浩行くん
@Tolao
浩行くん
浩行くんに最初に会ったのは一体いつだったろうか。いつのまにか彼は私の日々の一部になっていて、物心つくころには、彼が何者なのかも理解していたように思う。
浩行くんは、私の分身だ。彼はSF小説でいうところのパラレルワールドに住んでいる私自身で、誕生日も両親も生まれた病院も大まかな性格さえ、私とまったく同じである。なんなら好きになるタイプ、お気に入りのミュージシャンや映画まで私たちは同じだった。
たったひとつ、私と浩行くんの違うところ。それが性別だ。
浩行くんとは、夢の中でだけ会える。
私は時折、開けた草原にいる夢を見る。遠くには連なる山々が見えて、風は涼しく、鳥は清々しい声で鳴いている。そこを少し歩くと現れる小高い丘――そこに浩行くんはいる。
浩行くんは私より8cm背が高くて(それでも残念ながら170cmには届かない。私たちの両親は二人とも小柄だ)、顔は私とほとんど同じだけれど、ほんの少し頬骨や顎が出ていた。最近の彼は髪をバズカットにして、スキニージーンズにモヘアのセーターやオーバーサイズのデニムジャケットなんかをよく着ている。スニーカーはナイキのカラフルなやつで、私がいつもレディースがなくて諦めるようなデザインだった。
浩行くんは私に、知りたかったけれど知れなかった世界のことを教えてくれる。そして浩行くんもまったく同じことを言う。麻衣子ちゃんはおれが、見たくても見れない世界を見てるんだねって。
「浩行くんは自分のこと、おれって言うことにしたんだね」
腰を下ろしている芝生の草をむしりながら、私は言った。
「前はかたくなに一人称使わないで話してたときもあったけどね。もういいかなーって。それも麻衣子ちゃんのおかげかな。麻衣子ちゃんは麻衣子ちゃんの世界で「私」って言ってるんだよなって思ったら、なんか納得?折り合い?ついた気がして」
寝転がって空を眺めなから、小柄な体型からは意外なほど低い声で浩行くんは言った。私も女にしては声が低いほうだ。
浩行くんも私も、恋愛対象に性別は関係ない。男の子にも女の子にも惹かれてしまうことに気付いた頃はずいぶん悩んだけれど、浩行くんも同じなんだとわかってなんだか安心したのを覚えている。浩行くんは私にとって、双子のきょうだいのようでも、親友のようでもあった。誰にもわかってもらえない心のもやもやを、彼だけは正確に理解してくれた。
環境や頭の良さもまったく同じな私たちは、同じ学校に通い、同じ会社に就職し、だいたい同じ人たちに出会ってきた。少なくとも、人生において重要と言えるような人たちは同じだ。そして私たちはやっぱり、まったく同じ人を好きになることもあった。それでも、性別が違うだけで恋の結果はまったく変わってくる。
浩行くんも私も子供の頃から運動神経はいまいちで、本を読んだり絵を描いたりするのが好きなタイプだったから、中高時代の恋のチャンスは多いほうじゃなかった。けれど高校二年生のとき、委員会がきっかけで仲良くなった隣のクラスの女の子に2人揃って恋をした。複雑な気分でもありつつ、丘の上で浩行くんに会うたびに、彼女の好きなところ、ドキドキした仕草、そんなことをおしゃべりし合うのも楽しみだった。
けれど高校卒業のタイミングで告白したとき、すべては変わってしまった。そういう意味で好きと伝えたとき、彼女はしばらく黙ってから困ったような声で「ありがとう」と言い、そしてまた黙ってしまった。「大学に行っても遊ぼう」とは言ってくれたけれど、なんだか怖くなってしまって、それきり連絡はできなかった。
そのすぐ後にあの草原の夢を見たとき、暗い顔で報告する私に、浩行くんはひどく申し訳なさそうな、苦いものを奥歯のところで噛み締めているような顔をして、「こっちは付き合えることになっちゃった、ごめん」と言った。ごめんなんておかしいのに、よかったって思っているのに、私はやっぱり悔しくて、浩行くんのことを少し嫌いになってしまった。男だっていうだけで簡単に選ばれるのが羨ましくて、妬ましかった。
