番外編『幹部候補生』1
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雲一つない空の下、香川縣(かがわ あがた)はスタジアムの客席で、退屈そうにあくびをしていた。彼の臀部は、青いプラスチックの固い椅子と同じ形になっている。血流が悪くなっていたのか、徐々に感覚を失いつつあった。選手でもないのに濡れたタオルを頭の上に置いて、彼はただひたすらに、試合の様子をぼーっと眺めていた。ピッチの上では選ばれた筋骨隆々の猛者たちが怒号を上げながら、球を追いかけまわしている。しかし、彼らが縣に興味を持たないのと同じくらい、縣は彼らには興味はなく、気付くとコンクリートの上で黒く干からびたセミの死骸に目線をやっていた。客席からの声援と、そこらじゅうで叫んでいる生きた蝉の声が混じるのを聞いて、『人間と蝉ってどちらも大差ないよな』、などと考えていた。
縣の脇からは、変なにおいがする。いわゆる「体臭」である。猛烈に上昇した気温に対応するため、体中の穴という穴からしょっぱい体液が流れ出ている。選ばれし者たちが流す汗と、縣の汗にはいったいどれほどの価値の差があるだろうか。時給換算にすると1,500円程度だろうか?頭の上にのせられたタオルも、僕の汗を吸って徐々にその「臭度」を上げていった。
今日は地区大会の4回戦目だった。これが終われば関東大会への切符を手にするらしかったが、正直縣には興味が持てなかった。レギュラーが発表され、縣たちの代の中では3年生の中で3人が、ベンチにすら入れないことを宣告された。その3人のうち、縣だけが部活に残った。ここで辞めてしまうと、これまでの2年半が全くの無駄であることを認めるようなものだからだ。だがスタジアムの劣悪な客席で、自分が参加もしていない試合を、遠くから何十分も閲覧する自分を客観的に眺めて、この2年半が全くの無駄であることに、もはや疑いの余地はなかった。
スポコン漫画は、レギュラーから外れた人々のことを描写しない。描写するとしても、それは「一時的にレギュラーから外れる」という現象に過ぎない。この現象は大抵、2パターンに分類される。
< パターンA > :主人公が強豪校に入り、1年生のうちになかなか頭角をあらわせなかったが、徐々に認められ、2学期の終わりごろにはレギュラー入りを果たすパターン。その後は様々な「強い仲間」が増え、スタメンも入れ替わっていくが、主人公の地位が揺らぐことはないだろう。
< パターンB >:レギュラーで活躍していた主人公が、骨折などで一時的にレギュラーから外れるパターン。彼は悔しさをバネに猛特訓し、すぐにレギュラーに戻る。
どちらのパターンにおいても、以下のような人々は漫画によって見向きもされない。
< その1 > :「最初から最後まで選抜されなかった人」
< その2 > :「最初は選抜されていたが、競合相手に地位を奪われ、最終的に選抜の対象外となった者」
自分を主人公にした漫画や小説なんてこの世に出現し得ないし、あってはならないのだろうとすら縣には思えていた。
ピッ ピッ ピー!
拍子抜けするような音が唐突に鳴り響いた。猛者たちは芝生の上に膝をついては、涙を流しながら虚空を見つめたり、足元の草の根っこをしきりにつかむような仕草を始めた。試合に出ていないベンチの人々や、ベンチ入りも果たせなかった1・2年生までもが泣きじゃくっている。彼らには泣かねばならぬようなどんな大義があるのだろうか。それとは対照的に、自分の口元には、確かな笑みがこぼれていた。やっとこの退屈な時間が終わってくれたのだ。
観客席の少し離れたところには、真っ白な日傘の下でハンカチに額の汗を吸わせている「刈谷茉子(かりやまこ)」がいる。あのハンカチには、縣とも、さらには泣きじゃくる猛者たちとも比べ物にならないほどのプレミアがつくにちがいない。縣があの人を見て、あれやこれや妄想している間、彼女は一生懸命試合を見ていた。足を使った球技にも、あの人との関係にも当事者意識を持てないまま、高校生活最後の夏が終わった。
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「えぇ~!絶対彼女いそうなのに!!」
その2人の女たちは打算と性欲によって黄色く着色された、空気の振動による信号を縣の眉間目掛けて発信した。縣は「課題の相談」という建前の下、インターンで出会ったメンバー2人と、「2次会」なるものに来ていた。
「そんなことあるんだ…やー、ごめん、正直、常に女の子切らしてないタイプなのかなって思ってたから意外で笑」
