神域のパラドックス
城島 大
第1話
この世界には神がいる。
どこにいて、どんな姿をしているのかは誰もわからない。
でもオレ達は、確かにその存在を知っていた。
愛のために人間が作られた時。
人間の試練のために、現存する生物が悪魔と見なされた時。
悪魔と成り果てた者たちの怒りを根本から断つために、天使が生まれた時。
その時いつも、どこかにいるろくでもない存在の意思を感じた。
そこに正義なんてものはなく、あるのはただ、矛盾を許さず均衡を保ち続ける法則だけ。
そうして生まれたこの世界は、酷く歪み、バカバカしく、そして欺瞞に溢れていた。
これは、そんな肥溜めのようなクソッタレな世界の物語だ。
◇◇◇
町にある小さな石橋。
その欄干に、彼女はもたれかかるように倒れていた。
彼女の胸には、裏側を見通せるほどの大きな穴が空き、流れる血が、まるで真紅のカーペットのように広がっている。
「なんてことだ……。この町を……世界を守る魔法少女が死んでしまった」
絶望に膝を折る警官は、まるで独り言のようにぼやいていた。
「町の結界が消える。魔界と現界が再びつながり、世界に悪魔が解き放たれる。千年前の悪夢が、再び蘇るんだ。人間は……今度こそ滅んでしまう」
男は睨み、銃口を向けた。
「すべて貴様のせいだ。魔王後継者候補が一人、シンア・ダルダロス!!」
黒いコートを羽織り、欄干の上で佇むオレに向かって、男は叫んだ。
今夜は月が綺麗だ。
今日という日を、こんな美しい夜で迎えられたのは、せめてもの僥倖(ぎょうこう)だろう。
オレはマントをはためかせた。
「平和に溺れ、肥え太った愚鈍なる人間共。痛感するがいい。つかの間の休息は終わり、やがて世界は闇に染まる」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
オレは欄干の上から飛んだ。
「覚えておけ。闇が染まる時、貴様らがすがるのは神などではない。次期魔王たるこの私だ!!」
◇◇◇
軽快なBGMが鳴り響き、テレビ画面の中にいた魔王が討ち倒された。
「っしゃああ! 見たかボケェ! 総プレイ時間28時間39分。やっとエンディングに到達したぜー!」
「お言葉ですが我が主」
オレがガッツポーズを決め込んでいると、後ろから声が聞こえてきた。
銀色の長髪。この世のものとは思えない美しい顔立ちの吸血鬼、ラミアが、テーブルのオムライスに真剣な表情でケチャップアートを描いている。
そのケチャップボトルの底はチューブでつながっており、その先にはオレの腕に刺さった献血用注射器があった。
「仮にも魔王候補である主が、仮想世界の中とはいえ、勇者となり魔王を討ち倒してしまうのは、あまり褒められた行いではないと思います」
オレはコントローラーを投げ捨て、ソファに座った。
「縁を切ったも同然のクソ親父だ。むしろ現実で鬱憤を晴らしてないだけ、マシだと思ってもらいてえな」
「……ああ。前に人間に対して切った啖呵(たんか)は、その歪んだ承認欲求の現れですか」
ピクリと、眉が動いた。
「魔王の子供でありながら、生まれつき悪魔の力を持たない無能の後継者。後継者争いから逃げ出し、実質的に排除された、存在しない13人目の魔王候補。次期魔王になれるはずもなく、ましてや神に最も近いと言われる魔法少女を殺せるはずもない。少し事情に詳しい者なら誰でも知っていることです。まあ、人間相手にくらい、格好の一つもつけたくなりますか」
オレは無言で、腕に刺さった注射器を引き抜いた。
ブチュッと音がしてケチャップが飛び散り、彼女が懸命に描いてきたアートは、見事にぐちゃぐちゃになった。
「……」
「さーて。エンディングでも堪能しようかね」
そう思った時、ふと視界の隅で小さなものが動いているのに気付いた。
それは手だった。
手首から切り落とされたはずの手が、自由意志を以て動き回り、オレが投げ捨てたコントローラーのボタンを高速連打しているのだ。
「てめ、イコル! なにやってんだ!」
オレがイコルをつまみ上げたとき、テレビ画面の中で、倒したはずの魔王が蘇った。