それからしばらく、あの丘には行かなかった。草原の夢を見ても、目が覚めるまでその場で時間を潰したりした。浩行くんが幸せそうにしているのを見たら心が潰れてしまうと思った。
半年くらいしたある日、また草原の夢を見た私はなんだか、無性に浩行くんに会いたくなった。すぐに会わなくちゃいけないような気がした。丘まで走ると、浩行くんはうずくまって泣いていて、私に気がつくとぶっさいくに泣きはらした顔で「別れちゃった」と言った。「やっぱりうまく行かなかったよ」って。「常識」という言葉をよく使う、ものすごく頑固な彼女とそうなることを、私はたぶん心のどこかで知っていた。
「浩行くん、ありがとう」
「なんでお礼言うの。怒っていいんだよ。なんか抜けがけしたみたいなもんなんだし……」
「……確かにずるいなって最初は思ってたけど、浩行くんが付き合ってくれたおかげでわかったから、諦めがついた。私が女だからだめだったわけじゃなくて、いやだめだったのはそうだからなんだけど、でも結局そこがクリアできてても、きっといつかはだめになってたって」
私は浩行くんの横に膝をつくと、彼の骨張った肩甲骨のあたりをさすった。
「まぁなんだ。運命の人じゃなかったってことだよ」
「でたよ少女漫画脳」
ダミ声の泣き笑いで、浩行くんは言った。
「浩行くんもでしょ」
まったく逆のことが起こったのは、それから5年後のことだ。学生の間は私も浩行くんもそれぞれそれなりに出会いがあって、それは同じ相手のこともあったし、お互いの世界では全く登場しない人物のこともあったけれど、不思議と私たちのどちらも真剣に将来を考えるような相手とは巡り会わなかった。
大学を卒業してイベント会社に就職した私は、同じ部署の男の先輩と付き合うことになった。先輩はヘビースモーカーで、バイオレンス映画と南インドカレーが好きで、セックスがびっくりするくらい下手くそだった。浩行くんは言わなかったけど、まったく同じ就職先を選んだ彼も、先輩のことを好きだったと思う。けれど先輩はストレートだったから、勝ち目のない賭けはしないんだろうな、くらいに私は思っていた。
最初のうちは浩行くんに先輩の話をすることもあったけれど、彼が微妙な顔をしているような気がして、なんとなく先輩の話はあまりしなくなっていった。そのうちに、先輩とはあちらの浮気が原因で別れてしまった。
しばらくして、会社の飲み会の席でカミングアウトしている芸能人の話になったとき、先輩はちょっと苦笑いのようにニヤニヤして「いやー、おれは正直だめだわ、あーゆうの。想像しちゃうと気持ち悪くて。女の子同士ならいいけどさぁ」と言った。
がんっと頭を殴られた気がした。それから自分の愚かさに泣きたくなった。浩行くんはもしかしたら先輩に、こういう言葉をぶつけられたことがあったんじゃないだろうか。先輩が知りもしないところで傷ついて、失望して、今の私みたいに自分の見る目のなさに愕然としたんじゃないだろうか。それなのに浮かれて、今度は私が勝ったなんて心のどこかで思っていた私は、なんという大馬鹿野郎なんだろう。
その日の夜は、どうか草原の夢を見ますようにと願いながら眠った。完全に自分の罪悪感を軽くするためだけだとわかっていても、浩行くんに会いたかった。
かくして願いは届けられ、丘まで走って行った私は浩行くんに、いかに先輩のキスが下手くそだったかを話した。浩行くんは笑っていた。それから今日あったことを話してみると、やっぱり浩行くんは先輩に同じようなことを言われていた。
「出先から直帰のとき、先輩と2人で飲みに行くってなってさ。路地裏の狭くていい感じの店とか探してるときに、手をつないでる男同士のカップルがいて。その時は先輩ちらっと見ただけだったんだけど、店に入ったあと「さっきのぶっちゃけうわって思わなかった?」って。もーおれ、頭真っ白になっちゃって。うまそうな店だったのに、何食ったか全然覚えてないや」
