たゆたう

高村 芳

たゆたう

 「ゆきちゃん。しぬって、どういうこと?」


 私のスカートを握りしめながら、姪の亜里沙ありさがそう尋ねてきた。クリーニングしてから久しぶりに袖を通した礼服には大きい皺が寄っている。私はまだ五歳の亜里沙と視線を合わせるためにしゃがんだ。焼きたてのパンのようにふっくらとした頬にはいくつもの涙の筋がついていて、私は白いハンカチーフでそれを優しく拭う。溢れんばかりに涙が溜まった双眸で、彼女は静かに部屋の中央を見つめた。

 視線の先には、もう二度と動かない義兄の亡骸が入った棺と、それに寄りかかってすすり泣く姉の後ろ姿があった。私は震える亜里沙の小さな肩を抱き寄せ、耳元で答える。


「もう会えないってことだよ。亜里沙のおとうさんは、おほしさまになっちゃったんだよ」


 小さな体に渦巻く哀しみの堰が決壊し、亜里沙は再び泣き出した。叫ぶように泣く熱の塊を、私は必死に抱きしめた。姉の方を振り返る。姉は動かぬ棺にすがりついたまま、自分の哀しみの沼に浸っていた。


 ――しぬって、どういうこと?


 亜里沙の絞り出すような声がリフレインする。焼け付きそうな心臓の奥で、もう一人の私が言った。

 死んだらどうなるのか、私も知りたいよ。



 義兄が交通事故で急死してから一週間が経ち、私と母は姉と亜里沙が住むマンションを訪れた。つい先日まで残暑が厳しく残り、歩くだけで汗をかいていたはずなのに、いつの間にか世界は秋という絵の具で塗り終えられていた。マンションに隣接する小さな公園に佇むイチョウの木は、黄色に色づく準備を始めている。


「あの子、大丈夫かしら……」


 母はマンションの入り口で、ぽつりとそう零した。姉の落ち込み様に、驚きと戸惑いを隠せないようだった。私という第二子が生まれるまで厳しく育てていた姉のことを、もう少し強い人間だと思っていたのだろう。確かに、姉は強い人だった。学生時代は優秀な成績を残し、家を出て地元で有名なメーカーの経理担当として勤めていた。そこで営業をしていた義兄と知り合い、結婚して数年後には亜里沙を授かる。妹の私から見ても順風満帆としか言いようのない生活を送っていた。両家の親に頼ることも少なく、仕事を辞めて亜里沙の世話をしながら日々を強く生きていたのだ。大企業に勤める、優しく誠実な夫と、少しおませになってきた可愛らしい娘。ついこの間、お盆で親戚が集まったときにも、亜里沙の成長ぶりに義兄と姉が何よりも喜んでいるように見えた。

 しかし、幸せの代償にと言わんばかりに、運命が家族を引き裂いた。電話越しに震える母の声で、義兄が事故に遭って重体だということを知らされた。車をとばして地元の病院に着いたのは、夜も深くなった頃、義兄が息を引き取った後だった。亜里沙は泣き疲れて眠っていた。なぜだか病院にかけつけてから、私はまともに姉の顔を見ることはなかった。通夜でも葬式でも火葬場でも、姉の顔はなぜかパレットに残った絵の具をすべて混ぜて作った色のように、濁って見えるばかりだった。姉が積み上げてきた完璧で幸せな生活は、浜で波にさらわれた砂山のように、跡形もなくなった。

 姉の部屋の呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは姉とは思えない人物だった。唇は荒れ、頬はこけ、髪が乱れた姉の姿を見て、母は涙を浮かべて姉を抱きしめる。母は姉の名を呼び、「ごはんは食べてるの」「大丈夫?」と何度となく語りかけたが、姉は何も言わなかった。

 私は姉の肩を支える母の後ろに付き従いながら、亜里沙の姿を探した。部屋全体がゆがみ、色がくすんでしまったようだった。綺麗好きな姉からは信じられないほどに床には服やら亜里沙のオモチャやらが散乱していた。スナック菓子が絨毯の上でつぶれて粉々になっている。部屋にふたつほど置かれたゴミ袋には、コンビニのお弁当やスーパーの惣菜やらの包装がいくつものぞいている。シンクに眼をやると、箸やコップだけが溜まっていて、調理器具は綺麗に整頓されたままになっていた。本来まな板を置くはずのスペースは、空のペットボトルで埋め尽くされていた。


「おばあちゃん。ゆきちゃん」


 亜里沙はリビングのテーブルで絵を描いていた。クレヨンに彩られた画用紙が、亜里沙のまわりを取り囲んでいる。私はそれを踏まないように一枚ずつ拾い上げながら、亜里沙の元へ向かい、抱きしめた。


「亜里沙、元気? だいじょうぶ? 絵、いっぱい描いたんだね」


 亜里沙は何も言わず、私の肩でひとつ頷いた。拾い上げた絵をふと見ると、そこには男性と女性と、小さな女の子と花が描かれている絵があった。もう一枚は、いろんな色でただぐちゃぐちゃに紙面が塗りつぶされている。亜里沙の手はクレヨンで汚れていた。私は小さな手が強く握りしめていたクレヨンを優しく取り上げ、洗面台に連れて行った。彼女は何も言わず従っていた。

