七月の雪は
香澄 翔
Story
「ね。この白い雪に苺のシロップたくさんかけて食べたら美味しそうだと思わない」
夜のとばりを彩る闇の中を当たり前のように白が降り積もり、銀色の光はこうこうと辺りへと反射する。唯は小さく積もった雪の上で跳ねて、くるくると何度も回ってみせる。
どうしてこんな風に微笑む事が出来るのだろう。俺はただぎゅっと手を握りしめる事しか出来ないというのに。
拓哉は何も答えずに、子供のようにはしゃぐ唯をじっと見つめていた。いや唯はまだ十四歳だ。子供には違いない。
「おかしいよ。お兄ちゃん」
唯はくすっと軽く微笑を漏らしてぴょんと飛び降りた。真白な雪の上に、唯の足跡が一つ二つ。でも響いたはずの音は、全て降り出した白が吸い込んで静寂を作る。
「寒いだろ。そろそろ帰ろう。無茶すんなよ」
「だって」
小悪魔のように口元を揺らして。そのままととっと駆けだしていく。茶色のストールが、ぱたと風の含みふわりと膨らんでささやく。
「雪をみるのは、これが最後かもしれないじゃない」
にこやかに笑って言う唯を、拓哉は今もじっと眺めている事しか出来なかった。
それは一月の事。あと半年もてば良いと言われた、最後の冬の事。
「私、雪好きだもん。このままずーっと冬が終わらず、雪がつもっていたらいいのに」
唯の言葉は、どこか遠い。
『むかしむかし。あるところに、いつも泣いてばかりいる王子様がおりました。
その王子様には不思議な力があって、泣きだすと悲しみが国中を駆け抜けて皆まで悲しくなってしまうのです。だからこの国はいつも悲しい事しかありませんでした。だから人は王子様の事を悲しみの王子と呼んでいました。
そんな王国の季節は当然のようにいつも悲しい冬で、年中雪がたくさん積もっていました。
だけどある日。その王子様の前に一人の女の子がやってきて言いました。
「王子様。どうしていつもそんなに泣いているの」
女の子の言葉に、王子様は生まれて初めて顔を上げました。』
「お兄ちゃん。喉が渇いたよ、ジュースのみたいなぁ」
ベットの上で、はぁ、と小さく息を吐き出す。
苦しそうな息。でもにこと微笑む笑顔はいつも通りのままで、崩れないその瞳に拓哉はいつも救われる。
逆だろ、と心の内で思う。
病人に励まされてどうする。しかも妹に。拓哉は内心で苦い笑みを浮かべていた。
でも拓哉は知っていた。唯がもうどうしても助からない事。笑っている唯が、あとわずかしか生きられない事。
月日は無情に流れ、唯の好きな冬も終わり、春も過ぎて、夏が始まる。
七月の熱のせいという訳でもないだろうが、唯の体温も三八度を下回る事は無くなった。
辛くないはずがない。もう殆ど食事も喉を通らないのだから。唯一口に出来るのがジュースの類だけ。固形物を消化する力がないのだ。栄養はもう殆ど点滴だけで取っていた。
でも唯の笑顔は、いつもと変わらない。
どうして、こんなに微笑んでいられるのだろう。
俺は唯がいなくなると思うだけで、こんなにも胸がひき裂かれるというのに。
拓哉は自分一人、ただ想いを巡らせる。
「お兄ちゃんってば。きいてる? ジュース、ジュース飲みたいよ」
「あ、ああ。悪い。買ってくるよ」
唯の声に、拓哉はふと現実に戻る。
いけない。俺が弱気になってどうする。口の中で呟いて、唯には気が付かれないように手を握りしめる。
「もう。お兄ちゃんって、いつもぼーっとしてるよね。あ、私、あのね。三崎亭のフレッシュオレンジがいいなぁ。ほら近所のデパートに入ってるあそこだよ。いつもお兄ちゃんと一緒に買い物してた雑貨屋さんの隣のジュース屋さん」
にこやかに語りかける唯に拓哉は僅かに苦笑を漏らす。
こういう時、いつも唯は素直にわがままだ。でも可愛らしいわがままでもある。これくらいの事なら、何でも聞いてやりたいと思う。兄らしい事をしてあげられるのは、こんな時だけだから。情けなく思う。
近くのデパートまでは歩いても十分足らずしかない。ついでに軽く買い物して帰ってきたとしても、三十分もあれば戻ってこられるだろう。