浩行くんは笑いながら話していたけど、私は涙が溜まっていくのを抑えられなかった。どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。同じマイノリティとは言っても、私と浩行くんでは周りからの見られ方が全然ちがう。女が女を好きなのと、男が男を好きなのを、どういうわけだか世間は同じように見てくれない。こうやって目に見えない石を投げつけられて、人知れず小さな傷を増やしているかもしれない浩行くんを思ったら、悲しくて悔しくてしょうがなかった。だって彼は私自身なのだ。違うのは「性別」という、スタート地点では選べない体のつくりだけなのに。
私は、最近少し痩せたように思える浩行くんに抱きついた。彼の首筋からはサンダルウッドとムスクの匂いがして、あぁ、私が男だったら絶対にこの香水を選ぶだろうな、と思った。
その頃から、浩行くんと私の人生は前よりもずれるようになってきた。新卒で入社してから3年後、会社が経営難で分社化されるとなった時、私は配給会社での事務に転職し、浩行くんは大学時代の先輩に誘われてライブ演奏のあるバーで働くことにした。そういう大きな選択が違うことは初めてだった。
それからの私の生活は地味なものだった。たまに友達と食事に行くくらいで、若いときのように遊びにいって恋の相手と知り合うようなこともなくなった。一方の浩行くんはよく新宿二丁目や渋谷のクラブで飲むようになって、結構な人数とそういう関係を持っていた。基本的にはセーフセックスを徹底しているようだったけど、一度ものすごく酔っ払った勢いでやらかして、新宿の雑居ビルに入っている怪しげな診療所で検査を受けたと聞いたときには、さすがに私も怒った。
その時ふと、私たちのどちらかが死んだらどうなるんだろう、と頭をよぎった。お互いに何か影響はあるんだろうか。それとも、それも性別が違ったことによる運命だったと、もう片方の人生は何事もなく続いていくんだろうか。
かつて同じような世界を見ていたときは、自分の気持ちに誰よりも共感してくれるのが嬉しかったけれど、今は自分とまったく違う生活を送っている浩行くんの日々の話を聞くのが楽しかった。環境は違っても、やはり彼の頭の中は私によく似ていたし、自分が選べなかった人生を追体験している気分になれた。浩行くんも私の他愛のない日常の話を聞いては、いいなぁと笑みをこぼした。
そうして私たちは、32歳になった。
32歳の誕生日、私は友人に紹介された高校教師の男性にプロポーズされた。雑誌に載っていそうなフレンチレストランで紺色の箱を差した彼はひたすら、テーブルの上に視線を向けていた。小さな声で「じゃ、これ」とだけ言って差し出されたそれは、私の薬指にぴったりのはずだった。当たり前だ、つい数週間前に一緒に見に行ったんだもの。受け取らないなんて今さらできず箱に手を伸ばすと、黒のパンツスーツを着た店の人が貼り付けたような笑顔で花束を持ってきて「おめでとうございます」と言った。だから私は、それをおめでたいことなんだと思うことにした。
その週末に報告したときの両親も、しわの増えた目尻を細くして「おめでとう」と言った。それから「安心した」とも。だから私も同じように目尻を細めて、指輪のはまった手を差し出して見せた。
その日の夜、私は女性を恋愛対象とする「戸籍が女性の」人限定のマッチングアプリに登録した。ユーザーが少ないからなのか、インターフェースの出来は悪くて、写真も全然見れなくて、それでも好みの女の人たちに次々とメッセージを送った。こんにちは。とりあえずお話してみたいなって。この映画、私も好きです。お酒好きですか。今度飲みにいかない?
