第2話 SIDE B ――美 鈴――
「……きゃっ」
スウッとした冷たい潮風が、悪戯にスカートをめくって吹きすぎていく。
小さく叫んでスカートを押さえると、キラキラと輝く水平線が目に入った。
「きれー……」
見慣れたはずなのにいつもと違って見えるのは、やっぱり私がいつもと違うからだろうか。
海に面したなだらかな坂道が、いつもの通学路。
私はドキドキと急に高鳴りだした鼓動を押さえるように、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ道。
そして、いつもと同じように、きっとそろそろいつもの背中が見えてくる筈。
……いた。
「裕也君、おはよう」
精一杯明るく、可愛く聞こえるように言ったのに。
彼は振り向きもしないで返事するだけ。
「おっす、美鈴」
……もう。
私は心の中で軽くため息を付いて、彼の隣りに並んだ。
この超鈍感男は腐れ縁の幼なじみ。
家が近所で親同士が仲良かったから、私達は物心着く前からいつだって一緒だった。
小学校も中学校も同じクラス。その上、進学した高校まで――それは、学力がたまたま同じくらいだったから仕方ないとしても――ずっと一緒、しかも同じクラス。
学校へ行く時間帯だって同じくらいだっただから、大抵、朝は私が先を行く裕也君に声をかける、っていうのがおきまりのパターンになっていた。
いつだって、一緒。
いつだって、気が付けば彼はそこにいて。
……それで、意識するなっていう方が無茶な話よね。
不安定な思春期を通り過ぎる頃、いつだって隣にいた兄妹のような彼のことを、私はいつしか一人の『異性』として意識するようになっていた。
――もっとも、彼の方はいつまでたっても私を『幼なじみ』ぐらいにしか思ってはいないようだったけれど。
……でも、そんな曖昧な関係も、今日で終わりにするつもりだった。
今日は、何と言っても世の中の全部の女の子が待ちこがれた特別な日。
大好きな人に、大切な人に想いを伝える聖なる日――バレンタイン。
……鞄の中に入れた真っ赤な包みが、心臓の鼓動と一緒にカタカタと音を立てていた。
「今日も寒いなー」
裕也君は僅かに首をすぼめるようにしながら言う。
「そうだね。天気予報で寒気団が降りてきてるとか言ってたから、もしかしたら雪が降るかも」
私がそう言うと、彼は大袈裟なアクションでげんなりとして見せた。
「げー。明日はせっかくの休みだぜ?雪なんか積もったら、何処にも遊びに行けないじゃないか」
あんまり家でじっとしてるっていうのが好きじゃない彼らしい台詞。
私はくすくすと笑った。
「裕也君らしいね。でも、今年は殆ど雪が降ってないから、少しでも積もるといいな」
昔から、雪は好きだった。
街の中の全部の色が真っ白に覆い隠されて、何だか天国の景色を見ているようで、小さい頃は自分が天使様になったような気がしたものだ。
「美鈴は昔から雪が好きだったもんな」
そんな小さいことを覚えてくれてるってことが、何だか嬉しくて。
私はくすぐったいような気分で微笑んだ。
「うん。だって、雪って綺麗じゃない?」
「そうか?俺は、ただ寒いだけだと思うけどな」
「そうかな?」
「そうだよ。大体、普段、雪があまり降らないような所で積もると大変なんだぞ」
……わかってはいたけど。
ほんとにロマンチックじゃないんだから。
そんな、現実的なこと言わなくったっていーじゃない。
「そうかもしれないけど。見てる分にはいいかな、って」
「見てるだけでも、寒いって」
ぶ~。
私がちょっと拗ねたように口をすぼめてみせると、裕也君は苦笑した。
……ほら。
また、妹扱いしてる。
裕也君がすぐ、私の言うことに対して反論してくるのは、殆どお約束みたいなものだった。
いつだって天の邪鬼みたいに、私の言うことにいちいち反論して。
……もちろん、それが悪意からじゃないってことはわかってたし、私の方も何だか、裕也君のそういう癖が好きだったから、ケンカになったりはしなかったけど。
そうそう。