「イコルが今朝方見つけた裏ボスですね。魔王を倒した時に特定のボタンを入力すると、戦えるようになるんだとか。ちなみに負けると最初からやり直しになるそうです」
呆然としているオレの束縛をかいくぐり、イコルはオレの肩に乗ると、「褒めて!」と言わんばかりに身体を擦り寄せてきた。
案の定、オレはその蘇った魔王に完膚なきまでに叩きのめされ、晴れてゲームオーバーとなった。
「あー、胸糞わりぃ」
オレはソファの上で寝転んだ。
「しかし実際問題、これからどうするのです? 人間は魔法少女殺しの犯人を、完全に我々だと思い込んでいます。一部の馬鹿な天使も、我々を探しているとの噂ですが」
「いつもと変わらねえだろ。アホらしい争いからは逃げるに限る。魔王後継者争いも、犯人探しも、オレのいないところで勝手にやってりゃいい」
「今回の件はそうもいかないでしょう? 魔法少女が死に、彼女が維持していた結界が破壊されたのです。平和だった現界と魔界がつながり、荒れ狂う悪魔たちが人間を襲い始めています。一部地域は火の海になっているようですし」
オレは黙ってスマホを起動させた。
コミュニケーションアプリを開き、最新のメッセージを開く。
私を忘れないで
それは、魔法少女が死の直前にオレに送った、最後の言葉だった。
『ねぇ。私が死んだら、シロツメクサを供えてほしいの』
『死んだらって、お前を殺せる奴なんて、この世にいるのか?』
『……知ってる? シロツメクサの花言葉』
『──私を忘れないで──』
カランカラン
突然、アルミ缶がぶつかるような音が、部屋の中にこだました。
「逃げますか?」
「いや、いい。聞きたいこともあるしな」
アルミ缶の音が、次第に大きくなる。
次は壁が破壊される音。何かが爆発する音。
さらにドタバタとなにかが暴れる音がしたかと思うと、突然天井から穴が空き、一人の女性がオレの目の前に落下した。
「もが~! もがもが!!」
全身を縄で縛り付けられ、麻袋を被った小学生くらいの少女が、芋虫のようにもがいている。
オレは中腰になり、麻袋を外してやった。
「これはこれは。我が宿敵、勇者ミカエルではありませんか」
「ちょっと! これ外してください! どうせそうやって……はぁはぁ。私に、いかがわしいことをするつもりなんでしょ!? はぁはぁ。身動きできない私をいたぶって──」
興奮し始めたミカエルに、オレは再び麻袋をかぶせた。
「もがが~!!」
ミカエルが再び暴れ始めた。
オレはため息をつき、麻袋を外した。
「わ、分かりました。交渉しましょう。私を自由にしてくれたら、今回は見逃してあげます」
「こっちに何の得もない。交渉になってねえな」
「そんなこと言われても……」
ミカエルが、しゅんとうなだれている。
オレは次の言葉を言うまいか逡巡し、しかし結局、口を開いた。
「魔法少女」
「え?」
「魔法少女殺しの真犯人。探すのを手伝うってんなら、考えてやってもいいぜ」
◇◇◇
オレ達は魔法少女殺しの現場へとやって来た。
ミカエルの身体はしっかりと縄で縛られ、身動きができない状態だ。
魔法少女が殺された石橋の前に来ると、既に警察はいなかった。代わりに、魔法少女が倒れていた場所に白線が引かれている。
「魔法少女の死体には、胸部に直径10センチほどの穴が空いていて、即死だったみたいです。知ってるとは思いますが、魔法少女は地上で最も神に近いといわれる最強の天使。そんな彼女に即死級のダメージを与えられる存在なんて、この世にほとんどいません。まあ私くらいのものですね!」
えへんと、ミカエルが胸を張る。
「いいから続けろ」
「魔法少女の力は主に二つ。一つはどんなものだろうと貫く魔導砲。それに狙われたものは、たとえ地の果てまで逃げようと追跡され、絶命する。そしてもう一つは、絶対防御の換装結界。一瞬にして魔法少女の姿となり、一度(ひとたび)変身すれば、いかなる力でも砕けない結界を纏うことになる」
換装結界は、この町を囲んでいた結界と、ほとんど同じ力を持っているらしい。
結界は、人間や天使なら行き来できるという性質があるが、換装結界は人間だろうと天使だろうと、いかなるものも寄せつけない。