そうして知り合った女の子は、ユウキちゃんといった。女の子なのにユウキってめずらしいねと言うと、三つ年下の彼女はちょっと尖った八重歯をのぞかせて、「生まれる前は男の子って言われてたのに、出てきてみたら女の子だったんだって。他の名前考えてなかったから、そのまま付けたらしいよ」と笑った。営業職の彼女は車の運転がうまくて、スカートはほとんど履かなくて、でもまつげにはいつも綺麗にマスカラが塗ってあったし、髪からはライラックのいい匂いがする女の子だった。仕事終わりに食事に行ったり、婚約者との約束のない休日に彼女の車でドライブに行くたびに私は、キスもセックスもしてないんだから浮気じゃないと自分に言い聞かせた。薬指の指輪を必ず外していくことへの言い訳はうまく見つけられなかった。
「結婚なんてやめたらいいじゃん。好きなんでしょ?その子のこと」
目を閉じて草の匂いのする風を感じながら、浩行くんは言った。この丘では、季節はいつだって初夏の一番過ごしやすいときのままだ。人生の休息地点。最近の私が完全に安心できるのは、ここに来ている時だけな気がした。
「今更やめられないよ。もう式場も決めちゃったし。お母さんも着物新調するって張り切ってるんだから」
目を閉じたままの浩行くんの眉間に微かにしわがよったのを、私は見逃さなかった。バーで働くことを決めたときに、「男のくせにそんなちゃらちゃらした格好で、フワフワした仕事で、将来どうするつもりなんだ」と公務員の父に罵倒されてから、浩行くんは一度も実家に帰っていないようだった。だから彼が、私の世界で私と両親が仲良くしていることに対してどこか羨望と諦念と、そして奇妙な安心の気持ちを抱いているのも知っていた。
「それに、本当にユウキちゃんのことが好きなのかも正直わかんない。もう結婚するって思ってるから、最後のときめき?みたいなのにはまっちゃてるだけなのかも」
「なんにせよ、おれは羨ましいけどね。少しでも特別って思える相手がいるのは」
目を開けてこちらを見た浩行くんはどこか儚げに見えた。また少し頬骨がこけた気がする。今の私たちはあんまり似て見えないかもしれないな、とぼんやり思った。
「浩行くんはいないの?いいなって思うひと」
少し困ったような顔で笑いながら、彼は「もうわかんないな、なんか」と応えた。
「みんな魅力的だし好きだとも思うけど、誰のことも特別には好きじゃない。ただ、どうしようもなくひとりだなーって気が狂いそうになるときがあって、それを紛らわすために誰かと一緒にいたくなる。余計に寂しくなるときもあるけど、そうする以外にどうしたらいいのかもわかんない。騙しだまし、なんとか今日を乗り越えてるって感じ」
その感覚は、私にもよく理解できた。ただ、家族や友達に囲まれて、世間的に「正しい」と言われるような環境に身を置くことで外堀を埋めている私のほうが、日々の生活の中ではそういう孤独をうまく見て見ぬふりできている気はしていた。
黙ってしまった私に浩行君はくしゃっと笑いかけて、
「だーいじょうぶだよ。せっかくだから楽しみなって、ときめき。ほら、そろそろ起きないと遅刻するんじゃない?」と言った。夜に働いている彼とは生活サイクルもずれてしまっていたけれど、私はいつも彼と話せる時間帯に眠るようにしていた。
「またすぐ話そうね」
ひらひらと片手を振る姿に後ろ髪をひかれながら、私は丘を後にした。
痛い。お腹の内側を金属のヘラで削り取られてるみたいだ。内臓は氷になったみたいに冷えているのに、あまりの痛みに額や脇には脂汗が浮かんできている。
せっかくの休日が生理の二日目にぶつかってしまった私は、ベッドから起き上がることもできずにもんどりうっていた。でも、会社のない日でよかったのかもしれない。生理休暇は認められているけど、実際に使っている人なんて見たことがなかった。這いずるようにトイレに行って、体の中から流れ出てくる液体に意識を集中させる。なるべくさっさと出ていって、と思いながら。ナプキンを付け替えてから、壁伝いにキッチンに行ってロキソニンの錠剤を水道水と一緒に流し込んだ。何か食べてからじゃないと胃が荒れるかもしれないけど、すぐに食べられる何かを探す気力すらなかった。