私がすぐに諦めてしまうから、ちょっとだけつまらなそうな顔をする裕也君の仕草も、私は大好きだった。
――本人に言ったら、きっとむくれるだろうけど。
「っと、あんまりのんびりしてられねー時間みたいだな。ちょっと急ぐか」
そう言われて時計を見ると、八時二十五分過ぎ。
「そうだね」
私は早足になった裕也君に、慌てて付いていった――。
★
校門をくぐるのとほぼ同時に予鈴が鳴り響く。
「なんとか間に合ったね」
ちょっとだけドキドキする胸に手を当てながらそう言うと、裕也君は悪戯が成功した子供のような表情を浮かべた。
「ああ、ちょっと危なかったみたいだけどな」
「おはよう、浅丘さん。おはよう、裕也」
と、突然、後ろから声がかけられた。
振り向くと、そこにいたのはクラスメートの衣川幹くん。
スマートな体型に甘いマスク、その上、陸上部のエースなんていう『モテる条件』全部兼ね備えている、確実に男の子に嫌われそうなこの彼は、けれど何故か誰にも好かれる不思議な人だった。
……さらりと毒のあるセリフを吐くのと、すぐに笑いを取ろうとする性格のせいかもしれない。
それでも、彼がモテることに変わりはなかったけれど。
「おはよう、衣川君」
「おっす、幹。おまえも滑り込みか?」
「うん。ちょっと寝坊しちゃってさ。走って来たからまだ心臓がバクバク言ってるよ」
衣川君は胸を押さえて、オーバーなアクションでおどけて見せる。
こんなところ、さすが友達と言うべきか、裕也君によく似ていた。
「そんなこといってねーで、もっと早起きしろよな」
裕也君が呆れたように言う。
と、衣川君はしたり顔で頷いて見せた。
「そういや裕也って、遅刻したことないのだけが、取り柄だもんな」
「だけってのは、余計だろ」
「勉強は駄目。体育は得意だけど特定のスポーツはしていない。顔は悪くはないが良くもない。ほら、他に何か取り柄というものも無いだろ?」
……何もそこまで言わなくったっていいじゃない。
そりゃあ、裕也君はスポーツマンじゃないし、秀才ってわけでもないし、衣川君みたいにハンサムっていうわけじゃないけど、だからって人間それだけじゃないんだから、――
って。
何で私がこんなフォローしなくちゃいけないのよ。
私が隣で勝手に顔を赤くしながら俯いていると、裕也君はムッとしたように言った。
「テメエ、朝っぱらから喧嘩売ってんのかよ?」
「まあ、そんなに怒りなさんなって」
飄々とした表情のおかげで、衣川君の言葉はどこまでが本心で、どこまでが冗談なのかよくわからない。
だからなのか、裕也君と衣川君は結構仲がいい。
衣川君の方でも、裕也君がいちいち腹を立てたりしないのが嬉しくて、ついついからかってしまってるみたいだった。
でも、このままだと授業に遅れるんだけど、二人とも。わかってる?
「まあまあ、二人とも」
私がそう言って仲裁に入ると、衣川君は、今度は何を思いついたんだか、ニヤニヤと私と裕也君の顔を見比べながら言った。
「でも裕也はいいよな。少なくとも一個は確実じゃん」
「へ?何がだ?」
「またまたとぼけちゃって~」
そう言いながら、衣川君は私の方を思わせぶりにちらっと見た。
……!
ぼっと、顔に朱が散るのが自分でもわかる。
私が慌てて俯くと、裕也君はきょとん、と首を傾げた。
「はぁ?」
「本当に、解らないのか?」
衣川君が驚いたように裕也君の顔をのぞき込む。
「ああ。一体、何が言いたいんだ?」
裕也君の返事を聞いて、衣川君は大きくため息をついた。
……そうそう。
彼に気づけっていう方が無茶なのよ、衣川君。
そうよ、そうなんだけど……わかってはいたんだけどね……。
「じゃあ、今日は何月何日だ?」
「えっと、二月十四日、だろ?……あー」
……やっと気づいたらしい。
「やっと解ったか。この馬鹿」
「何で、バレンタインを忘れてただけで馬鹿呼ばわりされないといけねーんだよ!」
……もっと言ってやって、衣川君。
と、衣川君はわざとらしく肩を竦ませてから、私を見た。
「浅丘さんも、こんな鈍感男が相手だと大変だよね」
……!
だからって、何でこっちに振るのよー!
