ただ一人の声

燦々東里

ただ一人の声

   ただ一人の声

                  高橋 愛里 


 ――ポルックスの世界は、カストルという歯車と共に回っていた。

 思考に耽っている時、近くの人が話している声は認識できるが、その内容までは理解できない。誰しもそんな状態になったことがあるだろう。しかしそれは思考をやめれば直る。だからそれを煩わしいと思うことはない。

 だが、ポルックスは違った。ポルックスは常にその状態が続くのだ。相手の声は聞こえる。言葉を発することもできる。それなのに会話はできない。この摩訶不思議な病気のせいで彼女はもどかしさを味わうも、会話ができないので、自分のことを理解してもらうことは叶わない。

 幼いポルックスは耐え難い寂しさと恐怖の中にいたのだ。そこに現れた救世主は、双子の兄であるカストルだった。

『……ポルックス』

 初めて聞いた声はその一言。驚愕と歓喜の入り混じった表情のカストルから飛び出した言葉だ。

 なぜかカストルの言葉だけはポルックスにも理解でき、彼を介することで他の人との会話も可能となった。

 一方でその救世主はというと、なぜかポルックスが近くにいなければ話すことができないという、これまた不思議な病気に侵されていた。

 カストルとポルックス。共に謎の病にかかった双子は、片時も離れることなく、日々を生きていた。それは二人が齢十六となった今でも変わらない。



「ポルックス。見つけた」

 ある日のこと。急に本が読みたいと言うカストルに付いて、ポルックスは家の書庫まで来ていた。家の者も滅多に入らないこの場所は埃っぽい。しかしそんなことは気にせず次から次へと本を漁るカストルに合わせて、ポルックスもページを捲っては閉じてを繰り返していた。

だがポルックスは、大人しく座っているより外で走り回っている方が好きな性分。それはカストルも同じだろうに、と些か不満に思っていたところ、やっとカストルが声を発したのだ。

「見つけたって何を?」

「ほら、これ」

 どうやらカストルが見ているのは図鑑のようだ。それも子供用ではなく、どちらかといえば学者向けのもの。胡坐(あぐら)をかくカストルに膝歩きで近寄って、その分厚い本の開かれたページを覗き込む。

「パンセレーノンって花?」

「そう。花びらが万能薬になるんだって」

 どうやらカストルが見ているのは花の項目らしい。そのページには一つの花が載っていた。ただつぼみの状態の写真しか載っていないので、花びらの様子はわからない。花弁は白である可能性が高い、と記されていた。

「タナトス崖って知ってるだろ?」

「うん。枯れた滝の中流にあるやつでしょ?」

「それそれ。その周辺に生えてるんだって。取りに行こうよ」

「行くのは面白そうだけど、今からだと夜になっちゃう。最悪、野宿だよ?」

 タナトス崖まではかなりの距離がある。昼間の今に家を出ても、夜までかかってしまう。夜通し歩くのは野獣に会う可能性もあって危険だ。

野宿に興味はある。だが野宿も危険なことは変わらない。早朝に出発できるなら、その方がいいだろう。

 渋るポルックスに、カストルは得意げな笑みを向ける。

「夜じゃないとダメなんだ。数年に一度、満月の夜にパンセレーノンは咲く。そして今日は満月!」

「ええ! それじゃあ、わざわざ行っても咲いてないかもしれないの!」

 不満げな言葉とは裏腹に、ポルックスの表情は笑顔だ。わざとらしく口元に手を当てると、彼女の長いサイドテールが楽しげに揺れた。

「そういうこと。でも、もし咲いていたとしたら」

「あたしたちの病気が治って」

「楽しい冒険もできる」

 カストルとポルックスは顔を突き合わせて、歯を見せあう。

「行くっきゃないっしょ」

「言うと思った」

 二人は楽しそうに拳を合わせた。

 そして図鑑のパンセレーノンのページを破りとると、それだけを持って家を飛び出した。

ポルックスの家は森の中に位置している。

「へへっ、おっさきー」

「あ、待て、このやろ」

 ポルックスが森にできた道に先に入る。カストルがむっとした顔で早歩きをして、ポルックスの前に出る。するとまたポルックスが追い抜かして、カストルもやり返して。それを繰り返すうちに、いつの間にやらポルックスはカストルと一緒に走っていた。

 楽しそうに笑い声を上げながら走っていたポルックスとカストル。しかし前方に姿を現した五人の人間の姿に足を止めた。

 向こうもこちらに気づいたようだ。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。この五人は近所に住んでいる同い年の子どもたちで、何かとポルックスら双子にちょっかいを掛けてきた。

 リーダー格の男が、一歩前に出て何かを言っている。口の動きから察するに、この歳になってもまだ二人一緒かよ、といった言葉だろう。そのリーダーが他の四人に問いかけるように振り返る。すると五人全員が馬鹿にするように大声を上げて笑い始めた。

