終
終
願はくは
「ヒミカ!」
呼ばれて目を開く。具親がヒミカを見下ろしていた。
「具親様」
名を呼んだら、具親はその大きな目から、ボロリと涙を零した。
「良かった。倒れたと聞いて胸が潰れるかと思った」
「平気です。少し苦しかっただけ。もう収まりましたから」
微笑んでそう答えながら思い知る。何故、母が姫に拘ったのかを。彼を、具親を独りにしない為だったのだ。胸苦しさはまだ続いている。でも息が出来ない程ではない。まだ平気。そう、まだ。
「具親様、欲しいものがあります」
言ったら、具親は目を見開いた。今までそのようなことを口にしたことが無かったからだろう。でもすぐに目を細めて笑顔を見せる。
「何でも。貴女の望むなら、輝夜姫の宝でも取りに行きましょう」
ヒミカは首を横に振った。
「いいえ、それは嫌です。だって、どれもとても遠くにあるのですもの。今は貴方に側に居ていただきたい」
具親は破顔した。
「おやおや、甘えん坊ですね。では何でしょう?近くで手に入るものでしょうか」
ヒミカは首を傾げた。
「女の子を」
「え?」
「貴方の血を引く女の子を産みたい。きっと貴方に似て、大きくて綺麗な目の可愛い姫に育ちます」
すると、具親はその大きな目を細めて頷いた。
「ええ。そして、貴女に似て美しく無垢な姫にね」
「約束ですよ」
「ええ、約束です。だから今はもう少し休んで。食が細くなってるのではありませんか?医師に薬を持たせましょう」
ヒミカは首を横に振った。
「薬は欲しくありません。まだ、もう少しで治りますから」
具親は困った顔はしたが、ヒミカの言葉を受け入れてくれた。
でも、それからヒミカはあまり動けなくなった。うとうとと眠りに落ちやすくなった。微睡みながら夢を見る。遠い昔の夢。沈香の薫りと祖母の祝詞をあげる声。猫の鳴き声。父と母が庭から上がってくる気配。
——ここは、比企?
「ヒミカ」
呼ばれて振り返れば、真っ白な菊の花が庭を染めていた。心に浮かんだ言葉を口から発する。
「心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花」
あれを詠んでいたのは誰だったろうか?
「凡河内躬恒ですね」
声に目を開けば、具親がヒミカを抱き留めていた。
「具親様?」
「驚きました。うわ言かと」
「いえ、夢を見ていたのです。昔の夢を」
「今朝は急に冷え込んだ。まこと、菊だか霜だかわからない。良かったら眺めてみますか?」
素直に頷けば、具親はヒミカを沢山の着物で包んで抱え上げた。縁へと寄る。
「寒かったら言ってくださいよ。すぐに戻りますからね」
ヒミカは頷いて、眩く光に溢れた庭を眺めた。いつの間にこんなに寒くなったのか。
「雪?」
具親は首を横に振った。
「霜ですよ。先に貴女が詠んだ歌の通り。まこと綺麗ですね。一本手折ってみましょうか」
「いいえ。手折ったらお花が可哀想」
そう言ったら具親は微笑んだ。
「では、これを」
言って、一枚の紙をヒミカの前に差し出す。そこに描かれていたのは、大輪の白菊の花だった。
「まぁ、なんて華やかな菊の花」
「ええ、今日は重陽の節句。ヨリが貴女に見せたいと昨日描いていました」
ヒミカは微笑んで菊の絵を眺めた。
「後で菊のお酒をいただきましょう。飲めば寿命が延びますからね」
「ええ」
思い出す。鎌倉での賑やかな菊花の宴。藤原邦通の育てた大輪の菊。
「ええ」
——生きなきゃ。
ヒミカは差し出された菊花の酒を大切にちびちびと喉に通した。艶やかに香り立つ菊の酒が胸苦しさを少し消してくれたような気がした。
「具親様、ごめんなさい。眠くなりました」
言ったら、具親はヒミカを横たえ、衾をしっかりと掛けた上に、沢山の着物を乗せていった。
「重いです」
笑って文句を言えば、いいえと首を横に振る。
「寒いより良いでしょう。では、私は出仕して来ます。シゲ、母に付いていておくれ。何かあれば、すぐに健人を寄越すように」
そう言って、具親は出掛けて行った。
シゲは大人しくヒミカの横でブツブツと和歌を口ずさんでいた。その丸い横顔を眺めていたら、シゲが「あ」と口を押さえた。