「換装結界は魔法少女の意思に反して自動生成されます。つまり彼女が寝てようと気絶してようと必ず発動し、どんな危機からも自動で守られる。まさに無敵です」
「だが、破られたからこそ、あいつは死んだ」
「その通り! つまり犯人はあなたです、シンア・バルバトス! 魔王の秘めたる力をなんやかんやして、ああだこうだしてから魔法少女を殺したんでしょ!? これで事件は解決──」
オレはミカエルの額を銃で撃った。
「いったぁ~~!!」
「神の偶像を溶かして作った弾丸だ。創造主への反逆が許されない天使のお前には、相当効くだろ」
「うぐぐ……。なによ、ヘンテコな銃を使って」
オレの使う銃は典型的なリボルバーだ。ただ他と違うのは、銃口が二つ。それにリボルバーが二つ、横並びについていることだった。
「天使と悪魔、両方に対抗するために特注した銃だ。左には天使の苦手とする神の弾丸。そして右には、悪魔の苦手とする天使の骨で作られた弾丸。どっちに襲われても対抗できる」
ラミアが、うんうんとうなずく。
「悪魔を狩るために生まれた天使は悪魔に強く、神に創造されていない悪魔は神に強く、そして天使を創造した神は天使に強い。じゃんけんの法則ですね」
「未だ神はこの世に現れていない。つまり天使が殺されたのなら、それを殺したのは天使ってことになる。そこのところ、どうなんだ、ミカエル? 魔法少女を殺せるのはお前くらいなんだろ?」
オレの推理に、ミカエルがムキになって反論した。
「天使は神に使命を与えられた正義の象徴ですよ! そりゃ、確かに鬱陶しかったし、何度も殺してやりたいとは思いましたよ? 天使同士のいざこざにも干渉してきたり、ちょっと人間を殺しちゃったくらいで怒ったり。でも殺しなんてするはずありません!」
ふと、オレは欄干の隅に、不自然に石が置いてあることに気付いた。
石をどけると、その下から一枚の葉が現れる。
クローバーの葉だ。
「何を見つけたんです?」
ミカエルが、まるで機械のような無機質な目をオレに向けている。
使命のためならどんなことも厭わない天使の目。オレの苦手な目だ。
「動くな!」
いきなりそんな声を浴びせられ、オレ達はそちらを向いた。
見ると、ガタガタと震えながらこちらに拳銃を向ける警官がいた。
「……やめとけ。そんなもんでどうにかなる相手じゃないことくらいわかるだろ」
警官は明らかに怯えていた。
既に戦意は喪失し、今にも銃を取り落としそうな状態だった。
「なんて勇敢な人でしょう! 人の身でありながら果敢にも悪魔に立ち向かうなんて。末代まで語り継がれるべき行動です!」
「おい、ミカエル。てめえ何を……」
ミカエルの目が青く光っている。
その光は警官の目へと移り、彼はぎこちない笑みを浮かべていた。
「あなたこそ本当の勇者です。あなたの勇気が世界を救うのです。その震えは武者震い。あなたは今、魔王討伐を前に興奮を禁じ得ないだけなのです」
忘れていた。
こいつは勇者。人々に慕われ、仲間を集い、魔王を討伐する使命を持った天使。
人間を操ることくらい、いとも簡単にやってのける。
「う、うははははは! オレは勇者だあああ!!」
警官が笑いながら突っ込んでくる。
オレは銃で足を撃った。が、まるで怯む様子がない。
痛覚が麻痺している。たとえ足が千切れても、この男は歩みをやめない。
オレは男の額に照準をつけた。
『人間はあなたと同じなの。神に愛され、誰よりも特別で、だからこそ誰よりも疎まれている。彼らを守護する天使ですら、自らの使命の元に、平気で彼らを捨てゴマにする。……私もそう。だからあなただけは、人間の味方でいてあげて』
「……ちっ」
オレの目の前に警官が迫る。
その時、血しぶきをあげて警官は倒れ込んだ。
ラミアがその鋭い爪で、喉を掻っ切ったのだ。
「お人好しなのは結構ですが、自分の命を脅かさない程度に戯(たわむ)れることをオススメします」
「……肝に銘じておくよ」
オレはふと、ミカエルがそばにいないことに気付いた。
振り向きざまに発砲するも、ミカエルは跳躍してそれをかわす。
彼女は狂気的な笑い声を響かせながら、走り去っていった。
「ああなったら彼女は面倒ですよ」
「……どうせ殺し合う運命だ。今更、ビビるものでもないさ」
