空気ねことお別れ
やっと家に戻ってきてひと息つく。骨壺を炬燵の上においてネクタイを外した。さて、どうするか。何かをした方がいいのだろうが思いつかずに立っていると、玄関の呼び鈴が鳴った。開けてみると、小林さんが喪服のまま立っていた。
「
「あ、はい。さすがに疲れましたけど」
そうだろねえ、と小林さんは微笑む。伯母の結婚相手である小林さんは、クソだらけの親族の中で唯一大丈夫な人だ。俺たちが住む場所を手配してくれたのも小林さんだ。
「愁、ここどうする? 私としてはこのまま使って貰って構わないと思っているんだけど」
「や、片づけたら引き払います。俺も寮行きますし」
「そっか。ゆっくりでいいからね」
「ありがとうございます」
小林さんがぽつりとつぶやいた。
「
「どうでしょうね」
「頑張ってたのになあ。もう10年以上も前か。急に自分の事『俺』なんて言い出して、それからずっと。しっかりしてたのに」
俺はしんみりとしている小林さんに笑顔を向ける。
「あれで割と抜けてるところありましたから。兄ちゃんらしいといえば、らしいですよ。うっかり川に落ちちゃうとか。とにかく、部屋は片づけときますね」
小林さんはなおも、ゆっくりでいいからね、と念を押して帰って行った。兄ちゃんは、かわいそがられることを嫌っていた。だから、可哀想なんて思って欲しくない。
俺は部屋に戻って整理を始めた。このままずっと何もしないんじゃないかと思っていたが、小林さんが来てくれたのがいいきっかけになった。散らかっている服やら雑誌やらを片付けていると、その袋を見つけた。
水色のきんちゃく袋。小学生が「お道具箱」を入れるときに使うようなありあわせの袋。それは、兄ちゃんが大事な物を入れておく袋だった。
「懐かしいな」
袋の中には、預金通帳や契約書などが入っていた。あの歳でまだこの中に大事な物入れてんのかよ。と、俺はおかしくなった。生命保険の約款に俺が昔書いた手紙まで。その中に、「シュウへ」と書いてある、俺宛の手紙を見つけた。中には2枚の便せんが入っており、1枚目には簡潔に、たった1行の言葉が記されていた。
シュウへ。おねいちゃんは、ずるくなります。元気で。
「は? なんだこれ」
もう一度1枚目を見直す。ずるくなります。一番嫌っていた言葉。ずるをするのはずるだ、と、何度も俺に怒っていた言葉。自分を縛めていた言葉。見慣れた手紙の文字が、なんだか照れ笑いをしている。
「よくわかんねーけど」
俺は少し楽しくなった。ずるくなります。これがずるなのか。何時間か前に冷たくなって棺に収まっていた人の。今は小さくなって骨壺に収まっているヤツの。なんだか妙に嬉しい。ナツキ兄ちゃんがズルする気になったことが、なにかしでかしたことが。そして、自分を「おねいちゃん」と言う気になっていたことが。
「なんかやりやがったな。姉ちゃん」
俺が炬燵の方を振り返ると、そこには骨壺と並んで1匹の猫がいた。真っ白な短毛に緑の瞳。右耳だけは黒くしっぽはすんなりと伸びている。首輪はついていないが黒い耳の先が桜の花びらのようにカットされている。俺は猫に話しかける。
「やあ、突然なんだけどさ」
猫は首をかしげてこちらを見つめている。
「お前、ここが気に入ったならここで一緒に暮らすかい? 寮だと猫って飼えないからさ、ここで。ふふ」
猫はしっぽをくるんと振って口を開く。
「別にいいですけど、でも、もうちょっと後で」
「なんだそれ」
「ねこは気まぐれなので」
「そっか、気まぐれか。わかった。好きにするのが一番だもんな」
「はい。でも、きっと来ますので」
「きっと、か。それっていつ頃?」
「ねこなのでわかりません」
猫はすんなりと答えて窓の方へと向かった。
「お前、名前なんていうの」
「チハルです。一十百千の『千』に、季節の『春』」
「そっか。じゃあなチハル」
「はい」
猫は窓サッシのでっぱりに両手をかけると、伸びをするように立ち上がって器用に開けた。ひょいとそこから顔だけ出して外を確認すると、くるりとこちらを振り返った。
「いってきます。シュウ」
そしてすんなりと出て行った。変な奴だ。だけど俺はその猫が出て行ったことが、なぜか嬉しかった。そして、ちょっぴり羨ましかった。
「さ、やりますか」
俺は両の頬をパチンと叩く。そして、腕まくりをして手を伸ばした。
-了-
空気ねことお別れ 吉岡梅 @uomasa
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