うさぎを月まで連れてって
柿尊慈
うさぎを月まで連れてって
どこかの家の中では年越しを祝うべく楽しげに拍手しているというのに、俺は年明けからたったの3分で、2メートルほどの背丈がありそうなウサギが電柱に手をついて泣いているのを見つけてしまった。
「どぼちて……。どぼちてボクを置いて行くのぉおおお……」
ウサギと判断したのは、そのうな垂れる頭から長いウサギの耳らしきものが生えていたからだ。もしその耳が見えなかったら、みっともなく泣きじゃくる男性の声とガタイのいい真っ白全身タイツという情報から瞬時に危険を察知し、俺は足を早めたに違いない。
いや、ウサギの耳がついていることによってより危険度が増しているような気がするが、そのときの俺は「まあウサギは寂しがり屋だもんな」と納得して、あろうことかその広い背中に声をかけてしまったのである。
「どうしたんだ、あんた?」
俺の声に、ウサギが振り返った。おもしろいことに、これが本当にウサギの頭だったんだよな。そのまま人間サイズに拡大したような大きさの頭。近所の小学校では情操教育の一環でかわいいうさちゃんを飼っているらしいが、そこの子どもたちがこいつを見たら泣くか漏らすかしてしまうだろう。目が真っ赤なのは泣きすぎたからか、元からか。
電柱には大きな木槌が立てかけてある。柄の部分が1メートルほど。槌の部分はドラム缶ほどの大きさで、それで殴られたらひとたまりもないだろうことが容易に推測された。
遠めに見ると全身タイツなのだが、よく見るとふさふさとやわらかそうな毛が生えている。人の言葉を喋っていたところを見ると、言語を処理するだけの大脳およびそれを発音する声帯や舌はかなり発達したようだが、手についてはそのまんまうさぎの手だった。指がほとんどない。どうやってその木槌を掴むのだろうと疑問に思う。あとで思い返すと、どう考えても不思議に感じるべきはそこじゃなかった。
「うう……。あけましておめでとう、通りすがりのやさしい人」
そのウサギハンドで涙を拭って、彼は俺に新年の挨拶を述べる。つられて俺も、あけましておめでとう、今年もよろしくと返してしまった。初対面の相手に、だ。しかも、巨大ウサギ。普通ならよろしくしたくない。
「ここで会ったのも何かの縁。ボクが今こうして途方にくれている経緯を聞いてくれるかい?」
ガタイがいいわりに気弱な声で、今更俺は笑いそうになる。だが、泣いている人を笑うのは人として最低な行為だと自覚しているので、俺はまるでケンカして帰ってきた子どもを慰めるような温かい笑顔で彼の話を聞くことにした。俺には子どもも妻も彼女もいないし、こいつは明らかに泣いている「人」ではないけれど。
「ボクの名前は
けどまさか、月面に田んぼがつくれるはずないでしょう? ボクたち月の住人は自給自足がほとんどできないから、ボクたちに理解のある地球人を介して、そういった食料品を手に入れなきゃいけないんだ。
それはお餅についても同じ。餅の材料は、毎年地球に降りて親切なおばあさんからもらうんだけど、今年はお餅をくれたお礼に、おばあさんの肩を叩いてあげてたんだ。けど、いったん材料を宇宙船に入れてからおばあさんの部屋に戻ったものだから、ボクが宇宙船に戻ったと勘違いした仲間たちが、ボクを置いて月に戻ってしまったんだよ。宇宙船が飛ぶ音は大きいから、ボクが叫んでも気づかなかったみたい。1往復分の燃料と食料しか積んでなかったから、ボクのために戻ってくることはないと思う。
一応、さっき通信機で連絡を取ったんだけど、地球人に情が沸いて任務を忘れるやつなんか知ったことかと、怒られてしまったんだ。お前がいなくても餅はつけるが、お前が持ったままの伝説の木槌がなければうまい餅が完成しない。どうにかして木槌だけでも月へ返せと言われて……。でも、木槌だけ月に返すことなんかできないし、これがないと正月を楽しみにしている月の子どもたちもきっと悲しんでしまう。いったいどうしたらいいのか悩んでいたところに、ちょうど君が話しかけてくれたんだ。
そうだ、君の名前は何て言うんだい?」
