番外編『幹部候補生』2

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「キャバクラいかがっすか~」


 縣は人当たりの良さを全身に滲み出しながら懸命に客引きを行なっている。マスクをすることが必須になったので、表情ではなく声色や所作が成功率に直結するようになった。縣が1日のうちに店内に持ち込んだ「予約なし」の客の数は、店の管理職によってしっかりモニタリングされていた。


 縣が時寺桃花を「攻略」しようと決心してから、もう7ヵ月以上になる。気温はかなり下がり、道行くサラリーマンやホスト達の中でもコートを着ている人が多くなってきた。彼らが手に持つコーヒーも、いつのまにかアイスからホットに変わっている。過酷な「夜の街規制」の煽りを受けてもなお閉店に追い込まれずに済んでいる、歌舞伎町の選ばれた立ち飲み屋も、もう道路に迫り出した「テラス席」を用意しなくなっていた。


 縣は文字通り汗水垂らしながら必死に働いていた。昨日、この店に初めて女性客が1人やってきて、たくさんお金を落としていったらしいことを時寺桃花は教えてくれた。その際に、「ボーイの態度が良かった」というフィードバックをもらえた、こういう一つ一つが君の実績であると褒めてくれた。縣は犬のようにしっぽを振りながら喜んだものだった。かつて女性を見下していた縣が、なぜ時寺桃花に対してはこのような従順さを発揮し続けているのか。


 時間は4ヶ月前に遡る。それまで縣は幾度となく桃花に対して接触を試みたものの、彼女の「圧」が強くてどうにも近づけなかった。もっとも、「人を寄せ付けないオーラ」を放つ人というのは社会のどこにでもいるものであり、縣にとって彼らの警戒心を解除することは雑作もないことであった。だがこの人に限っては、取り入るための何らのきっかけもないのだ。彼女はいかなる隙も見せてくれないし、どんなボロも出してくれない。他の人と似たようなことをやって生きているいるはずなのに、彼女だけ、他の人と目線の高さが違いすぎる。結果を出さなければ、こちらを見向きもしてくれないだろう。それが時寺桃花という人物であった。


 彼女にはどうしても「権威」や「法」のようなものを感じざるを得なかったが、それも大人特有のいやらしさ・胡散臭さを帯びたものでは全くない。彼女の存在には、どこか概念そのものが歩いているかのような抽象性があった。縣はもはや人間同士の駆け引きなどといった矮小なテーマではなく、法学、政治学や社会学、倫理学などの分野の、幅広い難解な書籍を読んだが、そのたびに彼女の超越性を感じざるを得なかった。例えば縣が法学・政治学・社会学・倫理学になろうとすればするほど、時寺桃花は法律・政治・社会・倫理へと変化するのであった。一般的にどんな学問も、対象は観察者を超越しているものである。



 そのような中、薄暗い給湯室でふと桃花が声をかけてきたので、縣はびくつきながら応答した。


「きみ、すごく頑張ってるよね」


「え、そうっすか?恐縮です…咲さんこそ大学で忙しいのにめっちゃシフト入れててすごいっすね」


「いやいや、私は正直売り上げとかめちゃくちゃ低いよ。勉強続けるためにお金が必要だからこのバイトやってるけど、正直店長に事務作業依頼されてやっている方が気が楽だね」


 時寺桃花は、教科書みたいな話し方をする。接客時は多少「大衆受け」する話法を心がけているようだが、それでも癖があることには変わらない。40-50代のおじさんに好まれるような雰囲気では決してないので、おそらく店長が単に気に入ったから採用されたのだろう。実際、彼女の売上ランキングは最下位であった。嬢たちは、自分より成績の低いプレイヤーとしてしか桃花を見ていなかったので、特に彼女に敵意を抱くこともないようだった。それすらもが、彼女の思惑通りであるように縣には思えていた。


