番外編『幹部候補生』3話(最終話)


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 それから先のことはよく覚えていない。包丁で滅多刺しにされ始めてからさほど経たぬうちに、救急車や警察が来た。おそらく桃花が事前に呼んでいたのだろう。病院で意識を取り戻した頃には、すでに事件から4日が経過しており、解雇通知とキャバクラの閉店予定日を記載したメールが縣のアカウントに届いていた。縣は臓器に深刻な損傷を受けたが、2〜3ヶ月の療養とリハビリを経て概ね回復し、退院して帰宅した。マンションに帰ると多くの郵便物がポストに詰まっており、その中には就活の本選考の開始に伴う企業オファーの手紙も入っていた。部屋に帰り、手洗いうがいを済ませて封を開けると求人の詳細が書いてあり、初任給は4大卒で22万とのことだった。


 縣はすでに腎臓を一つ失っていた。小さい頃「ジンゾーを売れば200マンくらいもするんだよ!」と友達に教えてもらい、「200マンってすげー!」と言っていた縣も、自分でお金を稼ぐことを知った今はそのスケールの小ささに気づいてしまっていた。腎臓を売ったところで東京の物価では2年も生きられないので、刃物で刺されて失おうが大した損害ではなかった。ドナーの健康な腎臓の提供を待ち望んでいる病気の者などに、縣の想像力は及ばなかった。


 縣は病室にいる時から、さまざまなことを考えてきた。時寺桃花はなぜこちらに嘘をついたのか、キャバクラの経営状態は実際はどうだったのか、店長は結局何がしたかったのか、夏目遥はなぜ縣を刺したのか…もっとも、最後についてはある程度見当がついていたが、他二つに関する仮説を立てるためには最低限の情報が必要だった。彼は複数の嬢や、彼女の学部時代の同級生であったという友人から情報を集めていった。それによると桃花は外国語大学の大学院でラオス語を専攻しており、すでに研究のため今年の春ラオスに留学に行ったこと、しかし店の経営情報は明らかに破綻と言うところまでは行っていないことが判明した。何人かの嬢は、桃花が店長と共に金を持ち逃げしたのではないかという噂をしていたが、『それはあながちあり得ない話でもないだろうな』と縣にも思えた。どこに住んでいるかを辿ろうにも、年明けごろに彼女は全てのSNSアカウントを消してしまい、一切の連絡が取れなくなってしまったという。さすがに、これ以上の情報は探りようがないので、縣はついに諦めてしまった。冬学期の大学の単位は、病院の中でなんとか取り切った。


 桃花から受けた所業に対して、特に縣の思うところはなかった。ただただ、自分の能力不足と不誠実さが招いた結果だと思っていた。理由はどうあれ、縣は2人の人間の期待を裏切ったというのは事実だ。1人は仕事の能力の、もう1人は愛情の側面において。とにかく自分はなんてダメなんだろうと思わない日はなかった。


 退院日から徒に時は流れる。1週間ほど経つと気温は少しずつ上がり、窓から見える街路の梅の花はふっくらとしたつぼみをつけたいた。窓を開けると春風が頬を撫でる。春休みに入ったが何もすることがなく、午後1時ごろになると、部屋の中でスマートフォンを使って就活サイトをぼーっと眺めている。高学歴の縣には多くの企業から「ハイクラス求人」やら「プラチナオファー」やらが届くが、そのどれもが魅力的には思えない。初任給はどんなに高いところでも35万が関の山で、あれほどのチャンスを手にしていた縣にはひどく色褪せて見えた。しかし『実際、35万の給料を得るのも自分には難しいことなのかもしれない』とも思いはじめていた。少なくとも縣は、時寺桃花の選考基準にかなわなかったのだから。『自分の価値は本当はいくらなのだろうか』と縣は思い悩んだ。



 ぴんぽーん。



 粗末な電子音が鳴り玄関を開けると、春服の夏目遥が立っていた。彼女は事件後、精神障害に陥っていることが判明し、大きな罪に問われることなく、向精神薬を飲みながら社会復帰をしていった。今やその精神が安定していることは縣の目から見ても明らかであった。彼女は事件以降縣に過度な要求をすることもなく、どこかしおらしくなってしまっていた。なんと縣の手術・入院費用も全て遥が立て替えたらしい。どうも専門学校の学費も、家賃も、生活費も全て自分で賄っているようで、一体どんな恐ろしいアルバイトをしているか怖くて聞き出せなかった。それとともに、自分より稼ぎの多い遥に対して、縣は強い劣等感を抱いていた。


「一応ご飯の材料買ってきたんだけど…今日は私が作るね」


 縣は不思議と、自分を傷つけチャンスを台無しにした夏目遥のことを憎いと思っていなかった。むしろ、これから人生を賭けてその罪を償おうとする彼女の真摯さを愛おしく思い始めていた。最初に酷いことをしたのは、縣の方だったのだから。病み上がりとはいえ、家事や料理は縣自身得意であったため、遙に手伝ってもらう時もあれば、そうでない時もあった。かつての縣は、モテるために料理や掃除のスキルを鍛えていたのだ。収入が減った今、縣は遥に家事をさせることに対して負い目を感じ始めていた。