源田はそう言って首を傾げた。
「
死んだおばあちゃんの言葉を思い出す。
彼女は正月の餅づくりに人生を捧げていたと言っても過言ではなく、まさに餅職人であった。彼女が目指していたのは、とにかく粘度が高くやたら伸びる餅で、彼女が亡くなる年の正月には、5メートルも伸びる傑作をつくりだすことに成功したのだ。
そしてその強すぎる食べ応えが祟り、彼女はその餅を喉につまらせ死に果てた。俺は泣きながらその餅にかじりついて噛み切ろうとしたがとにかく伸びるので、その伸びた部分をノコギリで削って無理矢理断ち切ったのを記憶している。たしかあれは、俺が10歳の頃だった。
あれから10年。俺はおばあちゃんの意志を継ぎ、年末が近くなると伸びる餅の研究に没頭した。青春真っ只中の俺は、さすがにおばあちゃんのように人生の全てを餅に捧げるようなことはできなかったが、年末年始だけはおばあちゃんがそばにいるような気がして、年越しそばには目もくれず、ひたすらに餅をついては試食するのである。
俺が源田を見かけたのは、大学から帰省して来た幼なじみの
どういうわけか俺は、ウサギの知り合いができた。こんなことは初めてなので、あとで天国のおばあちゃんに報告しておこう。
さて、2メートルのウサギを引き連れてはいるものの、年越しの瞬間に初詣をしようという人はあまり俺の住んでいる地域にはいないらしく、源田を誰かに目撃されることはなかった。
「連太郎か、いい名前だね」
源田が、心の底から感心しているように言う。俺は、恥ずかしさを誤魔化すように続けた。
「困っている誰かの手を取って、目的地まで連れていってあげる子になるようにって、俺のおばあちゃんが名づけたらしい」
餅太郎という案もあったらしいが、そんな駄菓子みたいな名前はちょっと、ということで連太郎になったという経緯もある。意見が通るまで餅のように粘り続けるおばあちゃんを説き伏せて連太郎を選んでくれた両親には、感謝してもし切れない。
しかし、困っている誰かどころか、まさかウサギを連れて歩くことになろうとはね。
マフラーをしてこなかったことを後悔しつつ、俺は裸同然の源田が寒そうにしていないか確認すべく振り返る。心配して損した。堂々と歩いていらっしゃる。毛が発達しているので、もしかすると下手なコートなんかよりも温かいのかもしれない。出会ってから10分ほど経ったので、さすがに泣き止んだようである。ウサギだから目は赤いままだけど。
「よし、着いたぞ」
俺たちは一軒家の前に立つ。住処の方はあまり豪勢に装飾しないようで、正月らしさを感じさせない。夜闇のせいで一層灰色に見えるブロック。鍵がロクに機能していない門。俺は無遠慮にそれをガラガラと横に引く。
「ここは、連太郎の家かい?」
きょろきょろしながら源田が尋ねる。俺は表札を指差して首を振った。
「ここは比嘉の家だよ。俺の幼なじみで、頼れる男だ。きっと力になってくれる」
「――年明けの0時30分に家を訪ねてくるという非常識さには、まあ目を瞑ろう」
比嘉は玄関先で、腕を組んでうんうんと頷く。赤みを帯びたくせ毛が揺れる。大学デビューで染めたらしい。どういうわけか、バスローブを着ている。
「だが、そんな得体の知れない巨大ウサギを連れて来るってのはどういうことだ!」
比嘉が叫ぶ。俺たちは耳を塞ぐ。源田は耳の位置が違うので、頭を守っているように見えた。
「巨大うさぎじゃないよ、源田だよ」
弱々しく、うつむき気味に源田が言う。
「しゃべった! しゃべりよった! イマドキのうさぎはしゃべるのか!? いや、夢か、これは!?」
酒を飲んでいたらしく、妙にリアクションのテンションが高い。
俺は端的に源田の事情を説明し、まるでお参りするかのように手を合わせた。
「そういうわけだから、力を貸してくれよ」
「力を貸せったって、どうしろってんだよ。俺が宇宙船を持ってるとでも思ったのか?」
ぶつくさ言いながら、比嘉はちらちらと家の中に視線を送る。耳を澄ますと、少しだけ水の音が聞こえた。
「そういえば、おばさんたちはいないのか?」
比嘉のご両親に、新年の挨拶をしたかったんだが。