「そういえばさ、縣君。私最近、店長の採用活動とかも手伝ってるんだけど…うちのチェーンの正社員とかになる気ない?私も店長も君の優秀さはよく知っているんだ。ここの系列、業界ではなかなか有名だし、幹部候補としての採用だから、初任給でも60-70万くらいはいけるんじゃないかな。そもそもこの業界って、少ない人数で回してるからかなり儲かるんだよね。詳細な業務内容は…そうだな、今度一緒にコーヒーかなんかおごるから、その時伝えるよ。これから少しずついろいろ任せていくから、まずは半年頑張ってみようか。私からも店長には融通きかせておくよ」


 初任給60〜70万というのは同年代の中でもかなりもらえる方だった。縣が春に経験したインターン先の金融系企業の初任給も相当に高い方ではあったが、それでも桃花の提案の半分以下の額であった。初任給という切り口を取っ払っても、この額面はこの国において上位数%に入るものだった。「能力の正当な評価に基づいた高水準の報酬」というコンセプトは縣にとって極めてモダンであり、彼は自分の新たな欲望が開発され始めていくのを感じた。そういうわけで、兎にも角にも縣はこの女に認められるために、まずは仕事を頑張ることに決めたのだった。


 さて、季節は冬に戻り、客引き中ふと暇になったので、縣はメッセージングアプリの履歴を見てみた。時寺桃花とは別の業務用アプリでやりとりしている。ここ3か月の間、ほとんど私用のメッセージは届いていない。そのことを確認して、縣は気を取り直してすぐに仕事に戻った。


 直近で届いたのは、2ヶ月前の、夏目遥というから女の、「やり直したい。連絡まってる」というメッセージである。正確には何月何日に別れたのは忘れてしまったが、この女は、一時的に縣と「お付き合い」の状態になってしまった相手であった。3月に別の女と共にインターン先で出会って後、何度か肉体的な接触をした後、彼女とは流れで付き合うことになった。ずっと黒髪のショートヘアーで、軽音サークルにいたバンド内の彼氏をこっぴどく振って、縣のところに来たようである。『軽そうな奴だし、たまにはこういうのもいいだろう』と思っていたが、夏目遥という女は思ったより厄介であった。


 遥には「ヒモ飼育」の適性があった。縣はこれまで通りのメソッドで金をひたすら巻き上げたが、彼女はあらゆるアルバイトを駆使して、めげずにそれを補給し続けた。サークルをやめ、大学を休学し、どこぞの風俗で身体を売ったりもし始めた。それほどまでに縣に執着していたのである。縣が7月に正社員を打診され忙しくなる頃には、縣と一緒にいられる時間が減ったことにより、遥の依存はエスカレートしていった。その頃にはバイトのシフトも増え、お金も貯まっていたので、縣にとって遥から金銭を巻き上げる必要性はますます低下していった。責任を負いきれなくなると確信した縣は別れを切り出したが、そのたびに泣きつかれ、何度も何度も徹夜を余儀なくされた。「死んでやる」とわめいたかと思えば、次の瞬間には土下座して「行かないで」と懇願する。睡眠時間が減ると仕事に支障が出るので、遥と別れることは至上のタスクであった。それからやや強制的に、縣は遥との関係を断絶した。


 こんなことはもううんざりであった。恋愛なんてものは、コストやリスクが圧倒的にかかる割に、得られるものが茫漠としている。その点ビジネスは違う。結果を出せば自分に返ってくる。なにより、確固たる能力を、ほかならぬ格上の時寺桃花に認められたのだ。


 縣は『「少数を選ぶ立場に立つ」のではなく、むしろ「世の中に選ばれた少数に選ばれる」、というのが自分の本来の悲願だったのかもしれない』と思い始めた。桃花は、まさに時代に選ばれた天才であった。そんな時寺桃花は、キャリアプランのようなものを月1回程度持ってきて、コーヒーショップに縣を誘っては、経営企画部門への登用の可能性、海外含めた他店舗展開の戦略、オンライン・チャットによる新規事業の立ち上げなど多岐にわたる未来を話してきかせた。その度に、3〜5年後の縣への要求レベルと想定報酬をセットで伝えた。業績によるインセンティブも示唆し、早くて2年目、遅くても大体3年目くらいには確実に年収1,000万を超えるだろうという見込みであるとのことだった。しかもこの話は、他のスタッフには一切伝えていないことなので内密に、とのことだった。縣には言わば、成功へのリーチがかかっていた。そして晴れて選ばれた暁には、抱いた女の数なんてしょうもない基準ではなく、年俸の数字がきっちりと自分の価値を立証してくれるようになるのである。


