錠を下ろす

桜枝 巧

錠を下ろす

「恋に落ちる、とはよく言ったものだけれど、しかしながら、落ちる穴の深さは、誰が決めていると思う? 私のモモ」

「相も変わらずよく分からない質問をするなよ、ジジ」


 俺は言葉を返してから、それらが随分懐かしい懐かしい呼称であることに気がついた。


 駅前にある、個人経営のパン屋の店内には、小さなイート・イン・スペースがある。

 駅前、と言っても、駅の中には有名なパンのチェーン店があったものだから、人々は普通そちらに行ってしまう。俺達が集まるのは、地元民の一部が通うような、駅前の小さなパン屋の方だった。


 イート・イン・スペース、と聞こえは良いが、実際は学校の机みたいな大きさのテーブルと、椅子が二脚あるだけだ。店の奥まった所にあるせいで、日当たりが良いわけでも無い。故に、そこに在るだけの、廃墟のような場所だった。パンを購入すれば、追加で暖かい飲み物を買うことができる、というのが、唯一の救いだった。


 普通に考えれば、長時間会話を弾ませるには、向かない場所だろう。

 しかしそこは、俺達にとって「いつもの場所」で、「円形劇場」だったのだ。


 こちらの表情を読み取ったのか、ジジこと目の前に座る現役女子大生が、にんまりと笑う。

 シュシュで雑にまとめられた髪の房が、僅かに揺れる。


 女性の声にしてはやや低いアルトが、俺には心地よい。格好つけた喋り方も、昔から全く変わっていなかった。


「懐かしいだろう? 久々に来たら、童心に帰りたくなってね。我ながら、良いネーミングだと、今でも思うよ」


 彼女の皿には、出来たてのベーグル・サンドが乗っている。クリーム・チーズとベーコン、レタスを挟んだ、シンプルなものだ。

 ワイシャツに、緑の厚めのカーディガン、ジーンズという、これまたシンプルな服装には、ぴったりの選択だった。


 「円形劇場」というのは、ミヒャエル・エンデの小説に出てくる場所だ。「モモ」や「ジジ」は、そこに登場する人間の名前。

 彼女がまだ小さかった頃、急に「ここを、今から私たちの『円形劇場』とする!」と言い出したのがきっかけだった。後で聞けば、当時丁度その本に惚れ込んでいたらしい。


「モモは、どちらかと言えばお前なんだけどな」

 そう茶化すと、彼女はいつものように口を尖らせた。

「何事も語り過ぎる私が、聞き上手の『モモ』な訳ないだろう。それよりは、口から生まれてきたような少年の名の方が、ずっと私らしいさ」


 「ベッポ」が我々に存在しないのは残念だけれどね、と彼女は付け加える。小説内のもう一人の主要人物「ベッポ」は、道路掃除人の老人だ。俺達の交友関係の仲に、さすがにそんな経歴を持つ奴は居なかった。


 それに、俺達の「円形劇場」には、二人分の席しか無いのだ。それは、何年経とうが変わらない。


「だから、いつだってこちらの話を聞いてくれる有田こそ、私にとっての『モモ』なんだよ。……このやり取りも、久しぶりだな」

 そう懐かしげに言われてしまえば、俺は聞き役に回るしかない。


 例え、折角の休日に突然呼び出されようが、「モモ」と呼ばれようが、苗字呼び捨てで呼ばれようが、この年下の女の子に、俺は敵わないのだ。


 年上の幼馴染として、物心着いた時から定まっていた立ち位置であり。

 惚れた側の、性である。




「……で、何だって? 恋に落ちる穴の深さ?」


 俺がソーセージ・マフィンにかぶりつきながら尋ねると、彼女は大きく頷いた。


「そうだ。ほら、恋に落ちるって、真っ逆さまのイメージがあるじゃないか。アリスの如く、ダウン、ダウン、ダウン、だ。でも、その穴の深さっていうのは、多分ものによって違うと思うんだよな」


