十六 春を呼ぶ黒の姫

「え、トモを鎌倉に連れて行く?」

北条時政の使いは、具親に挨拶するなり、トモに向かって慇懃に頭を下げた。

「若君、北条のお祖父上が、貴殿の元服を執り行いたいと鎌倉の名越にてお待ちです」

「祖父上?父上じゃなくて?」

尋ねるトモに使いの男は無表情で首を振って続けた。

「無論、江間殿もお待ちです。ですが、私は北条の大殿より直々に、若君を名越の北条館にお連れするよう命を受けて上洛いたしました」

「母上やトシゲは?」

「私が受けた命は、一の若君を鎌倉の北条館へお連れするようにとのみ。他の方々に付いては何も聞いておりません」

——嘘だ。そう思ったが、ヒミカは何も言わずにトモを見た。北条時政が欲しいのはトモだけなのだろう。シゲは要らない。そして、自分もまた鎌倉に戻っては困るのだ。前年に亡くなった政範の代わりにトモを猶子にしたいのかも知れない。牧の方の産んだ子は、六郎と呼ばれていた政範以外は全て女子。だから政範が北条を継ぐのだと聞いていた。でも、その政範が急に亡くなったから後継に悩んだ時政は、まだ幼くて操りやすいだろうトモの存在を思い出して声をかけてきたのだ。江間には嫡男として泰時がいる。トモならいいだろうと。


「さて」

具親がパチンと扇を開いて口元を隠しながら声を上げた。

「お父君である江間殿がご健在なのに江間殿からは文も使いもなんもあらしゃいまへんのに、祖父上である北条殿が直に、ちゅうのは、どない考えて良いもんやら。昨年、平賀殿の邸にて起きたことは、あても噂でよう耳にしとります。北条殿が娘婿の平賀殿を焚き付けて武蔵国を横取りする気やおまへんかって京では皆ゆうとりますわ。それに異を唱えとるんが北条殿の次男の江間殿とか。父子の間柄が上手くゆかんからて孫を引っ張り出そうとは、これは噂通り、北条殿は食えんお人そうやなぁ」

京言葉をゆるゆると発して挑発する具親をヒミカとトモは黙って見守った。

「トモはあてらの大事な子どす。どうしてもてゆうんなら、この子の真のお父君である江間義時殿の使いなり文なりも欲しいものよ。大人の親子の醜い諍いに、まだ幼いこの子を巻き込むんは、あてはよう賛成出来ひんどす」

そこで具親はヒミカを振り返った。

「なぁ、あんたさんはどない思われます?あんたさんを鎌倉から追い出した北条時政殿に、祖父とはいえ、この子を預けてええんやろか?時政殿が三代将軍を殺そうとしとったちゅう噂も耳に入ってきとりますし、あては鎌倉にはやりとうないなぁ」

「す、全て単なる噂ではないか!大殿を虚仮にするつもりか!」

そのとき、具親がバッと立ち上がって一喝した。

「無礼者!控えよ!」

「私は従五位上、左兵衛佐の源具親。無位無官の輩に目通りを許しただけでも有り難く思え」

具親の怒声に平伏した使いの男を見下ろし、具親は扇をはらはらと優雅に開くと続けた。

「ま、今宵はこの辺にて仕舞とさせておじゃれ。鎌倉の方々なら六波羅に宿所が御座ろう。そちらに後日使いを向かわせるよって、そちらでお待ちやす。ほな、今宵はここまで。おつかれさんどした」

そう言って具親は使いを屋敷から追い出した。

 ふぅと溜息をついて苦笑する。

「また官位を嵩にきて鎌倉の方々を追い払ってしまいました。六波羅では、私のことをさぞ七面倒な公家だと噂していることでしょうね」

ヒミカは具親の首に抱きついた。

「いいえ、いいえ。有難う御座います。トモを護って下さって」


「しかしどうする?」

具親は、ヒミカとトモ、シゲを前にどっかりと胡座をかいて間を乗り出した。

「江間殿は本当の所はどうお考えなのか」

ヒミカは僅か黙った後に口を開いた。

「江間殿は確かにお父君とあまり上手くいってないようでした。お父君のやりように抵抗を持ってらした。でも、まだ力が足りないからと歯痒そうにしてました。だから今回のことも恐らく北条殿の独断でしょう。ただ、元服の式には江間殿も参列する筈。父があるのに、それを差し置いて祖父が仕切るのは御家人らが後ろ指を指すでしょうから。だから慣例に倣って元服を行なった後に、トモを自分の猶子にするつもりなのではないでしょうか。将来、自分の命を受けて手足となって働いて貰う為に」

具親は溜息をついた。

「京でも外祖父が政を執り仕切り、縁のある子を猶子にするはよくある話。だから私は何とも言えない。だが、大抵は裏の話し合いで血を見ずに済ませる京に比べて、鎌倉はもっと性急なように感じられる。処と人によって考え方が違うのは仕方のないことだろう。鎌倉ではそれが正であり義であるなら、私には口出し出来ない。何処に生きるかは大抵は選べぬもの。だが」