 もはや「時寺桃花を支配する」という縣の当初の目的は完全に変質し、いつのまにか、ただ時寺桃花にもっともっと評価され、彼女にとっての市場価値を高めるということだけが彼の目標の座に就いていた。この頃にはもう、1人も女を抱かなくなっていた。


 というわけで、時系列的な整理をしてみると、概ね以下のようになる。


①3月 遥たちと出会う。遥と付き合う。

②7月 桃花に正社員としての登用を打診される

③8月 遥と別れる。仕事が忙しくなる。女を抱かなくなる。

④11月 働く。見込みのある女性客が1人来て、桃花に褒められる。





3


「キャバクラいかがっすかー」


 ④から約3週間。12月に入り、縣は昨日も今日も馬車馬の様に働いている。通常業務に加え、かなりの幅のことを任せてもらえるようになっていた。


 バイトという立場上、お金周りのことだけはタッチできなかったが、それ以外のことは大体なんでもこなした。会員メールの作成や連絡先管理、関連会社・店舗との人材派遣のやりとり、求人票の作成、各種女性向け求人Webサイトへの掲載依頼、外国人向け英語広告の作成やメンバー嬢の英語力調査、そして一次面接、そのあたりまで請け負った。将来のために自分自身も英語や経営学を勉強した。中小企業診断の資格の勉強も始めた。伝染病の蔓延により客入りこそ減っていたが、店長がお金の管理と芸能人・著名政治家などへの営業に集中することで、店舗は「損益体質の改善」と「客単価の上昇」を同時に達成し、利益はさほど落ちずに済んでいた。


 縣は今のタダ働き同然の時給のことなんて気にも留めなかった。とにかくここで認められなければ、縣は無価値ということになる。これまでやってきたことを無意味にしないためにも…つまり、高校時代みたいに無駄な時間を過ごさないためにも、この「変質した戦い」は縣にとって絶対に負けられないものであった。


「あの、予約した大友ですが」


 この間来た女性客が、再度店を訪れてきた。これはチャンスである。この客は縣のことをよく思っており、桃花にもぞっこんだ。この客を招き入れ、最期まで気持ちの良い経験をさせることで、店の、縣の、そして何より桃花の利益になる。縣は細心の注意を払い、最大限の敬意を以って女性客を案内した。


 しかしそれから5時間後、縣にとって予想もしないことが起こった。



 時刻は24時を回っている。机の上のゴミを片付けながら、縣はもう客が来ないだろうと踏んだ南条薫(「みえ」という源氏名らしい)の世間話を聞き流していた。店内を流れる音楽はいつの間にかフェードアウトし、照明に強調されたテーブルや壁、ネオンの光る水槽は無音の中で異質な存在感を放っていた。その奇妙な空間の中で、女のがさつなしゃべり声が響き渡っていた。


 すると突然、小綺麗な灰色のスーツに身を包んだ長身の男がホールに入ってきた。この店のオーナーである。先ほど化粧スペースに入っていった何人かの嬢たちも、ドレスに身を包んだままぞろぞろと一緒に入場してきた。どよめきが少し落ち着いたあたりで、整然とした顎髭を蓄えたその男は口を開いた。


 


「えーみなさん。突然ですがお知らせがあります。言うかどうかずっと保留していたのですが、どうあがいても確定、という事項になってしまったので、皆さんに速やかに共有させていただきます。


 本店、『Sweety Gorgeous』は、再来週末を以て閉店することになりました。この大変な状況の中、女の子たち、それからスタッフの皆さん大変尽力してくれたのですが、どうしても経営の継続が困難であるということになってしまいました。オーナーとして、本当に、心から申し訳なく思います。


 つきましては、閉店に向けたいくつかの作業を…」


 これは聞いている話と違う。経営自体は大丈夫なのではなかったか。なぜ、こんな大事なことを自分に教えてくれなかったのか。縣は、顔から血の気が引いていき、恐怖で手がガタガタと震え出すのを感じた。