「わかったよ、いってくる。ちゃんと大人しく待ってろよ」
拓哉は出来る限りの笑顔を作って、ぽんとベットに横になったままの唯の頭に手をおいた。
笑っていようと思う。唯が笑っているから、出来るだけ。最後まで俺も笑っていたい。
笑っていれば、このまま唯も笑っていられる。そう信じたい。信じてる。
拓哉は軽く頷いて、早足で歩き出す。あまり唯を待たせている訳にはいかない。
そう思いしばらく歩いて、エレベータの前ではたと立ち止まる。ふと思い出していた、そういえば財布を忘れたなと。病院で使うテレビカードを買った後に、そのまま唯のベットの上に置いたままだった。
慌てて戻る。
その、瞬間だった。
「はぁ……はぁ」
荒い息が聞こえてくる。拓哉がいる時には殆ど漏らした事がないような、荒い息。
「痛い、よ。いつまでこの痛いのは続くのかな」
唯の言葉。そう思えない、聞いた事のない弱音をはくような言葉。
「私、もう生きられないのかな。でも死んじゃったらもう痛くないなら、それもいいな」
拓哉はドアの陰で入るべきか入らないでいるべきか、強く迷った。やっと気が付いていた。ずっと気が付かなかった。唯が自分の為に笑っていたのだと。
「でも、そしたら、お兄ちゃんが、また泣いちゃうよね。私、がんばらないと」
弱虫で、いつも泣いてばかりいて、唯はそんな俺をいつも馬鹿にしてたっけ。ふと拓哉は昔の事を思い出していた。
「お兄ちゃん。だめだよ。泣いてばかりいたら、悲しみの王子様になっちゃうよ」
唯がいつか拓哉にいった台詞。
唯が自分で作った絵本。唯らしい、笑顔にあふれる話の中の登場人物。たぶんモデルは俺だったんだろうな、と今になって拓哉は思う。
「でもね。大丈夫、笑顔の妖精がやってきて泣き虫悪魔を退治してくれるから」
あれは唯が七歳くらいの頃だっただろうか。拓哉はまだ十歳で、みんなから泣き虫拓哉って呼ばれていて。そんな拓哉を見て、この話を思いついたのは間違いないだろう。
もちろん拓哉も今はもう泣きだす事もなくなっていた。あれから月日が流れたって証拠だな、とも思う。もうずいぶん昔の話だ。当たり前といえば当たり前だろう。
でも今は、唯の傍にいると泣きたくなる。
唯はもういなくなるんだと思うだけで、昔の泣き虫が戻ってきそうになる。もしかすると唯の前でもずっと悲しい顔をしていたのかもしれない。だから唯は笑っていたのだと、いまさらながら思い知っていた。
なんでだよ。なんで。
俺の為に、笑うんだよ。
拓哉は小さく唇を噛み締める。そして。
「ゆいー」
扉の向こうから声をかけて、それから部屋の中に入っていく。白いベッドの上で横になっていた唯が、一瞬の内に顔を戻す。いつも唯はこうしていたのだろう。拓哉がいる前では、ずっと無理して笑っていた。
「わり、財布。わすれちったよ」
ひょこんと顔を出して、そしてぽりぽりと頭をかいて笑顔で答える。
「あ、お兄ちゃん。相変わらず、そそっかしいね。お兄ちゃんは」
唯もふわと笑う。
二人で笑っていれば。きっと泣き虫悪魔なんてどこかにいってしまうから。笑顔の王子様になれるから。
だから笑っていよう。拓哉は、自分の中だけで、だけどはっきりと決めていた。
最後まで、笑っていようと。
あと、どれだけ唯は生きられるのか、わからなかったけど。
『みた事もない綺麗な顔の少女に王子様は泣くのも忘れて思わず見とれていました。王子様が泣きやんだのは、それが初めての事だったかもしれません。
「どうしてって、わからないよ。僕は泣く以外の顔を知らないから泣いているんだ」
王子様はゆっくりと答えて、それからまたじわと涙が浮かび始めました。悲しい顔しか知らないなんて、とても悲しい事だと思ってよけいに悲しくなったのです。
「じゃあ。笑顔も知らないの、王子様」
「知らないよ。僕はそんなの見た事もない」
そうです。王子様は生まれた時から泣いてばかりいて、王子様が泣くとみんなが悲しくなるので、王子様はみんなが泣いている顔しか見た事がなかったのです。