「…いや、ご飯はあとでいいよ。あんまり食欲わかないし。それより少し歩きたい。ちょっと外を散歩しようか」夏目遥の額にそっとキスをした後、縣はコートを羽織り、靴紐に手をかけた。




 縣が住んでいるのは東京郊外の学生マンションであり、少し歩くと一級河川の河川敷に出る。考えるのに疲れた縣は、夏目遥とよく川沿いを散歩するようになった。大きく開けた草っ原では春風が強く吹き、2人の前髪をかきあげた。向かい風が吹く時もそう出ない時も、縣はしっかりと遥の手を握っていた。草の向こうでは、絶え間ないさらさらとした音を立てながら大量の水が右から左に流れていく。見上げると大きな橋が川幅を跨いでおり、その立派な構造の隙間を何羽かの鳥がすり抜けていった。川の向こうは、もう神奈川県らしかった。


 2人はボートを漕いだり、近くのコーヒーショップに寄ったり、少し歩いた先にある自動車学校の様子見をしにいったりした。この何も面白みのないデートコースが、縣たちの心の支えになっているようだった。夏目遥は専門学校に通いながらも金を貯め、すでにこの近所に2LDKの安めのアパートを借りており、明らかに同棲という未来を匂わせていた。縣のほうも下宿を来月に引き払うということをすでに大家さんに伝えていたのだった。何日もの間、就活もほどほどに、縣は遥と何の価値もない平凡なデートを繰り返して、自分の価値観を少しずつ塗り替えていこうという努力を重ねていた。傷口に響くので性行為はまだできない。それは初対面で一線を超えた人々とは思えないような清らかな付き合いであった。ようやく学生らしい学生になれたかもしれないという安心獲得の予感が、縣に訪れ始めていた。


 結局、責任を取る、けじめをつけることが一番大切なのだ。ヤクザな商売の中での一番の学びはそれではなかったか。縣はついに自分が遥にした仕打ちの酷さを自覚し、時間をかけて償うことを決めていた。生きていることの責任を取るのが、自分の価値を担保する最初の一歩なのではないか。そうは言っても人は1人では生きていけない。だから、傷つけたり傷つけられたりして、その傷を互いに舐めて小さくまとまって暮らすのが、人間というものの本質であるように思えてきた。


 就活を地道に頑張って、遥の信頼も獲得しながら、少しずつ確かな価値を自分の中に蓄えていこう。縣はそう誓った。


 河川敷から離れ、近くの商店街を2人で歩いた。空はサーモンのような赤色に染まっており、さっき見たような鳥の黒い影が視界の上澄みを横切っていった。駄菓子屋でマイナーなお菓子を買ったり、小規模な個人経営の古びた本屋で立ち読みしたり、薬局でガーゼを買ったりした。その後には花屋に寄って、観葉植物を選んだ。遥が気に入った植物のプラントを、割り勘で買った。遥は多肉植物が好きらしい。


 再び縣のアパートに戻ってきて、遥が夕飯の準備を始める。麻婆茄子をつくるらしい。縣は冷蔵庫から作り置きのきゅうりの漬物などを出し、皿に上げ、机に敷いた黄色いランチョンマットの上にのせた。そして炊飯器に米を入れ、水を入れてスイッチを入れた。ふと縣は口を開いた。


「…遥、今までごめんね。これからは大切にするから。就活とかもあんまり興味なかったけど、将来のために頑張るから。勤務地も東京か、神奈川あたりに収まるようにする。川の近くで一緒に暮らそう。多分僕は、それを一番に望んでいる。遥が、よければ…」そう言って就活サイトのメールボックスのチェックに入った。


 遥は横顔のまま口角をあげ、顔を真っ赤にして無言で力強く頷いた。それは、遥にとって人生でいちばんの幸せの訪れを確信させるものであった。





 数分後、縣は次のようなメールが来ていることに気づいた。




「あなただけの特別オファー(ラオスからご挨拶)


はじめまして。株式会社アガルマ 執行役員の時寺と申します。この度は本メールを開封していただきありがとうございます。


あなた様の非常に優秀なご経歴に強く魅力を感じ、オファーをさせていただきました。このオファーは現在、2〜3人にしか送っていません。ぜひ、カジュアルな面談の機会をいただけないでしょうか?


当社は東南アジア全域で飲食・アミューズメント事業を展開し、また多角的な新規事業の創出を背景に、成長率5年連続300%を達成している超成長企業です。本社は東京ですが、カンボジア、ラオス、インドネシアなどに拠点を…


…(中略)…


また3月にラオスで短期インターンを実施します。採用直結のイベントで業務理解も進むはずです。正社員と同じだけの待遇も保証します。もちろん交通費も全額負担です。


求人票を添付したので、ぜひご確認を…


…(以下略)…」




 求人票の初任給欄には、65万と書いてあった。




 麻婆茄子が出来上がった頃には、縣は数週間後のインターン枠と、ラオス行きの飛行機の予約を済ませていた。

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人生に疲れた39歳未亡人がキャバクラに行ってみた ひょんた @pyonta-hyonta

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