ふらふらとベッドに戻って、自分を守るみたいに体を丸めながら、一昨日のことを考えた。浩行くんの言う「どうしようもなくひとり」な気持ちに急激に襲われた私は、思わずユウキちゃんに電話をかけた。すぐに家に来てくれた彼女とソファの上で一つのブランケットを分け合って、ふいに降ってきた唇を受け止めたとき、あぁ、ついに浮気になっちゃったと心のどこかで焦っていた。彼女のキスはさっぱりとしているのにどこか甘くて、唾液の匂いが気になる婚約者の口とは全然ちがっていた。
嬉しいのになぜか絶望的な気持ちにもなって、次の日も仕事だからと帰っていく彼女の背中を見送りながら少しほっとしていた。そういう自分もなんだかひどくずるくて汚い気がして嫌だった。それからずっと、自分に対する嫌悪感が消えてくれない。
やっと痛み止めが効いてきて、体の中心がすーっとほどかれたようになる。経験したことはないけれど、麻薬ってこういう感じなんじゃないだろうか。ドクドクと脈打つ血液の流れを感じながら、私は眠りについた。
丘に着いてすぐ、異変に気がついた。芝生の上にうずくまった浩行くんは肩を大きく上下させながら、早すぎるスピードで息をしていた。
「浩行くん、どうしたの?具合悪い?」
駆け寄っていって顔を見ると、彼の頬は涙でびしょびしょだった。喉の奥から引きつれたような音を出しながら、浩行くんは真っ赤になった目で私を見た。
「大丈夫だから、ゆーっくり10秒かぞえながらちょっとずつ息を吐いて。いーち、にー…」
背中をさすりながらそう促し続けると、呼吸が落ち着いてくる。ほっとしながら私は、夢の中でも過呼吸になるんだな、と思った。
「……まいこちゃん」
うずくまったままの浩行くんの声はガラガラだった。
「おれ、もうだめだ。ごめん。もう耐えられない。勝手だけど、おれが死んでもきっと麻衣子ちゃんは大丈夫だから…」
体育座りになった彼の隣にぴったりと体を寄せて、私はその骨張った肩に頭を乗せた。
「……浩行くん死んじゃうの?」
サンダルウッドと汗の匂い。ダスティピンクのTシャツ。私は自分がときどき、浩行くんに対して恋人に向けるような感情を抱くことに気がついていた。仮にも自分自身にこんな風になるなんて、私ってナルシストなんだろうか。
「だめなんだ。誰と仲良くなっても結局は埋められない距離があって、でもそれを飛び越えてくれる人がこの世に1人くらいはいるはずだって信じてきたけど……この孤独が終わるのが明日なのか、1年後なのか10年後なのか、もしかしたら一生終わらないかもしれないって思うと、どうしようもなく怖くなる。寂しくないのは麻衣子ちゃんとここにいれる時だけ。だからもうこのまま、夢の中でだけ生きれたらいいのに、目なんか覚めなかったらいいのにって……丘から帰らないでいようとしてみたこともあるんだよ。でも、だめなんだ。絶対にそのうち目が覚めちゃう」
ぽつぽつと小さな声で話す浩行くんの振動が、肩越しに伝わってくる。
「理想の、完璧な人生じゃなきゃいらないって突っ張ってきて、おれ、心のどっかでは麻衣子ちゃんのこと馬鹿にしてた。安心とか安定とか選ぶとこはやっぱり女なんだなって思ってた。それなのに、おれ今、麻衣子ちゃんのことが羨ましくてしょうがない。せめて周りに肯定される人生を送ってたら、間違いじゃないって、自分を慰められたんじゃないかって。こんなに、息もうまく吸えないほど苦しくなかったんじゃないかって」
言葉の最後は嗚咽に消えてしまった。浩行くんが私の前でよく泣くのは、起きているときには簡単に涙を流せないからなのかもしれない。
「私だって浩行くんに対して、優越感も、羨ましい気持ちもいっぱいあるよ。浩行くんは男だからそういう生き方ができるんだーって、ムカついたこともある。私は、なんだろうな、やっぱり娘だからなのかな。お母さんを悲しませるのがすっごく怖い。運命の恋を待ったり、やりたい仕事を貫いたりして、世間から変な目で見られるのもすごく嫌。バイだってことも仲良い友達にだって全然言えてないし、同類の友達もいない。私はたぶん不幸ではないけど、その代わり100%幸せだって思える日は一日もなく人生終わるのかもって思うと、目の前がまっくらになる。本当の幸せを諦めないで生きていられる浩行くんのことが、めちゃくちゃ羨ましいし、たまに、ちょっとうざい」
