第9話

 結婚して一年が経った。私は細々と音楽教室を続け、彼は彼の父との研究に没頭していた。幸せな生活は長くは続かなかった。二十五歳の誕生日に突然、強い眩暈に襲われ、そのまま入院になった。


 心配した彼が病院に飛んできた頃、私はだいぶ落ち着いていた。彼は部屋の外で医者と長い時間、話し込んでいた。そして、戻ってきてこう言った。

「おちついて聞いて」


 どうやら私の細胞が劣化しているらしい。蘇生する際に細胞を活性化させる処置を受けた。その副作用だそうだ。細胞には複製できる回数に限界がある。私は通常の二十歳代よりもその回数が極端に少ないそうだ。つまり、あっという間に老化するということだ。

「想定より進行が速い」 

 彼も彼の父も副作用は把握していたそうだ。進行を抑えることができないか必死で研究をしてくれていたとを知った。


「もっと早く言ってくれればよかったのに」

「で、研究はどうなの?」

「・・・・・・糸口は見えてる。でも、正直、まだ人に適用できるレベルじゃない」

「もっと、遠回しにいってよ」

 と私は微笑んだ。素直なのが彼の良いところで好きだった。

「冷凍した魚は解凍すると繊維が壊れるんだって。それと同じね」

 私は小さく微笑んだ。彼は笑わなかった。

「君は魚じゃない」

「短い間だったけど幸せだった」

 彼は眼をとじて私の声を聴いている。彼の顔から感情を読み取ることができない。


 長い沈黙のあと、彼がゆっくり目を開いて言った。

「これを使う」

 彼は銀色の小さな筒をポケットから取り出した。

「何?」

「僕が新しく合成した薬だよ。まだ試作段階だけど理論上、効果が十分だと分かっている」

「治るの?」

「残念だけど、君を健康することはできない。でも、君は死なない。僕が死なせない」

「どういうこと?」

「この薬は君の代謝を極限まで低下させる。仮死状態ってやつだ」

 私は気付いた。彼は再度やろうとしているのだ。私の両親と同じことを。

「君を更に苦しめるかもしれない。でも僕はどうしても君を諦められない」

 彼と彼の父はこのような事態を想定して研究をしていた。そして、私の時代の冷凍睡眠とは比較にならないほど良い状態で人体を生き永らえさせる技術を開発したのだった。


「今の技術では君を治せない。でも、いつになるかは分からないけど未来の技術が君を治療する。僕もいっぱい研究する」

 彼の声は穏やかだったが、確信に満ちていた。


「分かった。あなたならできるわ」

「時間がない。劣化は一度始まると一気に進む。使っていいかい?」

「うん」

 私は小さくつぶやいた。腕にかすかな感触。彼が薬を打ったようだ。視野がぼやけてきた。五感が闇に吸い込まるようだ。


 思い出が頭をめぐった。初めて彼に会った日のこと。私に楽器を教わりながら彼が「君のブレイン・イメージがあれば」と冗談っぽく言ったこと。これが走馬灯というものか。でも、彼が走馬灯の続きを生きる希望をくれた。


 何も見えない。残ったのわずかな聴覚だけ。

「独りぼっちは、イヤ」

 声を絞り出した。耳元で彼の声が聞こえた。

「かぐや姫は月に帰るんだ、しばらくの間」

「うん。月で・・・・・・待ってる」

 言葉が出なくなっていた。意識が遠のいていく。


 昔話でかぐや姫は記憶をなくして月に帰った。でも、私は絶対に忘れない。そう誓いながらかぐや姫が月に帰るときに詠んだ歌を思い出した。


    今はとて 天の羽衣 著るをりぞ 君を哀れと 思ひ出でぬる


 天の羽衣は、彼の優しさのことかな・・・・・・。この五年間をしみじみと思い出しながら、私は羊を数え始めた。


(終)

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月へ 松本タケル @matu3980454

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