「御免なさい。煩くて眠れなかったら、そう言ってね。先に編纂された勅撰集の写し損じをお師匠様にいただいたので、暗誦出来るようにしているのです。師匠は、目で見ながら音読するのが一番頭に残ると仰るので」
「定家卿はお厳しいの?」
シゲは、具親の和歌仲間であり、当代一の歌詠みと言われている藤原定家に和歌の手解きを受けていた。
「いいえ、お優しいです。やると言ったことをやらなかったり、道理の通らぬことをしたりすると厳しくお叱りになるけれど、様々な面白い話を聞かせて下さいます。私は大好きです」
「それは良かったこと。よかったら声に出して読んで頂戴。私も聞きたいわ」
シゲは嬉しそうに頷くと顔を上げて唱え始めた。
「願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」
「ねがはくは?」
「これは西行法師。一番好きな歌なんだ」
「そう。もう一度詠んでくれる?よくわからないけれど、何だか切ない気持ちになる歌ね」
「うん。もし願いが叶うなら、春に桜の下で死にたいって意味かな。この西行って人は本当に如月の望月の日に河内で眠るように亡くなったんだって。すごいよね」
「西行?」
かつて、東大寺再建の為の勧進の途中、鎌倉に立ち寄り、頼朝と夜通し会話をした僧。彼はそんな名ではなかっただろうか。
「願はくは 花の下にて春死なむ。その如月の望月の頃」
ヒミカは口ずさんだ。
確かに。何となくだけれど、分かる気がする。願いが叶うものなら、満開の桜の樹の下、雪に埋もれるようにして、散る花びらを眺めながら死にたい。眠るように。
——死ぬ。
その時、ヒミカの胸が痛んだ。そして識る。
自分は、もうそう長くない——。
「母上?」
心配そうにヒミカを見下ろすシゲに、ヒミカは笑顔を作って見せた。
「他に西行法師のお歌はないの?」
訊ねたヒミカに答えたのはシゲの声ではなかった。
「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ澤の秋の夕暮れ」
具親だった。
「まぁ、お帰りなさいませ。お早いお戻りでした。お忘れ物でも?」
「いいえ、今日は何人か風邪を引き込んだようで、念の為に早仕舞いとなりました」
「そうでしたか」
「西行法師の歌をお気に召したようですね」
「ええ。何というか切なくなる響きがありますね」
具親は「ええ」と頷いてから、遠くを見るように目を彷徨わせ、懐かし気に微笑んだ。
「実は、私が子どもの頃に出逢って、和歌や龍のことや『神の手』のことを教えてくれたのは、その西行殿だったのですよ」
「え」
「私が初めに聞いて、到底敵わないと憧れ続けた歌は、先程私が詠んだ歌でした」
——心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ澤の秋の夕暮れ
「心」
「ええ。あの歌を聞いた時、幼いながらに、自分にないのは心だと思った。それからずっと探し続けて、貴女に逢った。同じ頃、和歌所の寄人に選ばれて新しい勅撰集の為にあらゆる和歌を集めていた時に、子どもの時に聞いて忘れてしまっていたこの歌にも出逢えました。私は全てを手に入れた。だが同時に知りました。手に入れた喜びには、それらを手放す時の痛みと苦しみが伴うことを」
「具親様」
「人は愚かですね。持っていないと欲しくなり、手に入れると今度は失うのが怖くなる。これは争いがなかなか無くならないわけだ」
自嘲気味に話す具親。その身には「恐れ」という負の陰が取り憑いていた。ヒミカはふと思った。彼はヒミカと会うまで一人で生きてきた。天性の才能と運と努力と、何よりその明るく屈託のない性質によって天に護られ、強く自立して生きていた。でもヒミカや子らに会ったことで、彼は変わらざるを得なくなった。それは彼自身が望んでいたことではあったけれど、トモは元服して京を離れ、シゲもいずれ鎌倉に呼ばれるだろう。ヒミカが産んだタスケとジスケはまだ幼い。そして、ヒミカは——。
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