女のうち一人は黒髪のショートヘアーで、身体のラインがはっきり出る黒い薄手のセーターを着ている。縦のラインが細かく入ったセーターは、白の手首・やや丸みを帯びた顔面と、強烈なコントラストを出しており、「モノトーンを駆使した派手さ」というファッションの高等技術をこれ見よがしに披露していた。背はやや低く、155センチくらいだろうか。目は少し細く、その下には泣き黒子が二つある。造形の上品さに合わせるように、「男慣れ」していなさそうな控えめな喋り方をしてはいる物の、一見関係なさそうな話題を上手く使って、こちらの金銭的背景や女性遍歴、好きなタイプなどの情報を手早く聞き出してくる。軽音サークルの渉外と会計を兼ねている政治の実力派で、同じバンドのドラムの人と付き合っているのにこういう場に来てしまっているらしい。左右の耳には黒光りする、2ミリ程度の面取りされた勾玉のようなものがぶら下がっていて、こちらの視線を攪乱せんとしていた。
「だって縣っち、実際女殴ってそうな見た目してるじゃんw彼氏にしてもすぐ酷い目に合わせてくるでしょww」
もう一人の女は茶髪で、髪の一部を上げ、一部を横に流して後ろで結んでいる。こちらは縣と同じくやや日焼けしており、全体的に華奢で、デニムの上着をやや厚手のTシャツの上に着ている。目の下にはかなりの涙袋があり、隈と見まごうほどの深さで合った。黒服の女とは対照的に、鼻・目・口全てのパーツが大きい。国際サークルの部長らしく、インターンでもこの飲み会でも、高い話速で理路整然とした物言いを貫いていた。それでいてその内容にはどこか正直で誠実な感情の存在を思わせるところがあり、一種の「憎めなさ」を帯びていた。背は高くすらりとしており、姿勢もよく、長い足の先を、黒い皮のブーツが覆う。細い指の1本1本は鋭く長い爪によってさらに延長されていて、グラスを持ち替えるときにはさながら敵兵を穿つ槍のような軌道を描いていた。実家はかなり太いらしい。
諸々の会話は大いに盛り上がり、話題はインターンの課題から遠く離れ、「恋愛」という中核テーマに沿って、しかしその「核心」に決して触れないように、ぐるぐると連鎖していった。いつのまにか時刻は深夜1時を回っており、がらんとした居酒屋の隙間から春風が3人の足元に流れ込み、「その後の進展」を促すかのようであった。縣はお会計を一手に引き受け、二人をつれてホテル街に入っていった。渋谷の路地裏は淫靡な看板の光や吐しゃ物でキラキラと輝いており、その幻想的な照明効果に照らされて、アルコールにおぼれたたくさんの2、3人組が大声を出しながら千鳥足で同じ方向に進んでいった。縣たちも、この渋谷の裏路地の「性の川の流れ」をなす一部なのであった。
高校を卒業し上京した縣は、都内の難関私立大学の英文学科に通いながら、3年ほどの時を経て「恋愛マスター」に昇格していた。もともと顔が整っていた方であったとはいえ、高校時代の彼には人に好かれるための知識も技術も足りなかった。そのことを自覚した県は、上京した後、人を動かすためのどんな努力も惜しまなかった。いまやほとんど帰っていない彼の6帖1Kの部屋に置いてある本棚には、教育心理学、社会心理学、行動経済学の本からプラトーンの対話編、シェイクスピアの喜劇まで、あらゆる「駆け引き」のパターンを網羅するための書籍が溢れていた。マッチングアプリ、料理同好会をはじめとした複数のインカレサークル、インターンシップ、ゼミなどあらゆる人脈を活用し、女と一時的な関係を築いては解消することを繰り返していた。狙った女とは必ず寝ているが、特段彼は性欲が強いほうでもなかった。ただ、自分は大勢に選ばれていないと気が済まず、かつ少数を選り好む立場にも立たなければ気が済まなかったのである。縣の自己評価には、誰を相手にするかということは関係なく、自分が求めている相手に比して、どれだけ多くの人に求められるかという定量的な基準のみが存在していた。彼は関わる人間にとっての、欲望のインフラストラクチャーになろうとしていた。
実は縣にとって相手が女である必要はないのだが、「スコア」を高めるには一般的な異性愛の性規範に則って行動するほうが得だった。理論と実践を行き来する彼の頭が悪いはずもなく、語学で組み分けされた大学のクラスでは突出した成績を発揮していたため、試験時に彼に頼る人も少なくなかった。そのこともまた、彼と女たちの関係構築に貢献した。サークルのほうでは狡猾に責任ある立場を逃れながらムードメーカーの地位を確立し、様々な情報を隠蔽することで男からの嫉妬もさほど受けないように工面したのであった。逆に、責任ある立場に選ばれた男女たちは皆、多忙の隙を突かれて、縣に愛する人を次々に奪われていった。彼のコミュニティにおける信頼され具合も随一だったため、彼に恨みを抱く人々は、政治的な経緯により集団を去ることを余儀なくされた。目的を達成する頃には、諸コミュニティは完全に自壊してしまっており、縣はそれを見届けるたびに、自分の影響力の大きさに酔いしれたのであった。