「笑顔を知らないなんて、ダメだよ」
女の子はにっこりと笑顔を浮かべました。すると王子様も初めてみる表情に、ついつられて笑っていました。
そのとたん、とつぜん王子様の中から真っ黒な悪魔が飛び出したのです。
「この世界をすべて悲しくするのが俺様の役目。その邪魔をするお前は何者だ」
悪魔は姿を現して言いました。そうです。王子様が泣いてばかりいたのは、この泣き虫悪魔がとりついていたからなのです。
しかし王子様が生まれて初めて笑ったので、悪魔は耐えられなくなって姿を現したのです。
「私は笑顔の妖精だよ。泣き虫悪魔なんか退治しちゃうからね」
少女は笑顔のままで言いました。』
「お兄ちゃん。痛いよ。痛い、痛いよ」
唯が苦しそうに声を漏らす。どれだけの痛みがあるのか拓哉にはわからない。しかしもう唯はもがくだけの力も残っていない。
もう微笑むだけの余裕すら無くなったのだろう。唯の笑顔をもうずっと見ていない。苦しいだけの命。助からないとわかっていて、痛みに耐えるだけの命。それに何か意味があるのだろうか、拓哉はいつも思う。
それでも唯に生きていて欲しいと思う。それは自分の傲慢なんだろうか、苦しいだけなら楽にしてやった方がいいのだろうか。いつも答えの出ない問いを繰り返す。
「まってろ。いま先生を呼んでやる」
ベットの脇の緊急ブザーをおすと、『どうしました?』と看護婦さんの声が響く。
「唯が苦しんでいるんですっ。痛いって」
『わかりました。すぐいきます』
スピーカーごしの声は、どこか遠くて。ばたばたと慌てて書けてくる看護婦さんや先生の足音も拓哉の耳には入ってこなかった。
応急処置で鎮痛剤と安定剤を注射しているのが見える。いつも通りの慣れきった行為。看護婦さんも先生も冷静なまま、てきぱきと治療を施していく。安心出来る反面、だけどどこか作業のように思えて拓哉はつい顔を背けてしまう。
苦しんでいるのは自分ではなく、唯のはずなのに。拓哉は眉を寄せて顔をしかめる。助けを求める唯に何もする事が出来ない自分に。
唯は治療が済んでもしばらくの間は苦しそうにしていたが、やがて薬が効いてきたのか、そのまま唯は眠りへと誘われていた。
ふぅ、と溜息をつく。
起きている時間はもう始終苦しんでいるだけ。確かに衰弱してて、もう腕先も折れそうなほど細くて。点滴のハリですら痛々しく見える。唯はもう笑わない。
「拓哉くん、ちょっといいかい」
ふと先生の呼び止める声。
ついにきたか。拓哉はどこか冷静にその言葉をきいていた。
この時、覚悟は決まっていた。
『悪魔はにやりと笑って言いました。
「やれるものならやってみろ。俺様の悲しみの力はすごく強いぞ」
「そういっていられるのもいまのうちよ。ほらっ」
笑顔の妖精が取り出したのは、たくさんのおもちゃやお菓子。子供が大好きで思わず笑ってしまう物達ばかりです。
「ぐわぁ」
悪魔はおもちゃやお菓子が苦手でした。楽しくなるようなものは大嫌いなのです。
「うう、苦しい。だが、これくらいでは俺様はやられないぞ」
悪魔は苦しみながらも、しかしまだ平気です。そして悲しみの力をまた振るおうとしました。笑顔の妖精は大ピンチです。
だけどその時、王子様は足元につもった雪を悪魔に投げつけました。
「子供は雪が大好きなんだ。雪合戦だぞっ」
王子様は確かに笑顔で大きく告げました。
「く、くるしい。うわー」
悪魔は大きく叫びました。』
「痛い。痛いよ、お兄ちゃん。お兄ちゃん。痛いよ」
唯の声。だけどその言葉を聞く兄はいまここにいない。ベッドの上、隣に今日は母の姿があった。いつもは仕事もあり、望んでもなかなかそばにいられない。でも今日だけは違う。ずっとそばについていた。
「痛いよ。苦しい。お兄ちゃん」
「唯。しっかりして。拓哉なら、もうすぐ戻ってくるから」
母親の声が響く。拓哉はいまここにいない。ずっと唯のそばにいた拓哉はここにいない。
