待ちしならひなるらむ」

(もう思い諦めるべきなのだ。槙の戸も壊してしまうべきなのに、そうしないで寝るのは、毎晩あの人の訪れを待ち暮らした名残だろうか)

「木枯らしや いかに待ちみむ三輪の山 つれなき杉の雪折れの声」

(これから吹こうとしている木枯らしは、どのように三輪山の杉と出逢うのだろうか)

これは男女の三角関係を謳ったものだという。


いつか、また逢えるだろうか。




——了



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姫の前――喋らない動かない男・江間義時の妻 山の川さと子 @yamanoryu

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