十七 果たされた約束

その年の除目で、具親は従四位下、左近衛少将へと上がった。だが夏に入った頃、鎌倉にて乱が起きたとの急報が京に入って来る。でも詳細がはっきりしない。北条時政が流されたとか牧の方が処刑されたとか、将軍実朝が殺されて尼御台が攫われたとか。トモがどうしているかもまるでわからなかった。ただはっきりしているのは、畠山重忠が江間義時に討たれたということだけ。畠山重忠はシゲの名を貰う筈だった武将。コシロ兄の妹婿だった。頼朝が勝長寿院を建てた時に二人が力を合わせて柱を建てていたことを思い出す。でもそれより何よりトモの安否が知れないのがヒミカの胸を騒がせた。でも京も騒乱の最中にあった。京都守護の平賀朝雅が屋敷で何者かに殺されたのだ。それにより、初めは遠い鎌倉のことだと笑っていた公卿らが慌て出した。京を離れる者もいた。平賀朝雅は後鳥羽院の寵臣で、具親とも親交があった。京の町は物々しくなった。当然、左近衛少将の具親は屋敷を開けることが増える。


何が起きているのかわからないまま時が過ぎた頃、庭で犬が吠える声に顔を上げる。まだ昼間で明るいのに野盗だろうか。具親は不在。健人を呼ぼうとして気付く。シゲとヨリが庭で涼んでいた筈。ヒミカは慌てて外へ飛び出した。

「シゲ、ヨリ。何処です?」

「なぁに、母上?ここでヨリと写生中だよ」

のんびりとしたシゲの声にホッとした時、小さな声がヒミカに届いた。

「お方様」


声の方に目を向ければ、見覚えのある顔が垣根の向こうからこちらを窺っていた。

「藤五?」

鎌倉の江間屋敷に仕えていたシロ兄の従者、藤五だった。

「何故、京に?」

「殿からの文を持って参りました。お方様にと」

「トモは?あの子は無事なのですか?今何処に」

「はい。若君、いえ、朝時様は殿の元でお励みになっておられます」

良かった。ヒミカは胸を撫で下ろした。それから藤五を睨む。

何故、門からいらっしゃらないのです?」

「六波羅で聞いたら、此方の主殿は鎌倉からの使者が大層お嫌いだと。また内容が内容だけにお方様に直にお渡ししたく、庭の様子を窺っておりました」

ヒミカは頷いた。

「わかりました。では文を頂きましょう」

差し出された文を受け取り、息を詰めてその場で開く。目に飛び込んでくる生真面目な細い文字。数行の短い文。

「父と牧の方を鎌倉から追放した。鎌倉へ戻って来い」


変わらずの端的な文面に、つい口元が緩んでしまう。

——変わらない。変わっていない。コシロ兄は約束を果たしてくれた。父を越えて迎えを寄越してくれたのだ。


でも——。


「藤五」

声をかける。

有難う。迎えに来てくれて」

それから、すぅと息を吸い込んだ。

有難う御座います、と殿にお伝えして」

「お方様?」

「私は京におります。鎌倉には戻りません」

「伊賀の方様につきましては、ご案じなさいませぬな。別の屋敷を用意しております」

「いいえ」

ヒミカは首を横に振った。

「そうではありません。私はもう京の者です。此方でやることがまだ御座います。鎌倉へ行くわけには参りません」

「ですが!」

藤五の声には応えずにヨリの元へ歩み寄り、彼が手にしていた色筆を借りて文にサラサラと文字を書き足し、風にあてて乾かすと、元のように折り畳んで藤五に戻した。

「殿ならきっと分かって下さる筈。佐殿が目指した泰平の世の為、私はここで架け橋をつくりたい。京と鎌倉と、どちらも。いえ、全てが大切だから。皆に笑顔で居て貰いたいから、私はここに居ます」

言い切って唇を引き結ぶ。藤五は黙って去って行った。ヒミカは胸を押さえて細く長く息を繰り返した。ヨリが描いていた庭の絵をぼんやりと見つめる。濃い緑の中、薄桃色に透き通った花弁を開く葵の花が首を空に向けて立っている。まだ上の方の花は開いていない。まだまだ長く楽しませてくれるだろう。

クゥンと鼻を鳴らして擦り寄ってきた犬の鼻筋を撫でて礼を言うと、ヒミカは犬を小屋へ戻そうと歩き出した。


「宜しかったのですか?」

声をかけられ、振り返れば具親が立っていた。

「すみません。健人から聞きました。鎌倉から迎えが来ていたと」

ヒミカは頷くと、具親に歩み寄ってその手を握った。

「ええ。でも私はここに、京におります。私は貴方様の妻ですから」

途端、抱き竦められる。

「有難う。居てくれて有難う」

ヒミカは具親の背に腕を回した。

「それは私の言葉です。居て下さって有難うございます」

「貴女だけは失いたくない」

そう言う具親の声は震えていた。

「ええ、お側におります。私はいつでも貴方のお側に」



だが、穏やかな日は長く続かない。年が明ける前、ヒミカは左の胸に妙な重苦しさを感じた。

——息が出来ない。

「母上!」

シゲが呼ぶ声が聞こえる。でもヒミカはそれに応えることが出来なかった。


——眠い。でも、まだ駄目。眠ってはいけない。

懸命に目を開こうとするが、泥の沼に引き摺られるようにヒミカの身体は思うままにならない。

——重い。昏い。灯りが消えてしまったのか。雲が日を遮っているのか。でも——。

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