 数週間ぶりに会ったというのに、近況報告ひとつない。時折SNSでやり取りこそするが、それだって他愛もない話ばかりだ。


 今年の春頃、半年以上にわたる自主休講から、ようやく講義に出始めた、とは、風の噂で聞いた。公園で少年少女にギターを披露するニートから、ようやく本業に戻ったという。

 彼女と親しいらしい少年と話した際に、そんなことを聞いた。地方の交番勤務というのは、様々な情報が集まってくるものなのだ。


 彼女は、まるで昨日もずっと一緒にいたかのように、こちらのことなど何でもわかっている、と言わんばかりに、本題だけを抽象的に語る。


 俺は暫く考えてから、「確かに、そうかもしれないな」と肯定した。

 思い浮かぶのは、彼女が今までに巻き込まれてきた恋愛事のいざこざだ。

 彼女は、何かと恋愛トラブルに巻き込まれることが多かった。

 元々、誰に対しても平等に接する博愛主義者の彼女である。好意を寄せるものは男女問わず多かった。

 独特の気障っぽさも、他人に「私だけが知っている、少し変だが実は優しい人」等の特別感を呼び起こさせた。


 だが、残念なことに、彼女は誰か一人を深く想うことが無かった。「何故、人は誰か一人を選ばなくてはならないのだろうね?」なんてほざいていた。実際、彼女が誰かのことを話す時、それはどれも親愛や敬愛に近かった。


 彼女自身の恋の話を、俺は受けたことがなかった、幸いなことに。


 そして、得てして彼女に惚れる者の多くは、精神的に難を抱えていた。周囲全てに優しい彼女に、ある者は嫉妬し、ある者は異様な執着を見せ、ある者は逆恨みさえした。


 その度に、俺は彼女に呼び出され、こうして分かり辛い語りに付き合わされることになる。だが、それは彼女にできる唯一のSOSでもあったから、見逃す訳にはいかなかった。気がつくのが遅れたせいで、取り返しのつかないことになりかけたこともあったくらいだ。


 良く喋る癖に口下手なジジは、ベーグルと一緒に頼んでいたコーン・スープの白いカップに口をつけた。

 そして、彼女にしては珍しい、自嘲気味な笑みを浮かべる。


「じゃあモモ、私のモモ。その穴の深さというものは、一体誰が決めると思う? 別に、それは元から深かったり、浅かったりするわけじゃあ、ない。……決めるのは、自分さ。己が他者と知り合い、『この人物とはこれぐらいの距離で』と、最初に決めてしまうんだ。勿論、後から修正されることはあれど――好意の穴の深さというのは、自分で調整出来る。違うかい?」


 俺は一度言いかけた言葉を、そのままぱっくりと飲み込んだ。

 そんなわけないだろう、そいつのことをどれだけ好きかなんて、自分じゃ決められない。いつの間にか落ちているのが恋だ、じゃなきゃ、今お前の前に座ってねえよ。


 だが、彼女に言うべき言葉は、これでは無いだろう。正論は、言うべき時と言うべきでない時がある。

 今の俺は、迷い人に道を教える巡査ではなく、ただのモモなのだ。


 結局俺は、「……さあ、な。人それぞれなんじゃないか?」と茶を濁すに留めた。


 ジジは、少し唇を尖らせた。コーン・スープで湿ったそれは、何も付けずとも桜色に艶めいている。


「そういう一般論が聞きたい訳じゃないんだがな。とにかく、私はそう思ったんだよ。恋は落とし穴なんかじゃない。いつの間にか縁まで来ていることはあれど、そこから飛び降りるかは個人次第だ」


 俺は少し考えてから、「……無意識の内に、足を踏み入れてしまっていることはあると思うぜ?」と答えた。どうやら、今の彼女は、俺自身の意見を聞きたがっているらしかった。であれば、俺に出来ることは、素直に、かつ言葉を毛布で包みながら語ることだけだ。


「ほら、お前だって、『あの人ちょっとイイな』とか、『恰好良いな』くらいは思ったことがあるだろう。お前の言葉に乗るなら、『縁まで来ている』状態だ。で、例えばそいつが、お前に話しかけてきたとする。すると、お前はどう思う?」


 彼女は少し考えるそぶりを見せてから、「そうだなあ、あまりそう言った経験はないが、ドキっとはするかもしれない」と答えた。

 彼女らしい答えだった。


 俺は台詞を重ねる。

「俺もそう思う。さて、その声をかけてきた段階で、お前はまだ『縁にいる』と思うだろうか? 否、否だ。俺は、穴に片足突っ込んでるもんだと思うね。ただ、その穴は、酷く浅い。次にアクションが起きなければ、すぐに塞がってしまうだろう」


