堕天使ルシファー、下界で有給休暇を取る

白玉あんず

堕天使ルシファー、下界で有給休暇を取る


 かくも人間の罪のを多さに驚くばかりで、それは宇宙に存在する星の数より多い。泣く子も黙る地獄の裁判官であり堕天使、別名サタンのルシファーは飽くなき人間の欲望のきらめきに少々飽きてきたところだった。人間はなぜこうも多くの罪を重ねるのか。しかし反面、罪を犯さない人間なぞ面白くもない。人間が理性を抑えきれず罪を犯すからこそ、より人間らしいとも言える。そんなことを刑吏に血の池地獄の刑へと連れて行かれる老人の背中を見送りながら思う。

 とはいえ退屈だ。ジョブローテーションでここ100年ほど、地獄送りになった罪人を裁く裁判官を買って出ていたが、20年過ぎた辺りから飽きてきた。40年過ぎるとだんだんこの裁判制度に問題があることがわかってきた。なにせ地獄に送られる罪人が多すぎるせいで残業が多かった。そこでルシファーがこれまでの罪の判例をデータベース化しておかげで、進行がスムーズになりそれから残業は発生していない。それに留置所が罪人で満杯になるという苦情も出なくなった。いまでは定時内に裁判が終わり、悪魔全員が日が落ちぬ間に帰せるようになった。わたしの行ったことはは脱税をした元コンサルタントの罪人曰く、”働き方改革”というらしい。なかなか人間も、粋なことをするもんだ。 

 ルシファーはとなりにいる秘書に言った。

 「これで今日は終わりか?」

 秘書は頷いた。今日で7000人の罪人を裁いた。明日の分までこなしたのだから十分だろう。

 定時刻の予鈴がなる。裁判所の警備員がルシファーにお疲れ様ですと言って、ぞろぞろ出て行く。 秘書は言った。

 「かなりペースが上がってます。これもルシファー様のおかげです。みなも喜んでいます。昔は留置所が一杯になりすぎて、地獄そのものよりも酷いと言われる有様でしたから。」

 たしかに昔の留置場は凄まじかったらしく、中世ヨーロッパでペストが発生したときには、罪人が多すぎて、悪魔が800万時間の残業で倒れたくらいだという。下界の日本という国のサラリーマンは、絶対に有給休暇を取らず一年中24時間は働いているらしい。うちの悪魔よりも働くのだ。全くすごいとしか言い様がない。地獄に欲しいくらいだ。

 有給休暇で思い出した。ここ最近、ルシファーは休暇を取っていない。秘書にどれくらいたまっているか訊いた。200年くらいあるという。ルシファーは驚いて言った。 

 「そんなにか?」

 「まあ、前職の執行人の分もありますから。」

 そんなに休んでいなかったとは驚いた。確かに執行人時代は天使を堕天させたり、罪人の首やら身体を切り裂いていたのに忙しくそのことをついぞ忘れてままだった。

 そう思うと、やり残してきたことが脳内にあふれかえった。閻魔のじじいにはお礼参りに行っていない。400年分の確定申告や住所変更。ゼウスへ借りっぱなしになっていたイザヤ書を返す。知恵の実の栽培。それに下界の様子も見に行っていない。ここ働きづめで、プライベートのサタンライフを楽しんでいない。

 ルシファーは書類を整理している秘書を見た。別件で席を外したときに代理の裁判官を任せたが、秘書は全く問題なくこなしていた。それにすでに罪人は100年くらい先ぶんの予定をこなした。少しくらい急に有給休暇をとっても問題あるまい。

 ルシファーは言った。

 「よし、秘書よ。明日わたしは休むぞ。そろそろ主席の裁判官をやってもよろしかろう。」

 「かしこまりました。ルシファー様の名折れにならぬよう、喜んで拝命いたします。」

 「いや気張らぬで良い。なに、部下が優秀だとわたしにやることはないのだ。」

 秘書はありがとうございますというと、ルシファーに言った。

 「つかぬ事を訊きますが、明日はどこへ?」

 「うむ。久しぶりに下界に行くとするか。日本にいくぞ。第二次世界大戦くらいあたりから見ていないのだ。何か欲しい土産は無いか?」

 「では最近品切れになっているニンテンドースイッチを買ってきてくれませんか?息子がほしがっているのです。餓鬼道の畜生どもが転売をしていて、手に入らないのです。お代はあとで払いますから。」

