日水風

——どうしよう。自分はなんてことをしてしまったんだろう。


一人で強く生きていた具親をこんなに弱くしてしまった。もっと一緒に居られる筈だった。いや、居られると信じていた。今でも信じたい。でも、もう……。



諦めかけたその時、突如頭の中に響いた声に、ヒミカは目を上げた。



——何言ってんだい。本当にお前はお間抜けだねぇ。


「お祖母様」

 祖母の不敵な笑顔を思い出すと同時に、胸の中に湧き上がる自信。

大丈夫。そう、大丈夫だ。何があっても大丈夫なんだった。忘れてた。


ヒミカは起き上がると具親の手を握った。外から戻ったばかりで、ひんやりと冷えた大きな手を温めながら、懸命に言葉を紡ぐ。

「亡くなった祖母が言ってました。人は皆、死ぬ。だから死ぬも生きるも怖いことなんかない。肚を据えて、目の前の出来ることだけやって、死に時が来たら死ぬだけだと」

「死に時?」

「ええ。人にはそれぞれ、時機があるそうです。神仏に決められた時機が。だからそれが来るまで、身に降り積もった穢れを祓いながら、少しでもこの世が清浄なる神の国に近付くように祈り、祓い続けるのが巫女の務めだと」

「では、貴女は今もそうやって祓い続けているのですね」

「え?」

「先の言葉です。私の泣き言や、いじけ心を払い飛ばしてくれた。思えば、私はいつも貴女によって励まされている。貴女はきっと一生神子なのでしょうね」


——一生、神子。

その言葉はヒミカに温かな熱を、勇気をくれた。

「はい。そうありたいと思っています」

「それにしても、さすがは貴女のお祖母様ですね。死に時とは驚きました。剛毅なお方だ。一度でいいからお会いしたかった」

ヒミカは微笑んだ。

「会えますよ」

具親が目を剥く。

「会える?だって、お亡くなりになったのでしょう?」

「ええ、でも祖母は言っていたのです。死んだって、離れていたって、人は逢いたい時にはいつでも逢えるのだと」

首を傾げる具親。

「私が困った時や悩んだ時、ふと答えをくれる。夢に見たり、文字で表れたり。そう、龍のように側にいてくれるのを感じるんです。そういう時は祖母が逢いに来てくれているのだと思います。だから、龍を呼べる具親様なら祖母に逢えますよ」


そう言ったら、具親は嬉しそうに微笑んだ。

そうだ、彼は祖母に逢える。そして、自分にも——。



それから少しの間、ヒミカの容態は落ち着いていた。具親に支えられて庭へと下り、綻び始めた桜の薄桃色の蕾を間近で見るくらいに。


 でも、時は近付いていた。



その日は暖かな日だった。胸の痛みは消えていた。胸に入ってくる春の香り。降り注ぐ陽の光が縁に樹々の濃い影を落としているのを見て、そこまで這って行き、陽の光をいっぱいに浴びる。お天道様に向かって掌を差し伸べ、光に透かしてみる。温かい。まだ生きてる。胸の病はきっと治ったのだ。有難い。もう少し生きられる。そう思った。



でも、それは突然来た。

——ドクン!

 胸が大きく鼓動し、それから鼓のように激しく細かく律を速めていく。


「具親様!」

叫ぶ。でも声にならない。もがき苦しむヒミカの手を掴んだ小さな手。

「母さま!」

カグヤだった。ハッと息が胸の中に飛び込んでくる。

「カグヤ」

 カグヤの艶やかな短い髪がさらりと揺れる。

「カグヤ、御免ね」

カグヤと目が合った。コシロ兄そっくりの少し吊り上がった切れ長の瞳。細面で少し尖った顎。見る度にコシロ兄を思い出してしまい、母に任せきりで、あまり構ってやれなかった。

「御免ね。貴女にお裁縫やお料理、色々なことを教えてあげたかった。でも、もう時が足りないみたい。御免ね」

カグヤが叫んだ。

「父さま、兄さま!父さま!父さま!早く来て!」

——父さま。

ああ、具親のことだ。ここに女の子は居た。既にここに居たのに。

ヒミカはカグヤの小さな手に自分の手を重ねた。

「カグヤ、母さまの最後の我儘を聞いてくれる?」

問うたらカグヤはじっとヒミカを見た。睨むように。

「父さまを。具親様をお願い。お願いします」

カグヤは黙ってヒミカを睨み続けていた。ヒミカは涙を堪えて、祈りを込めてカグヤを見つめた。

——ええ、どうか憎んで。恨んで。まだ小さい貴女に、そんな重い枷を付けた母を、私を恨み続けて頂戴。それでも私は貴女を愛している。だから貴女に託させて。

「可愛いカグヤ。御免ね、有難う」


言い疲れて目を閉じかけた時、物凄い力で抱き上げられた。

「ヒミカ!」


「逝くな!逝かないでくれ!頼むから。何でもする。私の命と引き換えでいい。だから逝かないでくれ!」


——いくな!


その言葉を聞いた時、目尻から涙が一筋、流れ落ちた。


ああ、と悟る。自分はずっとそう言われたかったのだ。必要とされたかった。


ヒミカこそが欲張りだった。たった一人の人で良かったのに。自分の手の届く、たった一人か二人の手を離さずに愛して、愛されて、それだけで十分だった筈なのに、もっともっとと、多くを望んだ。皆を。全てを。多くを望んだ結果がこれだ。本当はゆっくり大切に生きるべきだった。皆。全て。そんな神の領域まで欲張りをせず、自分の手の届く範囲だけを、そして何よりもヒミカ自身を大切にすべきだったのに。

——ズキン。

左の胸が強く痛んだ。ヒミカは右掌をそこに当てがって優しくさすった。

「御免ね。私はまず、私自身を大切にしなくてはいけなかったのね」

——ツキンツキンツキン。

痛みがヒミカに伝えてくる。

——そうだよ、どうして今まで気付いてくれなかったの?

 そう言っているかのように。ヒミカはそっと自らの心の内に語りかけた。

「有難う。痛みを教えてくれて。今まで無理をさせて御免ね。頑張って動いてくれて有難う」

痛みを訴える胸にそう優しく語りかけたら、じわりとそこが熱を発した気がした。通じた。そう感じてヒミカはホッと息を吐いた。


あとは——。


ヒミカの枕元で泣き咽ぶ具親の頰に指で触れる。

「具親様、忘れないで。私はいつでも貴方のお側にいます。貴方が寂しい時にはいつでも。だから探してください。私の名はヒミカ。日と水と風。そこに私は居ますから」

いやいやと子のように首を横に振る具親の頰を流れ落ちる涙をそっと掬って微笑むと、ヒミカは最期の言葉を伝えた。



「夢でまた、逢いましょう」



 藤原定家はその日記『明月記』の承元元年三月三十日に記している。前日に左近衞少将源具親の妻 重時女が亡くなったと。

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