オレは、さきほど拾ったクローバーの葉を見つめた。
「それは?」
「クローバー。シロツメクサの葉だ」
シロツメクサの花言葉。
私を忘れないで。
あんなメッセージをわざわざオレに届けたんだ。
これにはきっと意味がある。
「クローバーの3枚の葉は、三位一体を表しているといわれている。神は愛を。天使は救いを。悪魔は試練を。それらが与えられ均衡を保つ時、人間は一体となって三位を超えるっていう逸話だ」
「つまりこのクローバーの葉は、三位の中の何かを表しているということですか?」
「おそらくな。そして犯行現場にわざわざ置かれていたってことは、こいつが犯人を指し示すヒントになっている可能性は高い」
「ですが、それが3枚の葉のどれに当たるかはわからないのですよね。神が犯人……というのもおかしな話ですし、やはり天使ですか?」
「神がこの世に存在しない以上、天使を殺せるのは天使だけってのが常識だ」
「つまり、わざわざダイイングメッセージを置く必要がない」
「そういうことだ。そして犯人が悪魔なら、一人、心当たりがある」
◇◇◇
オレ達はクラブにきていた。
大音量で音楽が鳴り響き、ブルーライトが眩しく点滅する室内で、大勢の男女が踊っている。
それに混じってイコルが指で激しくステップを踏んでいたが、オレはそれを無視した。
奥にあるバーに行き、オレは席に座った。
バーテンダーの姿は異様だった。
顔は左右前後4つの仮面で隠れており、身体にも多種多様な仮面がうろこのようにへばりついている。腹にある巨大な骸骨の仮面は大きな口を開けており、中はブラックホールを思わせる漆黒の闇が広がっている。
仮面の隙間から伸びた四本の細い腕が、二つのシェイカーを器用に振っていた。
「よぉ、殺人犯。いや、世界の均衡を破った大罪人か?」
「あいかわらず嫌味な奴だな、魔界の覇者ハデス。シェイキングはちょっとは上達したか?」
「これがなかなか奥が深くてな。だからこそ、暇つぶしになるわけだが」
「順風満帆の隠居生活か。憧れるね」
「お前のように均衡を破る者がいなければ、ワシも悠々自適に暮らせるんだがな」
「よく言うぜ。ところでハデスよ」
「なんだ?」
「魔法少女を殺したの、お前だろ」
一気に空気が冷たくなった。
先程まで騒いでいた客たちが、全員こちらを睨んでいる。
イコルは様変わりしてしまったクラブの雰囲気にあたふたし、慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「天使は悪魔の力のほとんどを無効化できる。悪魔であるワシが、どうやって魔法少女を殺すと言うのだ?」
「お前の持つ無限の魔界道具があれば、天使を殺せる道具の一つや二つ、出てくるだろ?」
「……確かに殺せる」
ハデスは真ん中の巨大な仮面の口から、姿見の一部を取り出して見せた。
「死の姿見だ。これを見た者は自身の死を体感できる。鏡に写った自分の死を見ることでな」
「それでどうやって殺すんだ? 換装結界は魔法少女が怯もうと、関係なく発動するぞ」
「パラドックスだよ、坊や」
ハデスの顔に飾られた4つの仮面が左右にぐるぐると回転し、不気味な笑みを浮かべるものに変わった。
「この姿見は万物の死を写し出す。換装結界が危険に反応して発動するのなら、その意思すらも惑わせる。すべてを防ぐはずの盾が破壊されたと感じた時、そこには大いなる矛盾が生じるのだ。矛盾は法則を砕き、均衡を破壊する。均衡のなくなった法則はどうなると思う?」
「さあな」
「消滅するのさ。お前と同じだ」
オレは黙った。
「誰よりも優れた悪魔の血がありながら、お前はその力を使えない。パラドックスだよ。天使の女との間に生まれたお前は、生まれながらに矛盾を抱えているのだ。お前の存在自体が、この世界の均衡を破壊している。こうして毎度のように厄介事に巻き込まれるのが良い例だ」
「……そいつはどうも」
オレはハデスがシェイキングしたカクテルを飲んだ。
いつも通りのまずさだ。
「魔法少女は、他の天使と同じく神託(オラクル)を受けて力と使命を得た。それまではごく普通の人間の子供だった魔法少女は、突如として最強の力と、名前を持つことすら許されない厳格な使命に縛られたのだ」