 「そんなものは良い。少し早いクリスマスプレゼントだ。普段良くやっていてくれているしな。」

 悪魔がクリスマスプレゼントなど異教徒の行いだが、まあいいだろう。

 秘書は言った。

 「ありがとうございます。もう発たれますか?何かありましたら、ご連絡ください。いつでも駆けつけます。」

 秘書は付け加えた。

 「それと日本に行くのでしたら。こちらをお持ちください。役に立ちますよ。」

 秘書は札入れを渡した。中にはプラスチックのカードが何枚か入っている。用途はわからないがありがとうと言って受け取る。

 全くデキの良い部下を持つと、苦労がない。  しばしの別れを部下に告げて、城に帰り準備をした。そして転生の門に趣き、下界へと旅立った。


 日本は第二次世界大戦後、最も急激に経済発展をした東洋の国だ。時折、地獄の新聞で近況を訊いていたが、やはりこの目で見たい。どんなことになっているのか。

 降り立つのは東京の新宿にした。人通りが多く、欲望で汚れきっている大都会の方が、人間界は間違いなく面白い。罪あるところに人間の面白さがあるのだ。教会の漂白されきった雰囲気に、面白さを見いだす人間などまず、いないだろう。人間は薄汚れている分、狂っている分だけ面白い。

 服装は吊しの黒いスーツに、革靴、手持ちのビジネス用の鞄にした。この服装でなら、日本の背景に上手く馴染める。なにせサラリーマンの国だから、わたしがルシファーだとはまず気づかないだろう。

 目立たないように新宿のビルの裏側を選んで降臨した。息を吸うと、ビルから煤煙のように吐き出される油臭い臭い鼻をつく。黒い汚れがこびりついた壁際には、得体の知れない液体にまみれた食べ残しらしきものがパンパンになって詰まったゴミ袋が山となって積載してある。その周りをネズミとハエが躍り上がっている。

 日本の戦後の闇市もこんな様子だったことを思い出す。ルシファーは通りにでた。人があるいている。しかし、奇妙なことにみな口元を布で覆っている。どういうことだろう。

 ルシファーが観察していると、人通りの中から男がルシファーに近づいてきた。男は蛍光色の化繊のパーカーを着ている。服の全面には新宿区と黒抜きの文字。服装からして役人だろうか。

 男はルシファーに言った。

 「感染予防にご協力ください。」 そういって、男はルシファーにパックされた白い布を差し出した。

 ルシファーは70年ぶりの日本語を思い出しながら、答えた。

 「なんだ、これ?」

 「マスクですよ。つけてくださいね。」

 「マスク?これをしてどうするのだ?」

 「コロナウイルスですよ。」

 コロナウイルス?スペイン風邪やペスト、天然痘は知っているが。ルシファーは知らないと言った。

 「とにかく、まずマスクをしてください。あげますからそれ。」

 無碍に断って、あまり目立つのも得策ではない。郷に入っては郷に従え。ルシファーは素直にマスクの使い方を知らないと言った。役人は驚きながらルシファーにマスクの使い方を教え、マスクをつけた。

 ルシファーは役人に言った。

 「いや、済まぬ。最近までよそに居たものでな。感謝する。ところでコロナウイルスとはなんなのだ。」

 役人はまた驚いて説明した。説明を要約すると、世界中で流行した新型の流行性のウイルスで、まだワクチンがないらしい。インフルエンザと比較して感染力は強いが、幸いなことに弱毒性だという。日本も例外なく、このウイルスの影響を受け目下、この感染対策に四苦八苦しているという訳だ。

 中世ロンドンでペストが流行したときも、同じく都市中が閑散としたことを思い出した。あのときもロンドン市民は屋内にこもり、人との接触を断っていた。

 ルシファーは言った。

 「うむ。このご時世、おつとめご苦労。では外出はしないほうが良いな?」

 「ええ、そうですね。そんなご様子ですから、消毒用のアルコールも差し上げますよ。」

 役人は小さいアルコールのボトルをルシファーに差し出した。

 ルシファーは礼を言った。

 「かたじけない。下界、いやここの人たちは優しいな。余は満足だ。おぬし、風邪を引かぬようにな。」

 「仕事ですから。とはいえ、ありがとうございます。」

 役人はルシファーの古めかしい口調をいぶかしげに訊いていたが、見た目は普通の人間で優しそうだ。口調は尊大だが、態度の余裕さにあっていて、むしろ自然だ。このご時世、コロナウイルスを知らないとは一体どういう生活をしているのだろう。