ポルックスはその様子を冷めた目で見る。

「──!!」

 それに気づいたリーダーが何か怒鳴って、ポルックスの肩を突き飛ばした。女に対する力ではないそれのせいで、彼女は尻餅をつく。

「何すんのよ」

 ポルックスは立ち上がって、臆すことなくリーダーの面前に向かう。しかしその前にカストルがリーダーの肩を突き飛ばした。先程のポルックスと同じように、リーダーが尻餅をつく。

「──っ!!」

 リーダーが面食らった顔をする。少し経って自分にされたことを理解したのか、顔を真っ赤にして怒りながら、他の四人に何か叫んだ。

「カストル!」

「おう!」

 楽しそうに笑いかけてくるカストルと同時に森の中に飛び込む。木をかわし、草をかき分け、枝を飛び越え。追いかけてくる五人の大声がどんどん遠ざかっていった。友達ができない、そもそも作ろうともしなかった二人の脚力は、幼い頃からこの森で鍛えられてきた。

「あははっ! さっきのあの顔!」

「まさかやり返してくるとは思わなかったんだろ」

「多勢に無勢だったしね」

 あの五人の気配すら感じなくなった頃、小走りの速さに変える。顔を見合わせて、おかしくてたまらないといった風に笑った。

 たとえどんなに嫌なことがあっても、カストルと一緒なら楽しいことに変えられる。カストルがいれば、それ以上は望まない。ポルックスは常にそう思っていた。



 走る。歩く。競争する。寄り道する。そんなことを繰り返して、すっかり夜になった。森のどこかから、フクロウの鳴く声が聞こえてくる。

 そろそろ飽きてきたとばかりにポルックスが声を上げた。頭上の鬱蒼とした木々を見上げる。

「そろそろ着く頃?」

「そうだと思うんだけど……。あ、ほら」

 カストルが指さした先がうっすら明るくなっている。そこを潜れば、やっと森が切れた。

「んー、久しぶりの開けた場所……」

 ポルックスが伸びをしながら嬉しそうに笑う。

「すげぇな……」

「ん?」

 そんなポルックスの解放感とは打って変わったカストルの様子。

 呆然として呟く彼の隣に並んで前方を見る。そこにはタナトス崖が広がっていた。崖の底は漆黒で当然見えない。反対側もかろうじて見えるほど遠く、そこは不毛の土地だ。心なしか風が冷たくなったような感じもする。

「噂に聞いていた通り」

「危険そうな場所だな」

 近寄りがたい雰囲気に、さすがのカストルとポルックスも身動きが取れなかった。二人並んで呆然と立ち尽くす。

「あ! カストル!」

「どうした!」

 ふとポルックスが左右に視線を走らせる。かつて滝があった絶壁に植物が揺れていた。

「あれってパンセレーノン!?」

「まじか!」

 先程までの雰囲気はどこへやら、大慌てで絶壁まで駆け寄る。二人して崖のふちに立って、身長より高い位置に生えるその花を見た。

過酷な環境で花開くその姿は、白。カストルと顔を見合わせて図鑑と見比べてみると、葉や茎の様子は丸写しだ。

「どっからどう見ても!」

「パンセレーノン!」

「よっしゃ!」

「やったね!」

 念願の物を前に思わず顔が緩む。これさえあれば普通の生活を手に入れられるのだ。カストルと顔を突き合わせて拳をぶつけ合った。

「あたしが取るよ」

「おう、頼んだ」

 カストルが一歩後ろに下がって、ポルックスが前に出る。ただでさえ深い崖に加え、見上げれば首が痛くなるほどの断崖絶壁。ポルックスは唾を飲み込んでから、岩壁のでっぱりに手を掛ける。そして思い切り腕を伸ばした。

「……ありゃ」

「どした?」

「届かないんだけど」

 指先はかろうじて葉に届いている。しかしそれでは引っこ抜くことはできない。何とか届かないかと懸命に手を伸ばしても、パンセレーノンは嘲笑うかのように揺れるだけだった。

「おれが取ろうか?」

「いや、たぶん、とれ、る……」

 意地でも取ってやると、片足で立って背伸びをする。身体を支える腕も伸び切った。腕や脚が小刻みに震える。腕を伸ばし続けると、やっと茎を掴めた。

「よし、とれっ……あ!!」

「ポルックス!」

「カストル!」

 しかし喜んだのも束の間。足元の地面が崩れ去り、なす術もなく体が落下していく。

 そこからはなんだかよく見えた。

 必死の形相で伸ばされるカストルの手。その指先をかすめるポルックスの髪の毛。宙を切る掌。一瞬歪むカストルの表情。鮮明に見えた。

 そのあとカストルは考えるよりも先に崖下に飛び込む。互いに腕を伸ばして、手が触れ合う。握りしめられた手を引かれ、気づけばカストルの胸の中だった。力強いその腕に、カストルは男の子なのだと、のんきな考えが頭をよぎる。