「お母さん。お母さん。痛いよ、苦しいよ」
唯の声は張り裂けそうなほどなのに、微かにしか伝わらない。もう喉を振るわすだけの力もなかった。おそらくは今日が峠だと、あの時医師は拓哉へと告げた通り。まるでそれが引き金になったかのように、唯の容態は目に見えて悪化していた。
「しっかりして。拓哉、もうすぐ戻ってくるから。もうちょっとだから、しっかりして」
必死で呼びかける母親の声。
「お母さん、痛いよ。私、もう楽になりたい。もう、やだよ」
「もうちょっと、がんばってちょうだい。もうちょっとだけ」
母親の声はだけどもう唯には届いていない。
「もうやだ。もうだめだよ。唯、もうがんばれない。楽になりたいよ」
痛み止めも殆ど効果がなかった。唯は痛い、痛いだけを繰り返して。もう笑えなかった。
医師が母親にそっと視線を送る。痛み止め――モルヒネを投与するかどうか訊ねているのだろう。痛みは確かになくなるに違いない、しかしそれは恐らくもう二度と目を覚ます事の無い眠りへとつながっている。
母が首を振るう。あと少しだけ、と。それが唯にとって苦しみを増す事になるのはわかっていたけれど。
「唯、もうがんばれない。がんぱりたくない。痛いよ、お母さん……いたい……いた」
少しずつ。唯の声が小さくなっていく。モルヒネを打つまでもなく、唯の意志はもう消えかかっていた。
「だめ。唯、もう少し待って。いかないで、唯」
「……あ……。唯、なんだか……痛いの、平気になってきたよ」
唯の声は少しずつ小さくなっていく。灯火が消える瞬間に燃えるように、一瞬、唯の声がはっきりと聞こえた。
「唯!」
その瞬間、ばんっと大きな音を立てて扉が開く。
「唯っ唯っ」
その声は強く。そしてまぶたを閉じていた妹の姿をみつめて、高く伝う。
「ほら、もってきたから。唯の好きな雪をもってきたから。シロップ、かけて食べるんだろ。なぁ、唯っ。なんで……なんで、目を閉じてるんだよ。唯。目を覚ませよっ、唯」
白い雪をクーラーから出して、唯の目の前にふわと取り出す。遠くから運んできた雪。まだ何とか残っている山の向こうから。
「唯っ」
大きく呼んだその声が届いたのか、唯がふと瞼を開けた。
「唯、よかった。ほら、雪だぞ。お前の好きな雪だぞ」
「……うん。美味しそう、だね」
唯は、ふと笑う。
そして再び瞼を閉じた。
「唯っ」
その呼び声は届かず。ただ脇につまれた七月の雪のように、静かに静かにとけて。あっというまに消えた。
それでも、唯は笑って。
笑っていた。
『笑顔の妖精と王子様の二人は見事悪魔を追い払い、笑顔の妖精は言いました。
「もう、これで泣かないでいいよ。王子様はこれから泣き虫王子様じゃなくて、笑顔の王子様だね」
そう王子様の心は世界中に広がるのです。だから、王子様が笑っていれば国中のみんなが笑顔でいられるのです。
王子様はだからにっこりと笑いました。みんなが嬉しい気持ちになりました。
そして積もった雪は国中のみんなで全てかき氷にして、苺のシロップをかけて食べたので、あっという間に春になりました。
これからこの国は笑顔の国になったのです。それからというもの、ずっとずっとずっと永遠に笑顔は続いていったのでした』
届けられただろうか。これでよかったのだろうか。
今でも自問自答を繰り返す。
今際の時くらい、ずっと傍にいてあげるべきだったんじゃないだろうか。
後悔は、何度も波のようにやってきては、拓哉の心を飲み込んでいく。
でも最後に苦しんでいた唯は笑ってくれたと。泣き虫悪魔はどこかにいったと、そう願いたい。拓哉は強く思う。
七月の雪は、ただ微かな記憶の中で、すぐに儚く消えて。
だけど、唯の笑顔は。
いつまでも、消えないでいるはずだと思う。
雪が、変わりに溶けて消えてくれたから。
拓哉は、そう信じてる。
七月の雪は 香澄 翔 @syoukasumi
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