The St.Valentine's Day~はじまりの記念日

樹 星亜

第1話 SIDE A ――裕 也――

 一筋の冷たい潮風が、頬をすり抜けてゆく。

 何気なく空を仰ぐと、そこには雲一つ無い、透き通るようなアクアブルーに輝く空が広がり、海岸線に打ち寄せる波が、冬の朝の優しげな太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

 この、海に面したなだらかな坂道が、俺のいつもの通学路。

 俺は、未だ頭の片隅に残っている眠気を追い払うかのように、胸一杯に潮の香りを含んだ冷たい空気を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。

 いつもと同じ朝。

 そして、いつもと同じように、もうすぐ後ろから俺を呼ぶ声が聞こえてくるだろう。

「裕也君、おはよう」

 振り返るまでもなく、声だけで誰かわかる。

「おっす、美鈴」

 こいつは浅丘美鈴――俺が生まれた時からの腐れ縁だ。

 家が近所で同じ歳の子どもがいるということもあり、俺達が、まだ物心が付くよりも前から家同士の交流があったのだ。

 俺と美鈴は小学校、中学校と不思議と同じクラスになる事が多かった。

 そして、中学の頃は、大体が同じくらいの学力レベルだった――もっとも、今では大きく水を開けられた感も否めないが――ということもあり、同じ高校へと進学したのだ。

 すると、驚いた事に今通ってる学校までもが同じクラス。

 これを腐れ縁と言わずに、一体、何て言えばいいのだろうか?

 そう、俺にとっての美鈴は、気が付けば隣にいる、そんな兄妹のような関係だった。

「今日も寒いなー」

「そうだね。天気予報で寒気団が降りてきてるとか言ってたから、もしかしたら雪が降るのかも」

「げー。明日はせっかくの休みだぜ? 雪なんか積もったら、何所にも遊びに行けないじゃないか」

 俺が、大袈裟なアクションで言うと、美鈴はくすくすと笑った。

「裕也君らしいね。でも、今年は殆ど雪が降ってないから、少しでも積もるといいな」

「美鈴は昔から雪が好きだったもんな」

「うん。だって、雪って綺麗じゃない?」

「そうか? 俺は、ただ寒いだけだと思うけどな」

「そうかな?」

「そうだよ。大体、普段、雪があまり降らないような所で積もると大変なんだぞ」

「そうかもしれないけど。見てる分にはいいかな、って」

「見てるだけでも、寒いって」

 美鈴のちょっと残念そうな顔を見て、俺は、思わず苦笑してしまう。

 俺が、美鈴の言うことに対して反論するのは、言わばお約束みたいなものだった。

 本心から思ってない事でも、美鈴が言う事に対しては、ついつい口を挟みたくなってしまうのだ。もっとも、ムキになって反論するようなタイプではないので、あまり、からかいがいの無いヤツなのだか――。

 俺達が、そんな取り留めの無いことを話しながら、なだらかな坂を上っていくと、やがて学校の校舎が見えてくる。

 ふと、腕時計に目をやると、既に八時二十五分過ぎを指していた。

 予鈴まで、あと五分といったところだ。

「っと、あんまりのんびりしてられねー時間みたいだな。ちょっと急ぐか」

「そうだね」

 俺達は、少し歩みを早めた――。


          ★


 校門をくぐるのとほぼ同時に予鈴が鳴り響く。

「なんとか間に合ったね」

「ああ、ちょっと危なかっみたいだけどな」

 そんなことを話しながら校舎へと向かって歩いていると、後ろの方から突然声をかけられた。

 振り返ると、クラスメートの衣川幹が息を切らせながら走ってくる所だった。

 こいつとは小学生の頃からの悪友で、スマートな体型に甘いマスクなのだが、細い身体に似合わず陸上部のエースだったりする。ただ、さらりと毒のあるセリフを吐くのと、すぐに笑いを取ろうとする所が玉に傷か。