 さまざまな嬢が帰った後も、縣は店の小さな事務室に残ってメールの返信、求人リストの更新などを行っていた。もうとっくに終電を逃している。小さなデスクライトの蛍光灯と、ノートパソコンのスクリーンが部屋を青白く染めていた。すると給湯室から事務室へと桃花が入ってきたので、縣は立ち上がって、切羽詰まって桃花に話しかけた。


「あの、大丈夫なんですか?」


「ん、何のことかな?」


「何ってそりゃ、経営のことですよ。この店、閉まるんですよね…しかもここ、主力の店舗って聞いてました。ほかの店とか、財務状況とか、大丈夫なんですか?」


「あーごめんね、ちょっとバタバタしてて言えなかったんだ。申し訳ないよ。でも、他の店舗に関しては大丈夫ということは、まず君に伝えておくよ」


 縣は桃花に対して、突如、強烈な不信感を抱き始めた。各嬢の中では「売上が上がらないから事務作業をやらされている」という評判であったが、それはフェイクなのではないだろうか。間違いなく、店長はこの女に格別の信頼を置いているみたいだし、だからこそ縣とやりとりするときのインタフェースになっていたに違いない。水商売のオーナーというヤクザな立場で、様々なB to Bの営業をこなすという責務の割に、この店の店長はやや内向的で、人を自分から巻き込むのが苦手なようであった。それを利用して、桃花はこの店を乗っ取ってしまったのではないだろうか。


「そんなに結果ばっかり待ってると、逆に結果はついてこないよ。ビジネスでは地道に努力することが大事なんだ。大丈夫。私と店長は次の手を考えている。もちろん君のことも含めて、ね。むしろ店舗整理は戦略の基本だし、流儀も今後君に教えていくつもりだよ。だから君のことは絶対に見捨てない。君は私にとって必要なリソースだ。私についてきてくれたら、ちゃんと約束は果たすよ。でもそうだな、ここまで頑張ってくれたから、さすがにそのお返しくらいはしないとね」


 そう言うと、桃花は縣にぐっと近寄り、細い人差し指で太ももを人差し指でつっと撫でた。驚愕した縣は思わずのけぞり、両手を後ろに伸ばして事務室の机のへりについた。桃花の真っ黒な瞳は、じっと縣の目をみつめている。


 「つまり、私のことが欲しいんだよね?いいよ。ここでしてしまおうか」


 縣は最初の目的を思い出した。そうだ、もともとはこの女を籠絡して、肉体的にも精神的にも愛してもらうことが目的だったのだ。その目的は、ただ、彼女にとって価値ある存在になることでのみ達成される。変質してしまっていたかに思えた縣の目標は、実は一貫していたのである。これまでの人生の全ての努力が、これから起こる最高の快楽に収斂していくようだった。言いようもない自己肯定感に貫かれた縣の「それ」は、既に激しくそそり立っていた。桃花は覆いかぶさるように縣に身体を重ね、耳元でささやいた。


 「近くでシャワー浴びてくるから、ちょっと待っててね」


 桃花はポケットから黒光りするコンドームの袋を出して、縣の右腕を這うようになぞってから机の上に置くと、すっと身体を起こして事務室の入り口へと向かった。連日の激務で自分にのしかかっていた疲労と眠気は一瞬で吹き飛び、抑えられない神経の興奮に縣は口をぱくぱくさせ始めていた。ついに全ての念願が成就する。この世界はもう、彼のものであった。


 「あ、そうそう、きみさ、一個だけ言っておくけど、あんまり人に酷いことしちゃだめだよ。他人の嫌がることしちゃだめっていうのは、ビジネスでも基本だからね」そう一言いい残すと、桃花は扉をがちゃんと締め、廊下をそそくさ歩いていくようだった。






 思っていたよりずっと早いタイミングで、扉が再びガチャリと扉が開くと、そこには、刃渡りの長い包丁を持った夏目遥が立っていた。


(第3話に続く)

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