 そんな思考は残酷すぎて、ポルックスは気づかぬうちに唇を噛みしめていた。



「ん……」

 瞼を持ち上げると、目の前は暗闇に包まれていた。痛む体にすぐ今の状況を思い出す。どうやら少しの間気絶してしまっていたらしい。手で体を支えながら体を起こす。地上の光が届かないほど深いはずなのに、カストルのおかげか酷い怪我はない。

「カストル……?」

「ポルックス、ここ……」

「カストル!」

 幸い夜目が効くので暗闇でもすぐにカストルの姿を捉えることができた。落ちた時の衝撃のせいか、少し離れた場所に倒れている。

「大丈夫?」

「んー、こりゃ骨、何本かいってるわ」

「ごめん、あたしを庇って……」

 いたって軽い口調で言っているが、近寄って見るとポルックスよりも明らかに傷の量が多い。近くには血の跡があるし、体を起こさないのは痛みのせいであろう。

「助け合うなんて昔からそうだろ」

「……うん」

 いつもと同じ明るい笑顔を向けてくれるカストルに、礼や謝罪の言葉を飲み込む。両頬を軽く叩いてから立ち上がった。あたりを少し歩いてみるが、岩壁の気配がない。真ん中あたりに落ちてしまったようだ。

「……ポルックス」

「今は動き回らず、朝を待った方がいいよね」

 何か言いたげなカストルを思わず遮る。

「おい、ポルックス……」

「そしたら少しは明るくなるかもしれないし、きっと抜け出せっ……」

 急に嘔吐感がこみ上げてきて、激しく咳込む。普段とは違って、粘着質な音。口元を押さえて止まるのを待った。しばらくかかってようやく納まり、手を離すと少しの違和感。

「これって……血……?」

 どこも痛みはない。それなのに濃い血が掌にはある。

「たぶん毒ガスかなんか。植物の」

「毒ガス……?」

「少し変な匂いがする」

 そう言って、カストルもポルックスと同じように咳込む。当然口からは、血。

 言われてみればどこか息苦しいような気がするし、嗅いだことのない匂いもする。ただ深いだけで終わらないのがタナトス崖ということらしい。

「……そっか」

 こんな状態なんていっそ冷静になってしまう。冴える心を連れて、カストルの隣に寝転ぶ。横は見ないで、ぼんやりと上方に視線を注いだ。

「今日、楽しかったね」

「ああ。あいつらの間抜けな顔見れたし」

「森駆け回れたし」

「タナトス崖、見たしな」

 言葉とは相反して、ポルックスの目の前には幼いころから順に、次々と思い出が浮かんでは消えるを繰り返していた。どんな時もカストルが隣にいて、カストルが傍にいさえすれば、どんなことでもできるような気がした。それはカストルも同じなんだろう。

「カストル……ありがとう」

 言わなくても伝わる想いだけど、今は、今だけは、言葉にしなければいけない。

「……それ、反則……」

「そんなことないよーだ……」

 搾り出されたカストルの声は震えていて、つられてポルックスの声も震えてしまう。見る見るうちに視界がぼやけて、瞬きと同時にはっきりする。一度溢れ出した涙はなかなか止まってはくれない。

 不意にカストルがポルックスの手を握る。温かなそれをポルックスも握り返した。

「手繋ぐのなんて何年ぶり……」

「わっかんね……」

 事前によく調べていれば。道具を用意すれば。もっと用心していれば。もしもの話をいくらでも考えうる状況なのに、ちっとも後悔の念は湧いてこない。寧ろ驚くほど心は落ち着いていた。

まるでカストルとポルックスしかいない世界のような場所にいるからだろうか。それとも言っておくべき言葉は、繋いだ手から全て伝わっているような気がするからだろうか。

それなのに嬉し涙とも悲し涙ともつかぬ、頬を伝うものが止まらないのは不思議だ。

「パンセレーノン、取れなかったな」

「あと少しだったのにね」

「ポルックスの腕が短いからだろ」

「カストルも大して変わらないでしょ」

「ははっ……怒った怒った」

 その言葉と同時にカストルが咳き込む。ポルックスも喉元から何か迫り上がってくる感覚がして、慌てて顔を横に倒す。咳と言うよりは嘔吐に近いものを繰り返して、吐き出されたのは先ほどより濃い血。

 少しの苦しさを残したまま、再び視線を前に戻す。

「カストル、夜空が、綺麗だよ」

「ほんとだ。崖の底からでも見えんだな」

 暗闇の先に満月と満天の星々が散らばっていた。光り輝くその姿は、崖の底からだと、より美しく見えた。燦爛たる光景を目に焼き付けていると、徐々に視界が霞んでくる。

こうなってくると、いよいよ涙が止まらない。隣にいる存在を確かめるように、繋いだ手に力をこめる。同じように力がしっかり返ってきた。

「次、生まれるときは」

 おもむろに。

「二人で」

 囁かれる言葉。

『一つに――』

 重なった声は、虚空に消えた。

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