 そう言って、俺はソーセージ・マフィンの最後のひとかけらを食む。それは、既にわずかなぬくもりを残すばかりになっていた。


 彼女は、「ああ、なるほど。そういうこともあるのか」と頷いた。

 それから、少し時間をかけて、もう一度「なるほど、な」と深く首を縦に振る。

 どうやら、思い至らなかったところに思い至ったらしい。


 彼女の中で疑問がひとつ解けたことは僥倖だったが、また、何かのトラブルに巻き込まれているらしいことは、明白だった。

 彼女は何かと、他人の気持ちを理解したがる。かと言って、直接その人物に聞くのは危険だ。それは、彼女が身をもって知っている。

 だから、俺に聞いてきたのだろう。


 コーン・スープの表面には、牛乳によって綺麗な白い渦が描かれていた。スプーンでひとまぜすれば、その形はあっという間に崩れてしまう。

 その様子を眺めながら、俺は、ふと思い浮かんだことを言ってみる。


「……そう言えば、いつぞや、お前の家が何処にあるか聞きに来た少年がいたな」


 すると、彼女の顔が、一気に赤くなった。

 「な、な、」と、単語にならない声を発する。


 おれは、苦笑いと共に肩をすくめた。

 どうやら、当たりのようだった。


 昨年の秋頃だったろうか、「鍵を探してくれたお礼に行きたい」と言いに来た小学生に、彼女の家を教えてしまったことがあった。

 近所に住む顔馴染みの子であったし、何より、あまりに鬼気迫る顔だったものだから、思わず零してしまったのだ。

 後で、上官にめちゃくちゃ怒られたことをよく覚えている。その後、何故か懐かれて、時折話すようになったのだが、それは言わないでおく。


「急に、何故そんな話をするんだっ」

「何でも。で、どうした、今度はその小学生に告白でもされたか?」


 茶化すように問えば、彼女は下を向いて唇を噛んだ。

 顔は、少女のように真っ赤だ。


 俺は一度口を閉ざした。それは、彼女が言うか言うまいか悩む兆候だったからだ。

 そして、その中身は大抵、吐き出させてやった方が良いものだった。


 彼女は、ひとつ、ふたつと大きく息を吐く。

 暫くの間、パン屋の奥の工房の喧騒だけが、辺りを支配していた。


 俺は、一口だけ、コーン・スープを飲んだ。すっかり冷めたそれは、これからどんな話がきても対応できるだけの冷静さを、俺に与えた。

 そのはずだった。


 ジジの唇が、ゆっくりと開く。

 テーブルに隠れて見えないが、その下の両拳は、強く握られているに違いなかった。


「……まだ、だ。でも、嫌な予感がする。今まで散々見てきたんだ、流石の私でも気がつく」


 最近、その少年の視線が変わってきたのだと、彼女は語った。


「また調子に乗って優しくすぎたんだろうな、私は。はは、まったくもって成長しない。モテる人間は辛いよ」


 その笑い声は、酷く乾いていた。憂いを帯びた目は、食べかけのベーグル・サンドを見たままだ。


 俺は、思わず唾を飲み込んだ。


 落ち込んだ彼女は、またいっとう可愛らしかった。他の人間との関係に困り、俺に縋る様子は、俺にしか味わえないことだった。モモとしての俺にしか、できないことだった。


 自惚れなのは分かっている。

 自分が彼女にとって本当に「良い奴」でないことも、理解している。だが、彼女が根っからの博愛主義者である以上、この立場が一番幸せなのだということは、信じていたかった。


 だから、少しだけ、欲が出た。


「……桃花」

 俺は、彼女の名前を呼んだ。


 何よりも愛おしい、その名前を呼んだ。


 彼女が顔を上げる。俺の目を見る。

 ――そして、俺は気がついてしまう。


 彼女の目が、確かに、恋に落ちかけていることに。

 その目が、俺を見ているわけでは無いことに。


 彼女は、困惑する俺を置いたまま、縋るように言葉を零した。

「有田。私のモモ。なあ、落ちる穴の深さは、自分で決められるものだ。今の私なら、きっとそれができるだろう。……八歳年上の元社会不適合者、否、今もそうかもしれない、そんな奴のことを、どうして好きになるんだ。……私は、どうして」


 そこから先は、聞こえなかった。聞きたくもなかった。


 俺は、椅子から立ち上がった。


 彼女の頭を無理やり下に向け、ガシガシ撫でる。「うわ、何するんだ有田」という声は無視した。今の俺は、彼女のモモなのだ。

 モモであり、俺なのだ。


 シュシュでまとめていた黒髪をめちゃくちゃにしたまま、俺は台詞を落とす。

 聞き役として、相談相手として、あるいは彼女に惚れた者の一人として、正しい答えを返す。


「ああ、きっとお前なら、できるだろうさ。良いか、ジジ。お前は優し過ぎる。近しい者ほど、お前の優しさに甘えてしまうだろう。件の少年も、きっとそうに違いない。……だが、それでいい。お前の優しさは、人を不幸にもするが、確かに誰かを幸せにするものでもあるのだから」