顔に更に血が上っていくのがはっきりとわかる。
わかるから、余計に恥ずかしくて、また……
あ~、堂々巡りだ。
私は、昔っからこういう話題に弱かった。
興味がないとか、そういうわけじゃないんだけど……どうしても顔が赤くなってしまうのだ。
と。
そんな私の反応に、裕也君の方でも恥ずかしくなったんだろう。
彼はそっぽを向きつつ、ぶっきらぼうに言った。
「美鈴は関係ねーだろ。ただの幼なじみだぜ?」
「……!」
一瞬。
体が、凍り付いた。
――いけない。
自覚した瞬間、体の力を抜いたから、きっと二人とも気づいてないはず。
案の定、裕也君も衣川君も何もなかったように掛け合いを続けていた。
「ふぅん。ま、そう言うことにしときましょうか」
笑い出したいのを堪えるような表情で、衣川君が言う。
……これ以上この話を続けていると、何を言い出されるかわからなくて。
私は慌てて、二人の間に割って入った。
「――ねぇ、話し込むのはいいんだけどさ、急がないと遅刻しちゃうよ?」
私がそう言うのと、ほぼ同時にチャイムが鳴り響く。
「げ。もう、そんな時間か?急ごうぜ」
私達は顔を見合わせてから、教室へ向かって慌てて走り出した――。
★
今日は土曜日ということで、午前中だけの退屈な授業もあっと言う間に終わり、皆はそれぞれに帰り支度を始めている。
浮き足立ち、中には感謝で涙まで――は、大袈裟だけど――浮かべる男の子達に義理チョコを配り終えた私は、同じく義理チョコをあげた衣川君と一緒に、教室へ戻ってきた。
他愛ない話をしながらクラスに戻り、裕也君のいる方へ目を向ける。
――一瞬、心臓が止まった。
「……」
窓際に立ち、グランドを見ている裕也君に歩み寄る、女の子。
女の私から見ても結構可愛いその子が、恥ずかしそうに顔を赤く染めて裕也君に手渡しているそれは――綺麗な包み紙でラッピングされた、大きな……紛れもない、『本命』のチョコレート。
裕也君が呆然と彼女を見送り……ついで、戸口にいた私達に目を向ける。
未だに何が起こったのか今イチ把握しきれていないような裕也君に、私はドキドキと不安で破裂しそうな動揺を押し隠して近づいていった。
「へぇ、モテるじゃん」
衣川君が呆れた顔で、心底意外そうに言う。
私も、何とか辛うじて声を絞り出した。
「――良かったね、裕也君」
あんまりびっくりしたせいで、声がうわずる。
神様、どうかバレませんように。
この心の動揺が。――深い、悲しみが。
「どうせ、義理チョコだって」
裕也君が、少し肩を竦ませる。
と、衣川君が私に追い打ちをかけるように言った。
「見ず知らずの女生徒から、そんなにデカイチョコレート貰っといて、か?」
――そうよ。『義理』なんかである筈がない。
綺麗なラッピング。
思いに比例した大きさ。
……手渡したときの、あの表情。
あれが、『義理』なんかである筈が……!
と、裕也君は恥ずかしいのか、少し口ごもりながら言った。
「ま、まあ、それは置いといて、幹はチョコレート貰ったのか?」
「僕?とりあえず義理チョコはいくつかね。浅丘さんにも貰ったし」
……ちょっと他の女生徒の視線が刺さったけどね。
裕也君は「ふうん」と頷いてから、ふと気づいたように私の方を見た。
「そういや、美鈴は俺にはくれないのか?」
……!
再び、心臓が止まった。
これ以上、同じ事されたら、きっと心臓は二度と動いてはくれないだろう。
私は必死に、動揺が声に現れないように祈りながら言った。
「ご、ごめん。裕也君の分買い忘れちゃって。ほ、ほら、私ってドジだから――」
「何、どもってんだよ?」
「明日、違うのをあげるから。本当にごめんね」
バレそうな嘘に慌てると、更にボロを出して自滅するって――本当なんだな。
私は裕也君が怪訝そうに尋ね返す言葉を聞いて、自分が自滅したのを知った。
「違うのを?」
「――!ごめん、私、用事あったんだ。先、帰るね」
もうこれ以上ここにはいられなかった。
あまりにいたたまれなくて。あまりに――居づらくて。
私は慌てて、教室を飛び出した。
★
「……馬鹿」
校門を出て、スタスタと歩きながら私は一人、呟く。
潮風が冷たい。
何だか天気にまで馬鹿にされている気分だ。
「……裕也君の、馬鹿」
何よ、他の女の子から貰ったのを平気で見せたりして。
どうせ、私なんか眼中にないのよね。
どうせ、私は妹なのよ。
どうせ……
――ハァ。やめた。これ以上は、自分が惨めになるだけだ。
いつだって一緒で。
いつだってずうぅっと一緒にいて。
私が、いつの間にか裕也君を好きになったように、いつか彼の方も私を好きになってくれるって。
そうじゃなくても、いつかは気づいてくれるって、そう思っていたのに。
馬鹿みたい。
一人で勝手に思いこんで、一人で勝手に盛り上がって――馬鹿みたい。
「……馬鹿…」
何度目か、そうやって呟いたとき。
「おーい、美鈴、待ってくれ!」
そう呼ぶ、裕也君の声が、後ろから聞こえてきた。
「……!」
苦しそうに息を切らして走ってくる声が聞こえる。
――嬉しかった。
追いかけてきてくれて。
本当は、嬉しかった。
……でも、それ以上に怖くて。
どうして追いかけてきてくれたんだろう?