「おはよう、浅丘さん。おはよう、裕也」

「おはよう、衣川君」

「おっす、幹。おまえも滑り込みか?」

「うん。ちょっと寝坊しちゃってさ。走って来たからまだ心臓がバクバク言ってるよ」

 幹は胸を押さえて、オーバーなアクションでおどけてみせる。

「そんなこといってねーで、もっと早起きしろよな」

「そういや裕也って、遅刻したことがないのだけが、取り柄だもんな」

「だけってのは、余計だろ」

「勉強は駄目。体育は得意だけど特定のスポーツはしていない。顔は悪くは無いが良くもない。ほら、他に何か取り柄というものも無いだろ?」

 幹はにやにやと笑いながら言う。

「テメエ、朝っぱらから喧嘩売ってんのかよ?」

「まあ、そんなに怒りなさんなって」

 コイツの場合はどこまでが本心で、どこからがそうでないのかが今いち掴めねーから、こんな事でいちいち怒ってると、こっちの身が持たないんだけどな。

「まあまあ、二人とも」

 そんな二人のやり取りを見ていた美鈴が、笑いながら仲裁にはいる。

「ったく」

「でも裕也はいいよな。少なくとも一個は確実じゃん」

「へ? 何がだ?」

「またまたとぼけちゃって~」

 そんな幹の言葉を聞いて、美鈴は何故か赤くなって俯いてしまう。

「はぁ?」

「本当に、解らないのか?」

 幹は訝しそうな表情で、俺の顔を覗き込んだ。

「ああ。一体、何が言いたいんだ?」

 そんな俺の言葉を聞いて、幹は大きくため息をついた。

「じゃあ、今日は何月何日だ?」

「えっと、二月十四日、だろ? ……あー」

 そっか、今日はバレンタインデーだったのか。

「やっと解ったか。この馬鹿」

「何で、バレンタインを忘れてただけで馬鹿呼ばわりされないといけねーんだよ!」

 俺がそう言うと、幹はわざとらしく肩を竦ませてから美鈴の方を見る。

「浅丘さんも、こんな鈍感男が相手だと大変だよね」

 そんな幹の言葉に、美鈴は顔はもとより耳まで真っ赤にしている。

 美鈴は、昔からこういう話題に対しては、からっきしウブなのだ。

 茹でたトマトのみたいに顔を赤くしている美鈴を見ると、何となくこっちまで恥ずかしくなっちまう。

 もっとも、幹もそれを知っていて、言ってるんだろうけど。

「美鈴は関係ねーだろ。ただの幼なじみだぜ?」

 俺がそう言うと、一瞬だけ美鈴の瞳が陰ったような気がした。

――まあ、きっと、気のせいって所だろう。

 幹はそんな俺達の顔を見比べて、今にも笑い出しそうになるのを必死に堪えてるように見える。

「ふぅん。ま、そういう事にしときましょうか」

「――ねぇ、話し込むのはいいんだけどさ、急がないと遅刻しちゃうよ?」

 美鈴がそういうのと、ほぼ同じにチャイムが鳴り響く。

「げ。もう、そんな時間か? 急ごうぜ」

 俺達三人は顔を見合わせてから、教室へ向かって慌てて走り出した――。


          ★


 今日は土曜日ということで、午前中だけの退屈な授業もあっという間に終わり、皆はそれぞれに帰り支度を始めている。

 グランドを何気なく見ると、午前中に少しだけ降っていた雪が、校庭を薄っすらと白く染め上げていた。

 朝、美鈴にはあんなことを言ったが、実際は雪を見てるだけなら綺麗だと思う。

 もっとも、自分に害が及ばなければ、の話しだけど。

「……あの。岸谷さん」

 後ろの方から、俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきたた。

 俺が何気なく声がした方へ身体を向けると、そこには見たことが無い女生徒が立っていた。

「これ、良かったら食べてください」

 そう言って、俺に綺麗な包み紙でラッピングされた箱を押し付けると、女生徒は顔を赤らめて、恥ずかしそうに走り去っていく。俺は、一瞬何が起こったのか解らなかった。

――これって、やっぱ、チョコレートだよな?