 洗面台から伸びる廊下をリビングへ戻る道中、和室から母の声が聞こえる。和室に置かれた背の低い戸棚の上に、義兄の写真と骨壺が置かれているのが見えた。写真の中の義兄は、満面の笑みでレンズ越しに私を見つめてくる。あれはきっと、亜里沙の七五三のときの写真だろう。その正面に姉は力なく座っており、母は姉の右手に手を添えていた。


「大丈夫なの? 亜里沙の面倒はみれているの? あなたも亜里沙も、ちょっと痩せてるじゃない。ゴミも捨てないで……」


 母は心の底から心配してそう言ったのだろう。そしておそらく、姉は母の心配を温かく受け取れる精神状態ではないことも、私にはわかっていた。姉は返事もせず、ただすすり泣くだけだった。母は姉の名を呼び続け、抱きしめた。


「亜里沙。いっしょに海に行こうか」


 ここにいては、私の方が気が狂ってしまいそうだった。亜里沙の手を強く握りしめると、彼女は私の目を見てこくんと頷く。母と姉に簡単なメモだけ残し、床に落ちていた亜里沙の上着を拾い上げて、彼女の手をとって急いで部屋を出た。一秒でも早く、外の空気を吸いたかった。


 車で移動している間、助手席に大人しく座っている亜里沙に幾度となく話しかけたが、短い返事が返ってくるだけだった。泣きもしない。ただ開けたウインドウから吹き込んでくる冷たい風に、やわらかな前髪を泳がせている。ドライブスルーで適当にドーナツを調達し、私は海岸へ続く道に車を走らせた。

 波止場の入り口の脇に車を停める。風はビル風から、少し湿り気を帯びた潮風に変わっていた。形が変化し続ける波間に、釣り人たちの長い竿から何本か糸が垂れて光っているのが見える。亜里沙のシートベルトを外し、膝の上に上着をかけてやってから、ドーナツの油が染みた紙袋を開いた。チョコレートがかかった冷たいドーナツをひとつ手渡してやると、彼女は何も言わず一口かじった。それを見て、私はプレーンのドーナツを取って口にした。舌の上に、酸化した油と砂糖の甘みがじわりと広がった。

 義兄に初めて会ったのは、大学三年生の夏だった。姉に海に行こうと誘われて電車で向かうと、姉と、私も面識のある姉の友人と、義兄の三人がいた。当時の姉と義兄の間に漂う雰囲気を見れば、ふたりが恋人同士なことは一目瞭然だった。同じ会社に勤めている姉の友人がキューピッドなのだと、姉の友人が自慢気に教えてくれた。友人と義兄を交互に見て照れくさそうに笑う姉の表情が思い浮かぶ。それからというもの、幾度となく四人で遊んだ。義兄は、恋人の妹である私にも誠実に接してくれた。いくらでも大切な思い出はあるはずなのに、なぜか波に飲み込まれてしまって上手く思い出せなかった。

 お茶を買っていたことを思い出し、ペットボトルを亜里沙に手渡そうとした。亜里沙は一口かじっただけのドーナツを握りしめたまま、自分でも気づいていないのかと思うくらい静かに、静かに泣いていた。まっすぐ海の方を見ていた。


「ゆきちゃん、おとうさんにあいたいからくるまでつれてって」


 かぼそい、消え入りそうな声だった。私は動けなかった。この壊れそうな小さなうつわに並々と注がれた哀しみを、どうすくってやればいいのだろう? 目の前にもやがかかったように途方に暮れた。


 亜里沙、無理だよ。亜里沙のおとうさんは、もういないの。亜里沙の目の前からも、姉さんの隣からも、この世界からも、いなくなっちゃったの。

 ずっとしまいこんでいた私の心の奥底に、彼の笑顔と私を呼ぶ低い声が、ひとしずくあるだけなの。これだけは、誰にも渡せないの。


「ゆきちゃんもかなしいの?」


 気づけば私も泣いていた。彼を失った哀しみが、波のように押し寄せては消え、ひいてはまた心臓の中に潮のように満ちてくる。嗚咽が止められない。私はペットボトルが足下に落としたまま、子どものように泣いた。誰か、誰か私を抱きしめて。そう願いながら、涙は私の意に反して流れ続けた。


「ゆきちゃん、ごめんね。なかないで、ゆきちゃん……」


 わあ、と、亜里沙が泣き叫ぶ声がした。私は我に返り、亜里沙を抱き留めた。種類の異なる、けれど同じくらいに大きい哀しみが、私と亜里沙の中で混じり合うようだった。


 水平線に橙色の光が消えていこうとしていた。水道で濡らしたハンカチーフで亜里沙の頬と私の顔を拭った。乾いた涙の跡が消えた。


「亜里沙、哀しいときや寂しいときは、いっぱい泣いていいからね。お母さんも、私も哀しいときはいっぱい泣くけど、許してね」


 亜里沙は力強く頷いた。眼は赤くなっていたけれど、どこまでも青い海のように透き通っていた。哀しみの波にたゆたいながら、少しずつ、少しずつ生きていくしかない。帰ったら、姉がどんな表情をして哀しんでいるのか、向き合って話を聞こうと決めた。

 私は水面が反射する光の眩しさに眼を細めつつ、車のキーを回してエンジンをかけた。




   了

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たゆたう 高村 芳 @yo4_taka6ra

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