もしかして、何もわからず、ただ……ただ、『追いかけた』だけかもしれなくて。
だから、振り向けなかった。
そのまま歩いていこうとした私を、裕也君はちょっと怒ったように呼び止めた。
「はぁ、はぁ……。待てって言ってるだろ!」
「……」
何よ。
自分が悪いくせに。
私が黙っていると、裕也君は何故か慌てたように言った。
「お前泣いてるのか?」
……!
裕也君に言われて初めて、私は目に涙がたまっていることに気づいた。
私は慌てて目をこする。
「ち、違うよ。潮風が少し目にしみただけ」
実際、風は日が暮れて少し強さを増していた。
裕也君は呆れたように言う。
「嘘つけ。何を意地はってんだよ」
その言葉に。
ためていた想いが、堰を切って流れ出した。
「……馬鹿。鈍感男。裕也君なんか大嫌い」
一瞬だけ、裕也君が息を飲むような気配がした。
「……急に何を言い出すんだよ?」
心底困惑したような声。
いいもん。
嫌われたって。
いいもん。
怒られたって。
もう――いい。
そう想いながら、私が次の言葉を待っていると、裕也君はぼそっと呟いた。
「チョコレート、あるんだろ?だったら、俺にくれよ」
手に持った赤い包み。
何日も前からたくさんお店を回って、いっぱい時間をかけて慎重に作って――たくさん、たくさん想いが詰まった……たった一人のためのチョコレート。
でも……。
「あげたら、きっと裕也君は迷惑だと思うもん」
あの女の子の顔が頭をよぎった。
私なんかよりずっと可愛い女の子。
「馬鹿。自己完結してんじゃねーよ」
「人の気持ちも知らなかったくせに」
思わずムッとしてそう言うと、裕也君は一つため息を付いた。
「……ごめん」
そのまま、裕也君は黙り込んでしまう。
まるで、何か言いあぐねているみたいで――
私は、暫くしてそっと呟いた。
「……後悔、しない?」
これをあげちゃったら。
そしたら、今のままではいられないんだよ?
今までみたいに、知らない振り、出来ないんだよ?
それでもいい?
ねえ、本当に――それでもいいの?
裕也君は、一つ大きく、頷いた。
「うん」
「ホント?」
「本当」
「ホントに、本当?」
「本当に、本当」
「ホントに、ホントに、本当?」
「……しつこいぞ」
裕也君が軽く睨むように言う。
照れくさげに耳たぶを赤くして、それを隠すように鼻の頭にしわを寄せて――
だって、信じられなかったから。
あんまりずっと、長い間夢見ていたから、叶ったことが信じられなくて。
……でも、私の顔は正直に、にっこりと微笑んでいた。
そして、そのまま握りしめていたチョコレートを差し出す。
「ちゃんと、食べてね。私が精魂込めて作ったんだから――」
甘いのが苦手だって言っても、美味しくないって思っても、許して上げないんだから。
食べ終わるの、見てるんだからね、ずっと――そばで。
「ああ、ちゃんと食べるよ――。なあ?やっぱり美鈴ってさ、笑ってた方がいいぞ」
……ば、馬鹿。
本当に、鈍感なんだから。
そのセリフはね、女の子を口説くときの殺し文句なんだぞ、――って。
駄目だ。
私、すっかりはまっちゃってる。
そのまま黙ってると、頬が更に緩んでしまいそうで。
私は慌てて口元を引き締めた。
「なによ、何もないのにへらへら笑ってたら、馬鹿みたいじゃない」
「そんなこと、言ってないだろ?」
「私って、意地っ張りだもん」
さっきのお返しとばかりに、裕也君の言葉を反芻して、私はふと空を見上げた。
「……あ、ほら見て、雪。すごく、綺麗」
いつの間にか降り出した雪が、潮風に乗って宙を漂っている。
……ねえ、気づいてる?
今日から始まったんだよ。
今までと違う、二人の時間。
大切に、しようね。
今日のこの日を――はじまりの記念日にして……。
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