 呆然と女生徒が走り去った方を眺めていると、帰り支度を終えた幹と美鈴が俺の方へと近づいてきた。

「へぇ、モテるじゃん」

 幹は呆れた顔で、心底意外そうに言う。

 実際、自分でも意外と思う。ツラだけは良い幹ならともかくとして、俺は今までバレンタインデーに、第三者からチョコレートを貰った事なんて、一度も無かったのだ。

「――良かったね、裕也くん」

 美鈴も意外に思ったのか、一瞬、息を飲んだ後にそう言った。

 心なしか、表情が沈んでいるような気がした。

「どうせ、義理チョコだって」

 俺は、少し肩をすくませる。

「見ず知らずの女生徒から、そんなにデカイチョコレートを貰っといて、か?」

「ま、まあ、それは置いといて、幹はチョコレート貰ったのか?」

「僕? とりあえず義理チョコはいくつかね。浅丘さんにも貰ったし」

「そういや、美鈴は俺にはくれないのか?」

 俺がそう言うと、美鈴の顔がさっと青ざめる。

「ご、ごめん。裕也くんの分買い忘れちゃって。ほ、ほら、私ってドジだから――」

「何、どもってんだよ?」

「明日、違うのをあげるから。本当にごめんね」

「違うのを?」

「――! ごめん、私、用事あったんだ。先、帰るね」

 美鈴はそう言うと、青ざめた顔のまま教室を走って出ていってしまった。


「あ~あ。ほら、ちゃんと追いかけてあげないと」

 そんな俺と美鈴の成り行きを見届けた幹は、普段見せた事の無いような、何時に無く真面目な顔で言う。

「なんでだよ。用事あるって言ってただろ?」

「本当に、何も解ってないんだな。僕が思うに、浅丘さんはお前が本命らしきチョコレートを貰うのを見て、渡せなくなったんだって事」

「……考えすぎだろ?」

「じゃあ、僕の分を含めて義理チョコを買っていて、裕也の分だけ買い忘れたって言うのは不自然じゃないのか? それに、さっき言った『違うのを』ってヤツ。あれも不自然だろ」

 確かに、ちょっと不自然なような気もする。

 だけど、俺がチョコレートを貰って、渡せなくなるって理由は――。

 やめた。今は、深く考えないようにしておこう。

 下手な邪推は、俺と美鈴の関係を壊してしまう事になりかねないのだ。

「わかった。とりあえず、美鈴を追いかけりゃあいいんだな」

「そういう事」

 俺は、教室に幹を残して美鈴が去っていった方へと走り出す。

 後ろから、幹の「――まったく、あまり世話を焼かすなよ」と言う声が、かすかに聞こえてきた。


          ★


 校門を出て、坂を一気に駆け降りる。

 肺が酸素を求めてキリキリと痛み、心臓が喉から飛び出てしまうのでは無いかと思うほどに、鼓動が早くなっていた。

 体育が得意と言っても、普段から走り込んでいる訳ではないのだ。

 だから、長距離を全力疾走するって事は、俺にとって地獄のような苦しみだった。

 一体、どれくらい走り続けただろうか?

 やっと、歩道の遥か向こうの方に、美鈴の後ろ姿を見つける事が出来た。

「おーい、美鈴、待ってくれ!」

 息も絶え絶えになりながらも、何とかそれだけ叫ぶ事ができた。

 美鈴の小さな背中が、どんどんと近づいてくる。

 そして、数瞬後には美鈴のいる場所まで追いつくことができた。

 美鈴はとぼとぼと俯きながら、歩いている。

 手には、赤い包装紙に包まれた箱を持っていた。

 でも、俺の存在を無視するかのように、美鈴は振り返らない。

「はぁ、はぁ……。待てって言ってるだろ!」

「……」

「お前泣いてるのか?」

 俯いた美鈴の目は、赤く充血している。

「ち、違うよ。潮風が少し目にしみただけ」

「嘘つけ。何を意地はってんだよ」

「……馬鹿。鈍感男。裕也君なんか大嫌い」

 美鈴の髪が潮風に煽られて、ふわりと宙を漂い、太陽に照らされてキラキラと輝いていた。

 いつもと同じ見慣れた横顔なのに、何故か胸が苦しくなる。

「……急に何を言い出すんだよ?」

 美鈴が何を言いたいのか解らなかった。

 いや、本当は解りたくないだけだったのかも知れない。

 でも、今までの美鈴との、ぬるま湯のような関係を壊したくない為に、美鈴を傷つけていたのなら――。

 俺は、ただ、美鈴に甘えていただけなのだろうか?

「チョコレート、あるんだろ? だったら、俺にくれよ」

「あげたら、きっと裕也君は迷惑だと思うもん」

「馬鹿。自己完結してんじゃねーよ」

「人の気持ちも知らなかったくせに」

「……ごめん」

「……」

「……」

 そして、俺達はしばらく無言のまま歩き続ける。

「……後悔、しない?」

「うん」

「ホント?」

「本当」

「ホントに、本当?」

「本当に、本当」

「ホントに、ホントに、本当?」

「……しつこいぞ」

 俺がそういうと、美鈴はにっこり笑って、今まで握り締めていたチョコレートを俺の方へと差し出した。

 そう、俺は美鈴のこの笑顔が好きだったのだ――。

 今ごろ気づくなんて、な。

「ちゃんと、食べてね。私が精根込めて作ったんだから――」

「ああ、ちゃんと食べるよ――。なあ? やっぱり美鈴ってさ、笑ってた方がいいぞ」

「なによ、何も無いのにへらへら笑ってたら、馬鹿みたいじゃない」

「そんなこと、言ってないだろ?」

「私って、意地っ張りだもん」

 美鈴は少し顔を赤らめて、俺から視線を逸らすように空を仰いだ。

「……あ、ほら見て、雪。すごく、綺麗」

 いつの間にか降り出した雪が、潮風に乗って宙を漂っている。

 そして今、俺達二人の新しい時間が、始まろうとしていた――。

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