突然、比嘉が不敵に笑う。何だこいつ、気持ち悪いな。
「あいつらなら今頃旅行中さ。俺が贈った新幹線の切符を握って、伊豆温泉を満喫してるだろうよ!」
ふあっはっは、という高笑い。
「孝行息子だな」
「まあ聞くが良い、蓮本!」
聞きたくはないけど、聞けといわれたら聞くしかないか。源田は頷きながら比嘉の言葉を待つ。いいやつだな、こいつ。だから置いてかれるんだよ。
比嘉は咳払いをする。
「実は今日、俺は大学でできた彼女を連れ帰っているのだ! どうしても実家の神社を見てみたいって言うもんだからな……。年越し初詣がしたいとも言っていたが、外は寒いし、初詣は朝にして、今夜はお互いの熱で温め合おうぜ……? というイカした文句を決めて、今その彼女がシャワーを浴びているところなんだよ!」
はあ、だから親を追い出したのか。孝行息子なんかじゃないな。
比嘉がくねくねし出す。
「これから俺は、スタイル抜群の美女と体を重ね合わせ、新年も楽しく過ごせるといいね、ハート、なんて甘い言葉を囁き合うのさ。だからぁ! そんなよくわからねぇうさぎ型巨大宇宙人のことなんか、気にかけてる暇はないんだよ! 月に帰るっていうんなら、俺が趣味で使ってるトランポリンを貸してやるよ……。それでピョンピョン跳ねてれば、そのうち月にも届くんじゃねぇのか? ハーハッハ!」
そんなわけで、俺たちは比嘉から本格的なトランポリンを借りることに成功した。
このあたりで一番標高が高いのは、先ほど初詣に来たばかりの、比嘉のところの神社だ。俺と源田は、せっせとトランポリンを持ちながら階段を上っていく。さすがに源田も、トランポリンは見たことなかったらしい。月面は地球よりも重力が云々かんぬん、まあとにかく簡単に高く飛ぶことができるので、ジャンプして遊ぶという感覚があまり理解できないらしい。
加えて、源田はうさぎだ。きっと相当の高さを記録するに違いない。いや、目的は記録をつくることじゃなくて、月に帰ることなんだけどさ。
俺たちは階段を上り切ると、そこにトランポリンを設置する。源田は、やたらと揺れて運びにくかった謎の物体をまじまじと見つめた。
「ここに飛び乗って、垂直にジャンプしていくんだ。張ってある布がびよんびよんするけど、それをバネにしていけば、だんだん高く跳べるようになるから」
源田は頷いて、片足を布の上に置く。小さく声を漏らしてよろけるが、だんだんと仕組みがわかってきたようで、体が真っ直ぐになってきた。
びよん、びよん。
高さが出てくる。さすがはうさぎ。既に8メートルくらいの高さまで跳べるようになってきた。
「気をつけろよ! 高く跳び過ぎると、その分トランポリンに着地しにくくなるからな!」
源田の「わかった」という返事が上下する。
1月1日の0時すぎ。神社の境内で、2メートルのウサギがトランポリンで月を目指して跳ねている。傍からみればさぞかしシュールだろうが、俺たちは本気だ。俺の手に、汗が握られる。源田から預かっていた木槌が、手から滑りそうになった。
「今なら、いけそうな気がするよ!」
激しく上下しているせいで近くなったり遠くなったりしながら、源田の声が届く。周囲には誰もいないので、やたらと反響した。
ジャンプの最高位置は相当なもので、地上から見ると、月に源田の影が重なるほどである。よし、行けるかもしれない。
「行け、源田ァ!」
俺の声に合わせて、トランポリンに着地した源田は大きく重心を下げる。勢いが相当なので、トランポリンが軋む音がした。ぎぎぎぎと、今にも壊れそうな音。そして――。
「うおおおおおおおおお!」
月を目がけて、源田が最高の跳躍を見せる。その跳躍の勢いは凄まじく、近くにいた俺は風圧に軽くよろめいた。がさがさと、木々が揺れる。
源田の影が小さくなっていく。月を目指したため、垂直ではなくやや角度をつけた跳躍。もう、米粒ほどのサイズになっている。
行け! このまま大気圏を突き抜けて……。
「――まずい! 高度が足りない!」
俺は叫ぶ。思わず、木槌を地面に振り下ろした。大地が激しく震える。