 そこに俺は惚れたんだよ、という言葉は飲み込んだ。


 彼女の顔は見えない。そのつむじが、僅かに震えているだけだ。


 俺は、自分の発する正論たちの中で、妬みが渦巻いていることに気がついていた。


 彼女には、いつまでも皆を平等に慈しむ者でいてもらわねばならなかった。時に傷つき、俺に相談を持ちかけてくる、そんな少女でいてもらわねばならなかった。

 あの少年のように、自ら彼女に向かって行くには、関係が熟しすぎていた。


「だから、殊今回において、お前がしっかりしていなくてはいけない。お前の優しさは、誰かを幸せにするものでなくてはいけないのだから。そのためには、線引きも必要だろうさ。この穴はここまでの浅さなのだ、と。そして、お前には、それができる」

「……私は、穴の深さを決めることができる」

「そう」


 彼女は、己に信じ込ませるように、もう一度「私には、できる」と呟いた。それは、深い楔となって、彼女の深い部分に打ち込まれたようだった。


 ジジが、顔を上げた。

 俺の手を払いのけるようにして、顔を上げた。

 その視線は、まっすぐに俺を貫いた。

 もうそこに、迷いはなかった。


「うん、分かったよ、有田。私にはできる。だから、そうしようと思う。私の大切な人たちに必要なのは、私じゃない。彼人らの、未来だ」


 俺はその時、確かに錠の落ちる音を聞いた。


 ガチャン、と、大きな音を立て、目の前の女性はどこかに鍵を掛けた。恐らくは喉の奥底、彼女のもっとも柔らかいところに。


 そして、俺はようやく、己の失態に気がつく。

 気がついてしまう。


「ありがとう、ようやく決心がついた。すまなかったね――有田」


 彼女が俺に向ける視線は、既に、相談者たるジジのそれではなかった。


 懇願するような、祈るような、まるで恋する乙女のような――そんな、憂いを帯びた視線では、なかった。


 どこかで、強い風が吹くような音がした。それが、俺の喉から出たものだということに気がつくまでに、数俊を要した。


 彼女の大切な人、の中に。

 俺は、きっちり入っていた、らしかった。


 人は恋に落ちる。

 それは否応なしに、だ。浅い深いはともかくとして、いくつもの穴に、並行して落ちることだってあるだろう。気がつかない内に、別の穴に片足を踏み入れていることだってあるかもしれない。


 例えば、馴染みで年上の男に対し、己でも気がつかない内に、好意を抱いていたって、何ら不思議ではない。


 そして、彼女の言葉によれば。

 その落ちる穴の深さは、自分で決められるものだ。


「――あ」

 声を発せど、それは既に遅い。


 彼女は、もう俺を、「私のモモ」とは呼ばなかった。


 俺は、彼女の瞳の奥に、深い絶望と、それを眠りにつかそうとする強い意志を見た。


 桃花、と、俺は彼女の名前を呼んだ。


 彼女の顔が、くしゃりと笑みを浮かべる。無邪気なそれは、先に起きた彼女の変化を、すっかり覆い隠してしまった。


「なんだ? ああ、ここの会計は私が持とう。今日のお礼だ。実は、来月からバイトをすることにしたんだ。やはり、働かざる者は食うべからず、だからね」

 そうして、彼女はベーグルのかけらを口の中に押し込んだ。


 俺は、すとん、と腰を下ろすしかなかった。


「……いや、元ニートに金を払わせる社会人なんていねえよ」

 そもそも、会計は既に済ませてある。ここはパン屋だ。

 それを指摘すれば、彼女は「あ、そうだった! 恰好よく決めたつもりだったのに!」と手を額に当てた。

 いつもの、やや大げさなリアクションだった。


 俺は視線を下におろして、何度か首を横に振った。

 もう、どうにもならないことなのだ。


 目の前のジジのお喋りは続く。

 気に入った音楽の話、ハマっている言葉の話、これからのこと。

 彼女が喋り好きであることは、何ら変わることがない。その奥で、どんな錠を下ろしていようと、何を隠していようと、それは変わらない。


 それらを聞き流しながら、俺は、俺が何者なのか分からなくなっていることに気がついた。


 コーン・スープは、既に空になっていた。

 白いカップは、まるで、骨に降り積もる雪のように冷たくなっていた。

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