ねこと一緒に

 炬燵の向かいの席には少女――冬華ふゆかが座っていた。耳をぴくぴくさせて、青味のかかった目で俺をじっと見つめている。ねこは机の上から飛び降り、冬華の周りをぐるぐる回りながら匂いを確認しているようだ。


「思い出しましたか」

「あ……ああ。まだちょっとあやふやだけど」

「私は12年前に産まれたねこ。空気ねこです。あいつらがいなくなった時に」

「そうか。そうだったな」


 冬華。空気ねこ。俺の最初のねこ。両親が消えた冬のねこ。2人でやっていくんだと決めたときに俺が知らずに吐き出し、捨てたよすが。


「元気でやっていけてたか」

「はい。に成りかけるくらいには」


 そう言って冬華はぴょこんとしっぽを持ち上げて見せた。そのしっぽの先は2つに分かれかけている。なんだかモコモコのハートみたいだ。ねこはそのゆらゆら揺れるしっぽを狙って懸命にちょちょっている。


「そっか。よかった。ごめんな。じゃあもうすぐ人になれそうなんだな」

「はい。でも、戻ろうかな、と思って帰ってきました」

「何で今更」

「新しいを見て、ああ、と思って。もういいんじゃないかな。って」

「いやいや。大丈夫だって。やってきたし。やっていけるし。それに、俺はお前を捨てたんだぞ? もうすぐ人になれるんだぞ? お前はお前で好きに暮らせよ。ねこらしく。わかんだろ」


 冬華は糸のように目を細めてふんわり笑った。


「ねこなのでわかりません」


 そう言ってすらりと立ち上がる。そのまま俺の隣にしゃんと座って目を細めた。俺はそれを見るばかりで動けない。声も出せない。いや、出さなかった。出したくなかったのかもしれない。俺は期待してたのだろうか。そうして欲しかったのかもしれない。だけど、怖い。自信がない。


 良く分からなくなってる俺を冬華がみっしりと抱きしめる。万遍なく、しっかり。俺はそれが許されることなのかどうか戸惑い、そして気づく。自分が泣いている事に。なんで。なんで。いや、本当はわかっている。だけど違う。そんなんじゃない。なんで。


 冬華がぎゅうと腕に力を込めたのがわかる。その腕は絹のようにやわらかくて、やさしくて。するすると解けたいとのひとつひとつが俺を包む。包んで、ほぐす。絡み合い、ひとつになる。


「ああ……」


 冬華が俺の中に流れ込む。還ってくる。抱きしめた手のある背中から脊椎へ、いとが流れ込み駆け上がる。勢いをつけてうなじへと押し寄せ電流を流す。耳の後ろあたりへと想いを叩きつけ、爆ぜる。ああ。ああ。ああ!


 そうだ。そうなんだ。俺は、人は、こんなにも我慢してはいけない。頑張ってはいけない。友人の心無いことばに笑顔を返してはいけない。バイト先の理不尽な要求や蔑みを受け流してはいけない。親族や周りの人の同情を撥ねつけてはいけない。ひとりだけで、全部自分で抱え込んでなんとかするのが美しいなんてだましてはいけない。


 いつの間にか俺は声を上げて泣いている。その俺をちょっと引きながら俺は見ている。ねこもまじまじと俺を見つめている。


 ねこがいなくても普通にやっていけなくてはいけない。ねこをいつくしみ気にかけて、ねこが褒められればそれでいいと身を捧げてはいけない。生きづらさをねこに託し、他人ごとにして、それで満足してはいけない。ものがたりに寄り添うことが良き事なんて思ってはいけない。俺は俺で、ねこはねこでなくてはいけない。ねこのために過ごすなんて、ねこがいなくてはやっていけないなんて違う。違うんだ。それを本当にするのはいけないんだ。


 俺は俺の身体をぎゅっと抱く。良くやったじゃんと言ってあげる。冬華はもう部屋の中にいなくて、俺とねこだけがここにいる。


 でも、だったら、どうすれば。俺はわからない。分からないまま涙を拭く。俺は可哀想だ。クソくらえだ。弟は自分を大事にしろ的な事を言っていた。確かにそうなのかもなと思うけれども、どうすればいいのかわからない。たぶん、自分の好きな事をやればいいのだろう。それはわかるけど、今の俺にはその気力は無くて時間は経ちすぎている。もう遅いじゃんか。


 自分がどうとか。なんなんだよ。いっそ消え去りたい。いや、違う。消えたくはない。だけど、消えても問題ない。いなくなっても変わらない。弟は自立したし、冬華は還ってきた。だったらあとは、あとは――。


 俺は傍らのねこを見た。ねこは不思議そうな顔をして、首をかしげてこちらを見ている。


――あとはこいつと俺だけか。


 そう思うと、妙に心が落ち着いた。もう、いいじゃん。な? 私はちょっと笑った。自分でもよくわからないまま。そして、ねこの首へと手を伸ばした。差し出すように、両の手を。つけたばかりのねこの赤い首輪へと。

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