 しかし男は疑問を飲み込んでおいた。あまり知らぬ人に突っ込んだことを訊くのはナンセンスだ。しかし、こんなに優しい対応されたのは久しぶりだとも感じていた。

 ルシファーは男に厚く礼を言って、歩き去った。 どうにも悪い時期に降臨した気がするが、反面こんなパンデミック下での下界視察も珍しい。ルシファーの好奇心は少しずつ頭をもたげていた。

 さてどうしようか。



 山手線を歩き回り情報収集をした。まったく70年前の日本と何もかも変わっている。道行く人は皆、手のひらサイズのカードのような機械を指でいじったり、話しかけている。一体何なのだろう。

 電車は昔のように改札に人がおらず、どうして良いかわからなかった。移動は翼を広げて飛んでも良いが、かなり目立つし、何より人間の生活を体感したかった。結局うろたえていたルシファーに気づいた駅員に結局買って貰った。

 お金を払いながらルシファーは駅員に話しかけた。

 「かたじけない。ところで、みなが持っているあの機械はなんなのだ。何、少しよそに居て世情に疎くてな。」

 「スマートフォンですよ。携帯ショップとか電機屋に行けば買えますよ。」

 「携帯ショップ?」

 駅員は場所を教えた。駅員は内心思った。このご時世、電車の乗り方やスマートフォンを知らないなんて、一体どんな生活をしていたんだ?とはいえ、物言いは古いものの、人は良さそうで実直、話しぶりから知性を感じさせる。ただ者ではないことは窺えるが、一体何者なのだろう。駅員は得体の知れない不安を感じつつ、何も訊かずに疑問に答えていた。

 ルシファーは厚く礼を言って、直近の電器屋に行き、スマートフォンを買った。携帯の契約時に秘書から貰ったあのプラスチックカードが役に立った。あれはクレジットカードと身分証明書用の免許証だったのだ。

 ルシファーは最新の家電を手に入れて電車に乗り込み、本の町、神保町で降りた。



 神保町を見たときにプトレマイオス一世が欲しかったのはアレキサンドリア図書館ではなくて、神保町の古本屋では無いかとルシファーは錯覚した。町全体が本屋のこの町には、どの店でもうずたかく本が積まれている。この町には無い知識などないのではないのかと思わせる。怪しいビデオショップやコレクターズアイテムを扱う店もあり、良く探せば聖杯も見つかるかも知れない。クレジットカードは誠に便利な代物だ。数時間書店を回っただけで両手が一杯になってしまった。腕に感じる本の重みに満足して、神保町の奥まった場所にある魔窟のようなカフェで一休みしていた。名前はさぼうるという。

 薄暗い店内でコーヒーを頼むと一息ついた。全く知らないことだらけで面白い!パンデミック下であろうとも、人は外に出たがる。ウイルスへの恐怖より好奇心の方が先立つのが人間なのだ。好奇心、猫を殺すの文言にふさわしいのは猫では無く、間違いなく人間であろうに。

 コーヒーを飲みながら、買った書籍のページをめくる。上質紙のページにくっきりと印刷された文字は、地獄のパピルスとは大違いの出来具合だ。あのパピルスはすぐボロボロになるし、保管も難しい。ルシフェルは地獄でペーパーレスを推進していたが、脱パピルスも進めようと、印刷機の更新も決心した。

 と、そのときとなりの席から強い視線を感じた。振り向くと、男がこちらを凝視している。こちらの顔を正面から見ると、男は何かに気づいたようにあっと驚いた顔をして、席から立ちこちらに歩み寄った。一体誰だろうか。

 男は言った。

 「こんなところでお目にかかるとは!お久しぶりです。ルシファー様。アザゼルですよ!」

 「おお、アザゼル!久しぶりだな。元気にしていたか。」

 「ええ、それはもう。相変わらず罪を重ねてますよ。」

 アザゼルは暗いところでもわかる高価なスーツを着ていた。サファイアブルーに縦のストライプが入ったシルクのスーツに、目を見張るような黄色いネクタイ、手首にはスーツの色調と合わせているが輝度を抑えた宝石をあしらった腕時計をつけている。おまけに、ほのかに薫る香水までつけている。あくどい金の匂いがする。

 アザゼルは席を移り、ルシファーと話した。アザゼルはここ80年ほど休暇を取り、音信不通になっていたが、あまり変わっていなかった。

 アザゼルは言った。

 「人間どもに、不動産を売りつけて生計を立てています。全くこの国の人間は不動産が大好きでね。あいつらどんな価格でも買うんですよ。昭和のバブルの時に何を学んだのか。あぶく銭のおかげでおかげで、この国が買えそうですよ。」