具親はそこで言葉を切ってトモを見た。

「お前は今なら京でも鎌倉でもどちらも選べる。お前は十四になった。京へ来て二年と少し。生まれとは違う環境に来て、精一杯学び、励んだ。大人になって良い頃だろう。何処で誰の元で元服し、どう生きるかはお前自身が選んで良いのではと私は思う。だが今夜は母上や兄弟らとよく話し合い、ゆっくりと考えて決めなさい」


具親の言葉にトモは丁寧に床に両手を付き、額を床に擦り付けて礼を取った。

「義父上、有難う御座います。そうさせて頂きます」


その姿を見てヒミカは悟った。トモは自分の手を離れたのだと。

その夜は、トモとシゲ、ヨリ、カグヤ。鎌倉から共に逃げてきた顔を揃えて過ごす。

「母上、俺は鎌倉に帰ろうと思います」

ヒミカは黙ってトモの目を見つめた。真っ直ぐな瞳。汚れなく意志の強そうな。

「父上の所に?」

訊ねたシゲに、トモは首を横に振った。

「いや、とりあえずは呼ばれた通りに名越のお祖父上の所に行って元服して、それから父上の所へ。でも俺は負けないから。祖父上や父上が何を考えていても、俺を利用しようとしていても、俺は俺だ。納得のいかないことには断じて従わない。だから母上、お願いいたします。私が鎌倉に戻るのをお赦しください」


先程と同じ丁寧な礼をするトモを見つめて、ヒミカは微笑んで頷いた。

「自分で決めた道なら、何があろうと乗り越えられましょう。大丈夫。貴方ならやりきれます。自信を持ってお行きなさい」

昔に言われた言葉。あの時、父もこんな気持ちだったのだろうかと考えて、胸がきゅうと締め付けられるように感じる。


ヒミカはトモの髪を整えてやり、黒の直垂を着せた。

「母上、これは?」

「江間義時殿の直垂です。京に入る時に母が羽織っていました。それを父上にお返しして頂戴」

——御所でヒメコとヨリを隠そうとコシロ兄が掛けてくれた黒い直垂。

トモは黙って頷くとシゲに向かった。

「シゲ。俺は鎌倉に行く。でも、きっとまた京に戻ってくるから、それまで母上とヨリ、カグヤ、それから義父上とタスケにジスケを頼んだぞ。俺がいなくなったらお前が一番の兄になるんだからな。もう泣きべそかくんじゃねぇぞ」

言ってシゲの肩を叩くとトモは立ち上がってヒミカに立礼した。

「では、鎌倉で見事勝利を収めて参ります」


ヒミカは床に手を付いて頭を床に付けた。

「ご武運を」


外では具親が馬の手綱を引いて待っていた。

「義父上」

声をかけたトモに具親は微笑んで問うた。

「行くのか」

「はい」

「お前は立派な大将になろう。母や弟らのことは私に任せ、存分に力を発揮して来い」

「はい!」


渡された手綱をしっかと握り、ひらりと馬に飛び乗ったトモの華奢な後ろ姿と風に靡く黒い直垂の裾。それを見て、ヒミカは具親が何故自分を、黒の姫『宇津田姫』と呼んだのかが分かった気がした。

「義父上!」

トモが馬の首を廻らせて振り返った。

「俺、俯瞰のこと忘れない!龍のことも。あと、刀を抜く時のことも!行って来ます!」

大きく手を振るトモに、具親は大きく手を振り返して叫んだ。

「お早うお戻りやす!」


馬はすぐに遠く小さく見えなくなった。直後、笑顔で手を振っていた具親が膝をつく。ヒミカとシゲは具親に駆け寄った。

「行って欲しゅうありまへんでした。やのに言えんかった」

搾り出すように声を発した後、具親は叫んだ。

「トモ!」

そのまま、地に頭を付ける。

寂しゅうてならん!なして、なして行くなと言えんかったんや!」

ヒミカは具親の肩を抱き締めた。

「あの子には全て通じてますわ。あなたの寂しさも強い心も」

「そんなんどうでもええ。痛いんや。胸が苦しい。こんなん苦しいんか。哀しいて、寂しいて。私は贅沢者の欲張りやったんやな。苦しゅうて痛くて辛いわ」

その場に拳を押し付ける具親。

その時、歌が聞こえた気がした。

——痛いのいたいの、飛んで行け。痛いのいたいの、飛んで行け。


シゲもカグヤも突っ立ったまま泣きじゃくっていて誰も歌っていない。なのに聴こえる。

——痛いの痛いの、飛んで行けってば!

 ふとヒミカの背に当てられた小さな手。振り返れば 、ふわりと微笑うヨリのやさしげな顔があった。その瞬間、ヒミカの目から涙がとめど無く零れ落ちた。

「ヨリ」

ヒミカはヨリを抱き締めると顔を上げて天の龍に祈った。

「どうぞ。どうぞ見護ってやって下さい」

涙に滲んだ青い空には、西から東に向けて大きな虹が架かっていた。

「どうぞ鎌倉に、京に春を」

——皆が幸せでありますように。



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