彼の現状は、「選ばれなかった」ことを特徴とする高校時代とはまるで対照的であった。今も昔も大して他人に興味がないという共通点はあるものの、彼の世界に対する「コントロール力」は飛躍的に上昇していた。最初の「試み」が成功した時にも、彼は相手を惹きつけるだけ惹きつけておきながら、相手を裏切ることで強烈な快感を得ていた。それは射精の何倍も気持ちの良い体験であった。もっとも、「もてる」という状況によって自分を肯定しているのだから、特定の誰かと付き合うわけにはいかなかったというのもある。何らかのコミュニティに入っては、既に成立するカップルの構成員のうち片方を誘惑し、そのカップルをただ破壊するということを繰り返していた。人をおとしいれたり、動揺させたり、執着させたり、依存させたり、その他の方法で自分の思う通りに動かしたりすることを通して培ったスキルは就活でも役立ち、彼は現在取り組んでいるインターンのグループワークでも非常に優秀な成績を残すことができていた。
もちろん彼の諸事業のタスク量をすべてこなすのは一種の「離れ業」であり、当然、時間だけでなくお金もかかる。睡眠時間は1日5時間あれば長い方であった。そしてお金に関して言えば、親からの仕送り、そして「夜の街」でのキャッチ・ボーイのアルバイトだけでなく、店舗で働く嬢たちの感情的・肉体的な依存を誘いお金を巻き上げるという「禁じ手」も、縣の金銭獲得手段の一つであった。アルバイトという立場は責任が軽く、多少問題が起きた場合も雲隠れして別の店で働けばよい。しかし、ある理由から縣はここ1年以上、同じ店にとどまっている。それは、彼にとって最大の「難敵」が現れていたからであった。それは、時寺桃花(ももか)という女であり、その源氏名を「咲」(さき)という。
彼が卑劣な「資金集め」に興じる過程でとある女と寝た際に得た情報は(もっともこの店でのアルバイトを継続するため、縣はこの店の嬢に対しては1人としか関係を結んでいない)、彼女の実家はそこそこの資産を持っているというものであった。いや、金があるということは些細な加点要素に過ぎない。最大の重要な情報は2点あり、桃花という女が処女であること、そして彼女が高学歴であるということだった。
桃花だけは、彼が対象としたどんな女とも違った。彼は「スコア」が下がるのを防ぐため、自分より頭の良い女を意図的に避けていたが(もっとも彼は世の中の大半の女は自分より頭が悪いという尊大な誤解を抱いて生活していた)、この女だけは妙に縣の興味を引いたのだ。一言・二言業務上の会話を交わしただけで、縣はこの女が自分よりも「格上」であると確信した。事実、この「格上」の女に挑戦するための練習として、彼は自分に近い学歴の女を選ぶようになった。渋谷の居酒屋からホテルに連れて行った女たちも、彼と同じレベルの大学に通っていた。インターンの1次会でそのような人たちにターゲットを絞り、声をかけたのであった。もっとも、今回は従来のアプローチによって順当に事が運んでしまったため、彼の得るところは少なかったのだが。
また彼は処女を篭絡したことがなかった。処女を相手にするのは警戒されやすい割に、後腐れのない関係を結ぶことが難しいという点で非効率的である。だが、この店を卒業するためには、あの女を必ず攻略しなければならない。もっとも縣は、「1人のミステリアスかつ純粋な女に惹かれ、それを所有せんとする欲望」こそ、ギリシア神話の頃から構築され、綿々と語り継がれてきたところの典型的な男性の欲望であることを自覚していた。自分がそんな、量的ではなく質的な欲望に支配されるなんて縣はそれまで思ってもいなかった。だがこの課題をクリアすることで、そうした「一般男性欲望」をも御することができるのではないかという狙いがあった。
彼の勝利の条件は、
① 時寺桃花と肉体関係を結び、
② 彼女の寵愛を受け、
③ 彼女から金銭を獲得すること
であった。
渋谷の朝は汚い。猛烈に忙しい夜を過ごした縣は柄シャツとボクサーパンツだけを身に付けたまま、布団から出てふらふらと歩き出した。時刻は午前5時ごろである。ベッドにはいまだ、二つの身体が剥き出しのまま寝そべっている。あれほどおしゃれを自らに重ねて文明性をアピールした「人間の身体」も、こうしてひん剥いて仕舞えば、それは人間の脆弱性そのものを体現するかのような「しょうもなさ」を帯びてしまう。屍のように転がっている肉の塊二つを一瞥もせず、ゆっくりとリズミカルに脈打つ寝息に耳も傾けず、縣はホテル4階の窓を開けた。次々に複数重なっては消えていくカラスの下品な鳴き声をBGMに、煙草をふかし始めた。生ごみのような匂いがどこからともなく鼻の粘膜に届けられ、夜に宝石のようにきらめいていた吐しゃ物やガラス瓶、チューハイの空き缶などは、青白い自然光のもとにその醜悪さを露呈していた。渋谷で朝を迎えるたびに、縣はそのような「路地の真実」を見届けてやるのが習慣であった。しかし2つの裸がもぞもぞと動き出したのを確認した縣は、とっさに窓を閉め、少しうんざりしたような表情を隠しきれないままフロントに電話してホテルの時間を延長しておき、女二人に2コマ分の授業をサボらせてから午後3時にチェックアウトした。より高度で難解な理論を使ってあの高潔な処女を打ち落とすべく、本屋に「参考書」を探しに行ったのであった。
(2話に続く)
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