 「大金持ちなのに、この下町が好きなのか?」

 「人間なんかより、本の方が面白いのでね。」

 「コロナウイルスとやらで大変なんじゃ無いのか?」

 「いやはやそれが違うんですよ。誰も彼もが、不動産を手放すから、こちらからすれば100ドルを1ドルで買うようなもんです。人間どもの政策を真似て、地獄でも一儲けしようかな。どうです?GoTOトラベルでは無くて、GoTO ヘルとか?金儲けのにおいがしませんか?」

 ルシファーは笑った。流石の悪魔にもネーミングセンスだけは無いようだ。

 「GoTOヘルじゃあんまり人間のウケは良く無さそうだな?」

 そうですかねと、アザゼルは不満そうな顔をした。

 アザゼルは続けた。

 「ルシファー様、なぜいきなり下界に?」

 「有給がたまりにたまってたんでね。下界もしばらく見ていなかったし。」

 「時期が悪いんじゃ無いですか?」

 「そんなことはない。緊急自体のほうが人間の本質がよく見える。」

 思えば前にルシファーが下界に居た時も第二次世界大戦の時だったから、奇妙な偶然なのかルシファーが下界に居るときに限って、世界は慌てている。ルシファーが下界に干渉したりはしないのだが、どうしてもそうなってしまう。傍から見れば、災いをルシファーが引き起こしているようにも見える。

 ルシファーは言った。

 「アザゼル、慌てふためいている世界を見るのは楽しいかね?」

 アザゼルはにやりと笑って言った。

 「そりゃあもう。世界が火に包まれてるところはもう最高ですね。」



 カフェからでるともう夕暮れだった。100年分のおしゃべりは長いのだ。アザゼルに言われて、ルシファーの免許証を見ると住所は、神保町のマンションだった。秘書め、わたしが本好きだと言うことを知って、住所を神保町の近くにしたな。全く憎いことをしてくれる。

 用意してくれた家へ帰宅する道すがら、ニンテンドースイッチを探したがどこも品薄だと店員に言われた。そこでアザゼルが店員を店の裏側に連れて行き何か話し込んでいた。帰ってくると、二つのニンテンドースイッチと青ざめた店員の顔があった。

 受け取りながらルシファーは言った。

 「一体、何をした?」 

 「きちんと金は払いましたよ。」

 釈然としない気持ちで受け取った。まあ、我々は本当は悪魔だから気後れすること無く受け取れば良いのだが。

 帰宅して家に入って、中をざっと検めるとすべての家電が揃っていた。なんとも準備の良い我が秘書。

 アザゼルが興奮気味に言う。

 「おれも触ったこと無いんですよ、スイッチ。早速やりましょうよ。」

 スイッチの箱を開けると、テレビに繋いでスマッシュブラザーズというゲームを起動した。見たことの無いキャラクターが画面内を乱舞して戦っている。配管工やら伝説の勇者やら、なんと女神や天使を模したキャラクターもいる。なんということだ!二人ともあまりの壮大さに息を呑んだ。 目玉とされている対戦モードを使った。

 人間は何というものを作ったのか!これがべらぼうに面白いのだ。アザゼルは伝説の勇者を、ルシファーは地獄の使者とおぼしき魔王を使った。

 画面内でルシファーのキャラががアザゼルのそれを吹っ飛ばすと、口汚く罵った。

 「くそっ、地獄に落ちやがれ!」

 どちらかというと我々は落とす側ではあるのだが。 

 いつの間にか日が落ち、朝日が昇っていた。止めどころを無くしていた。

 はっとして、ルシファーは窓から漏れる朝日に気づいて、置いてあるデジタル時計を見た。プレイしてから3日経っている。

 ルシファーはゲームをポーズして言った。

 「アザゼル、まずいぞ。3日もプレイしている。」

 「げっ、ちょっとやりすぎましたね。」

 「全くゲームという罪作りな機械を作った人間はとんでもなくあくどくて知性があるな。」

 「その人間、地獄に欲しいくらいですよ。」

 アザゼルは自分が経営する不動産会社を3日も空けていた。スマートフォンを見ると、おびただしい不在着信が溜まっていた。悪魔と言えども、流石にばつの悪い顔をする。すぐさま上着に袖を通す。また会う約束をして別れた。

 アザゼルが仕事に行ってしまうと、ルシファーは目を閉じてまぶたを揉んだ。流石に目が疲れた。それから一時間ほど眠ると、起きて本を読んだり、テレビを見たり、買ってきたPCをインターネットに接続して情報収集をした。どれもアザゼルが教えてくれたことだ。