千年前、魔王が魔界から現界へと侵略する時、次元に亀裂を空けた。その影響は今も続いており、定期的に次元震災と呼ばれる天災が起きるようになった。
その天災により、魔界が現界に顔を出した時。その一角にいる適正のある人間が魔法少女となり、現界を守る結界を生成する守護者となる。
しかしそれは同時に、次元震災をも防ぐ強大な結界を、その瞬間に発動させるということだった。
魔法少女はごくごく普通の女の子だった。
両親に愛され、両親を愛し、人並みに将来の夢を持った、普通の、幸せな女の子だった。
その日も、両親と一緒にキャンプを楽しんでいただけだった。
そこに偶然、次元震災が起こったのだ。
「少し様子を見てくる。お前達はテントの中に隠れていてくれ」
妻と娘を残し、夫は自分を犠牲にしても二人を助けようと外に出た。
「大丈夫! 何があってもママが助けてあげるから」
妻は、子供の手を強く握り、何があってもこの子を守ろうと、何度も何度も強い言葉で彼女を励ましていた。
「ママ……。こわいよ。……ママ」
地面が揺れ、ランタンが倒れ、今にも次元の彼方に飲み込まれそうな現実に、少女はただただ目をつむり、耳を塞ぐことしかできなかった。
しかしすぐにそんな騒音は消え、辺りを静寂が包み込んだ。
「……ママ?」
少女が目を開けたとき、そこには、自分を中心にした巨大なクレーターがあるだけだった。
未だにぬくもりを感じる自分の手を見ると、そこにあるのは、自分の母親の手首だけだった。
「魔法少女の強大な力を得たものは、使命のために全てを捧げることになる。以前までの人格は消え、感情もなくなる。神の代行人に、そんなものは不要だからな」
感情がない。
本当に、そうなのだろうか。
愛する両親を殺し、何年も街を守り、挙げ句、どこの誰とも知らない奴に殺された。
そんな自分の境遇に、あいつは、何も感じなかったのだろうか。
胸を貫かれた時。オレにメッセージを送っている時。あのクローバーを、石の下に隠した時。
あいつは、一体何を考えて──
『今度会ったら教えてあげる。シロツメクサの、もう一つの花言葉』
「おい、ハデス」
「なんだ?」
「シロツメクサの花言葉って知ってるか?」
「ワシは情報屋ではないぞ。だがまあ、伊達に歳を取ってはいないからな。それくらいは知っている。確かシロツメクサの花言葉は、約束、私を忘れないで、そしてもう一つは──」
オレはそれを聞き、すべてを悟った。
◇◇◇
オレ達は、魔法少女が死んだ現場に戻っていた。
「犯人が分かったのですか?」
「ああ」
ラミアの言葉に、オレは短くそう答えた。
既に日が暮れた石橋からは、この町を囲む鬱蒼とした樹海が見えた。
空にはたかの外れた悪魔たちが飛び交い、まさに地獄絵図といった様相だ。
夜風が冷たい。
この風を浴びながら、魔法少女は死んだのだ。
「誰なのですか? 純粋な力で言えば、天使の中でミカエルが最も勝算がありそうですし、ハデスもけっきょく、自分が犯人であることを否定しませんでした。この中に犯人はいるのですか?」
「いや」
「じゃあ誰が……」
オレは指を指した。
そこには、人の形をした白線があった。
「……まさか」
「ああ。自殺だ」
「不可能です。仮に死にたいと思ったとしても、魔法少女の防衛能力は自身の意思に反して動きます。鉄壁の防御を切り崩す方法なんて──」
「パラドックスだよ」
「え?」
「パラドックスは法則を消滅させる。すべてを貫く魔導砲と、すべてを防ぐ換装結界。これらがぶつかった時、パラドックスが生じ、お互いを打ち消し合う。自身に魔導砲をぶつけたら、無敵の結界は、無敵であるが故に破壊されるって寸法だ」
「……理由がないじゃありませんか。わざわざ自殺する理由が」
「お前も聞いていただろ。シロツメクサの花言葉。約束、私を忘れないで。そして……復讐」
「誰に対する復讐ですか? 自殺することで得られるものなんて……」
「魔法少女が死んで、世界はどうなった? 結界は破壊され、悪魔が現界に降り立ち、世界はてんやわんやだ。神が愛する人間たちは、それ故に悪魔に憎まれている。この状況に、一番大騒ぎしてるのは神様だろうぜ」