鼻を啜りながら、浩行くんは私の腕にぎゅっと掴まってきた。あぁ、なんて悲しくていとおしい。私たちは今、この世界にふたりぼっちだ。
「……入れ替わっちゃおうか、私たち。双子が遊びでするみたいに」
小さく息を呑む音がして隣を見ると、彼は充血した目をまんまるにしてこちらを見つめていた。
「……そんなことできるのかな?」
「わかんないけど、今ここでならできる気がする。たぶん私、やり方わかると思う。だって私たち、根っこ?魂?は同じなんだもん。体を交換するだけだよ」
「……ずるくない?」
「ずるいね、ものすごく。他の人たちはそんなことできないんだもん。でも」
私は自分のよりひとまわり大きい彼の手を握りしめた。
「死んじゃうよりはいい」
こんなことしても意味なんてないのかもしれない。体を交換したところで、私たちがそれぞれ抱えるものはきっと変わらない。それでも私は、浩行くんをなんとか引き止めたかった。
「……わかった。その代わり、一個だけルールを決めよう。入れ替わったら、もうこの丘では会わない。会ってしょっちゅう入れ替われるんじゃ、なんか、さすがにフェアじゃない気がする。次に会うのは、どうしても元に戻りたいって思った時だけ。その場合も、もう片方がそれを望んでなかったら受け入れる。それでいい?」
私はしっかりと頷いて、草の上から立ち上がった。続いて立ち上がった浩行くんと向かい合って両手を繋いでから、おでことおでこをくっつけ合う。8cm分しゃがんでくれた彼の前髪がはらりと落ちて、私のまつげに触れた。
「目を閉じて、自分の中身が私の方に移動するところを想像してみて。そうしたら、きっとできる」
目も合わせられないくらいの至近距離で、お互いを最後に一度見てから、私たちは目を閉じた。
少しづつ、すこしづつ。触れ合ったところから、浩行くんが私の中へ流れ込んでくる。同じように私の一部も体から出て、彼の中へと入っていく。次第にそれは混ざり合って、ひとつの大きな流れになる。赤と青の絵の具が紫になるように。
それらが完全に溶け合った瞬間、あぁ、私は、私たちは完璧だったのだと気づく。欲しいものは、必要なものは最初から自分たちの中にあったんだ。その完全な調和の中にしばらく浸っていると、だんだんとまた色が分離して、それぞれの肉体に戻っていく。私は彼の中に、彼は私の中に。
「ひとつ」だった私たちがもう一度「それぞれ」になっていく時、遠のいていく意識の中で、私は小さく声に出した。
「バイバイ、浩行くん」
目が覚めて最初に目に飛び込んできたのは、天井に貼られたポスターだった。007の『スペクター』。そういえば、この映画はバイにとっての天国だって盛り上がったことあったな。ベッドの中で身をよじると、すぐ横にある大きな背中が飛び込んできた。短髪の頭に、筋肉のついた腕。浩行くんったら……と思いつつ、彼は昨夜こんな屈強そうな男の人を組み敷いていたんだろうかなんて想像して、どきどきする。これからは私もそんなことができるんだろうか。
そっとベッドから抜け出すと、ちょうど壁にかかっていた鏡の中の自分と目が合った。浩行くんは全裸で寝たらしい。新しい「入れ物」の全容をいきなり見てしまってどきまぎしたけれど、せっかくなので点検してみる。平らな胸。少し浮き出た肋骨に、なんだかちょっとなさけない感じでぶらさがっているあれ。ふぅーん、こんな感じなんだ。結構いいじゃん。
まじまじと自分に見入っていると、後ろでもぞもぞと動く音がして、あわてて床に落ちていたボクサーパンツを穿いた。この人と浩行くんはどれくらいの関係なんだろう。うまく切り抜けられるだろうか。
「おはよう……ごめんねー泊めてもらっちゃって。昨日おれらめっちゃ酔ってたよね」
そう言いながら身を起こした彼を見て、手に入れたばかりの心臓が口から飛び出るかと思った。肩幅の広いスポーツマン体型の彼が照れたように笑うと、とても見覚えのある八重歯がのぞいた。
「ぶっちゃけ昨日のことあんまり覚えてないんだけど……ごめん、名前なにくんだっけ?おれはユウキ」
よかった。こっちでもあっちでも、きっと今日がはじまりの日だ。
「浩行」
浩行くん @Tolao
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