 半日ほど調べると、この町並みを見て、半ばわかっていたことではあるものの、第二次世界大戦後の日本は類を見ないほど驚異的な発展を享受していた。ルシファーが最後見たときには戦争に負けた惨めな国だったが、それを巻き返すように、いまや国際社会の中枢に居る。ある意味では敗戦国ではないのだ。とはいえ別の感想も持った。日本人は中身はまるで変わっていない。それは世界中の人間もそうなのだが。

 渦中のコロナウイルスの対策は、優柔不断の日本人らしくいつまでも、日和見主義的で中途半端な対策しかしていない。また律儀にマスクをしている理由も、感染対策の意味では無く、世間の視線が怖くてしているようなのだ。大戦中、日本には隣組という、まさに醜悪としか言い様がない、民間の相互監視のシステムがあったが、その精神はいまも善意の顔をまとって生きている。しかしごたついているのは日本だけで無く、世界も同様だった。

 このようなパンデミックは初めてではないはずだ。過去にもペストもインフルエンザもあった。しかし紙に書き残した、たった数百年の歴史さえも人間はこうもすぐに忘れてしまうのだ。しかしこれだけの巨大な都市の大きさと、目の前の出来事に右往左往する人々、その対照的なものを比べると、単に人間は愚かとも言えない。ルシファーは偉大さと卑小さの入り交じったところに人間らしさを強く感じていた。

 かくも愛すべき罪深き者たち。それがルシファーが抱いた人間観だ。

 とはいえ、少しならずもルシファーは後ろめたさと哀れみを感じていた。ルシファーが下界にいるときに限って、なぜか世界は混乱の極みにいる。自身が何もしなくともそうなってしまう。偶然なのだが、罪無き人々が散っていくのを見るのもやるせない。我々は悪魔だが、それは慈悲深き天使との対照で、厳格な規律と公正な裁きで召された魂たちの統率を取る執政の象徴のためだ。極めつけの理不尽さで現世を弄ぶのは、ギリシャ神話の中だけだ。

 人間を簡単に見限るのは、失敗した惨めなペシミストの振る舞いだ。放っておくにはもったいない。わたしはもう一度人間が力を取り戻し、偉大さとそれと対照的な愚かさを是非とも見たい。

 ふむ。良いだろう。もう一度チャンスをやろう。そしてわたしを楽しませてくれ。

 ルシファーは音声でPCを操作して、人間界で論文の体をした4ページの電子データを作成して、メールで送付した。宛先は、このヒントをつかってくれそうとおぼしき機関の人間だ。これをどう使うかは、人間次第だ。とはいえ満足な結果がでることを祈っている。世界が息を吹き返したあと、わたしを楽しませてくれることを期待して。

 ルシファーは自分で入れた香り高いコーヒーを飲んだ。

 まだまだ時間はある。待つことは苦ではない。何せ有給休暇は200年ある。それに、悪魔じみた人間が作ったゲーム機も、悪友のアザゼルも、そして何よりも人間が作ったこの世界がある。

 さて次は何をしようか。

 人間界にはこんな格言があるそうだ。

 天使のように貪欲で、悪魔のように勤勉だ。

 この格言を作った人間は我々のことをよく知っているようだ。



 とある米国の研究者が差出人不明のメールを受信した。コロナウイルスのワクチン研究で残業に次ぐ残業により疲れ切っていた研究者は迷惑メールかと思い、ゴミ箱に捨てようとした。しかし添付してあるPDFのタイトルを見て、興味を持った。

 タイトルの名前は「自己増殖型mRNAを用いたワクチンの開発」とあった。

 それを見た途端、電撃のような興奮が背中を走った。残業の疲れなど一瞬で吹き飛んだ。興奮で震える手でファイルを開く。さらに驚愕した。

 研究者は興奮でしびれた脳で思う。

 もしかしたら、これでワクチンを開発して、世界を救えるかも知れない。差出人は不明だが、そんなことはどうでも良い。我々の知りたいことが余すところなく書いてある。 研究者は慌てて、同僚にこのメールを転送、会議の緊急招集を掛け、ドアを蹴り飛ばし、「ユリイカ!」と叫んで

廊下に飛び出した。

 この手法で、ワクチン開発成功のニュースが世界に駆け巡るのはまだ数ヶ月先のことである。

 ルシファーの悪巧みとも、誰も知らずに。



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