オレはクローバーの葉を見つめた。
正義を振りかざし、その使命のためなら人間さえも犠牲にする天使。悪を押し付けられ、人間に憎しみを抱く悪魔。
ミカエルが魔法少女を殺したいと思ったように、彼女も同じようなことを考えたに違いない。
両親を殺した正義。自身の人格すらも消滅させた使命。
この世界の下らない欺瞞(パラドックス)に、きっとあいつは──
「なるほどなるほど! そういうことでしたか」
上空から声が聞こえたかと思うと、ミカエルが地面に降り立った。
「陰気な魔法少女もいたものですね~。挙げ句、神様に楯突こうなんて。同じ天使であることが恥ずかしいです」
気付いた時には、オレ達の周りを浮遊した剣が囲んでいた。
「……マズイですよ、我が主。この状況、主が逃走できる確率は0%です」
「その通り! 悪に逃げる道などありません!」
この距離感。
やろうと思えば、いつでもオレを殺せる間合いだ。
「……やれやれ。少しは感傷に浸らせてもらいたいもんだな」
オレは銃を抜いた。
「拘束されてさえいなければ、そんなもの怖くもなんともありません」
オレは黙って、その銃を自分のこめかみに当てた。
「ほほう、自殺ですか。できれば生きたまま捕獲して拷問を楽しみたかったんですけどねー。私って、どっちもイケる口でして。あなた相手なら受けも良いけど、どっちかというと攻めの方が──」
「三位一体だよ」
オレの言葉に、ミカエルは眉をひそめた。
「神は愛のために。天使は救いのために。悪魔は試練のために。それらが均衡を保つ時、一体となって三位を超える。強大な悪魔の血に釣り合うだけの天使の力と神の力。それらが合わさった時、パラドックスは解消される」
ミカエルは瞬時に危機を察し、オレへと肉薄する。
オレは引き金を引いた。
銃声が鳴り響き、神の偶像によって作られた弾丸と、天使の骨で作られた弾丸が、オレの体内で魔王の血と混ざり合う。
天使の片翼と悪魔の片翼が、オレの背中で羽ばたき、一瞬の内に光となってミカエルを飲み込んだ。
オレは銃をしまった。
前方には、ボロボロになって倒れているミカエルがいた。
「トドメは刺さないのですか?」
ちゃっかりと橋の下に隠れていたラミアが、オレの横に立って言った。
イコルがラミアの肩から地面に飛び降り、興奮した様子でオレの足にすり寄ってくる。
「こんなでも最強クラスの天使だ。死ねば今以上に均衡が崩れる。それこそ世界崩壊の危機だ」
「力のことを喋られるかもしれません。魔王の継承権を蹴ってまで隠したいものなのでしょう?」
「力を隠してたのはただの保険だ。魔王の座なんか元より興味ねえよ。それに、悪魔に負けたなんて、こいつは口が裂けても言えないさ」
オレがその場をあとにしようとした時だった。
「では最後に一つ」
そんなオレの背中に向けて、ラミアは言った。
「あなたが犯人だと名乗ったのは、魔法少女のためですか? 彼女がそれを望んだと思ったから。強大な力を持ちながら、後継者争いからも逃げようとしたあなたが、彼女のために敢えて厄介事を引き受けたのですか?」
あの時、魔法少女がどうしてオレを呼んだのか、理由は分からない。
それは今もそうだ。
魔法少女を生んだ魔王の血が憎かったのか。魔王の後継者が再び世界を崩壊させるというシナリオを望んだのか。
それともただ、オレに知ってほしかっただけなのか。
私を忘れないで。
その言葉が、何の裏もない、彼女の本心だったのかもしれない。
「さあな」
オレはそれだけ言って、その場を去った。
◇◇◇
後日、オレはシロツメクサの花束を持って、例の石橋にやってきた。
今は白線も引かれておらず、ここで何かがあったことなんて、誰も彼もが忘れているようだった。
未だ世界は欺瞞で回り、空には悪魔たちが蠢いている。
彼女に墓はない。使命も果たせなかった天使に、そんなものは不要だ。
彼女が家族と一緒に眠ることは、永遠にない。だからこそ──
「オレ一人くらいは、忘れないでいてやるよ」
オレはシロツメクサの花束を川に投げ込み、その場をあとにした。
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