空を突き抜けていた源田のシルエットは途中で失速し、やがて長い耳を地面の方に向けて猛スピードで墜落していく。
「――まずい、そこは!」
俺の声が、届くはずなかった。
源田は、神社から少し離れた建物の屋根へと落ちる。バキバキと、激しく天井が割れる音がした。ここからじゃよく見えないが、衝撃は相当なものだろうことが想像された。
「ぎゃああああああああ! ウサギが天井破って降ってきたああああああああ!」
元日0時42分の夜空に、熱い夜を過ごそうとしていた哀れな比嘉の叫び声が轟く。
外だというのにバスローブ姿のまま、比嘉が腕を組んでいる。俺たちは石畳の上に正座をさせられていた。
「トランポリンで月を目指すバカがどこにいんだ!」
比嘉の怒鳴り声。
「お前が使えって言ったんじゃん」
俺が反論すると、源田はこくりと頷いて同意した。
比嘉の怒りは収まらない。
「こいつが降ってきたおかげで、甘い夜が台無しだよ! ほら、見ろ!」
比嘉がスマホの画面を見せてくる。メッセージアプリのトーク画面。カオリちゃんというらしい女性とのやりとり。
「信じられない、最低……だとよ! どぉうしてくれんだ! あの娘を口説き落とすのにどれだけの時間と労力と金銭がかかったと思ってるぅあ!」
怒り狂ってロクに発音できていないので、とりあえず雰囲気から心情を察することにした。
「ごめん」
「ごめんなさい……」
俺と源田はぺこりと頭を下げる。比嘉は頭を掻きむしった。赤く染めた髪が1本切れて、石畳の上に落ちる。
「それに、それにだよ!」
比嘉は賽銭箱の方を指差す。
「賽銭箱の近くに餅を置くんじゃねぇよ!」
待ってました、その言葉。今年がやっと始まった気がする。
「今年も、すごいのができたぞ」
俺の言葉を聞いて、源田が興味ありげに餅を遠目に見ているが、比嘉はそれどころではないらしい。カオリちゃんとやらの機嫌を取るべく、必死にスマホを叩いている。
しかしその健闘も効果がなかったのか、やがて彼は膝を、次いで両の手も地面についた。全身で、絶望を体現している。
見かねた源田が、比嘉の肩に手を置いた。ウサギに慰められる成人男性の図。
やがて、比嘉が顔を上げた。歯を食いしばって、怒りにうち震えている。バスローブだから、寒かったのもあるだろうけど。
「こうなりゃヤケだ! てめぇを
俺は、衝撃に耐え切れずパーツの折れた無残なトランポリンの亡骸に目を落とす。後日、弁償しよう。
「でも、トランポリンがダメだったんだから、もうどうしようもないよ……」
源田が弱音を吐く。比嘉が彼を振り返り、目を光らせた。
「――俺に考えがある」
「考えがあるといったわりには、随分と雑なアイデアじゃないか?」
自分の体よりも大きな木の枝――枝という言葉で表現するには違和感のあるサイズ感――を抱えながら俺は言う。同じように枝を抱えた比嘉が、およそ2メートルほど先で叫ぶ。
「やってみなきゃわかんねぇだろうが! 遠くにものを飛ばすっていったらパチンコだって、人類の歴史が語ってるんだよ!」
どんな歴史の語り方だ、それは。俺はひとりごとを飲み込む。
さて、この木の枝が何かというと、神社に生えていた立派な大木から折ったものだ。別に実家を継いでいるわけじゃない比嘉が許可を出してくれたので、遠慮なく折らせていただいた。もちろん、人間の脚みたいな太さの枝を手で折るなんてできないので、これは源田が木槌を持って跳躍し、枝を打ちつけてバキリと折ったものだ。およそ2本の枝の高さは同じで、上の方には伸ばした餅がくっついている。
「お前のつくったバカみたいに伸びてバカみたいに丈夫な餅なら、きっとゴムの代わりになると思ってな!」
おばあちゃん、ごめんな。俺は月に帰れないウサギのために、おばあちゃんの大好きな餅をパチンコノゴム代わりに使っているよ。この餅は、あとでスタッフ(比嘉)がおいしくいただく予定だから、許してくれよな。
ちなみに、ご存知の通りパチンコはアルファベットのYの字のような形をしたものの、2股になっているところにゴムをひっかけるのだが、さすがにそんなY字型の枝は生えてなかったので、2本の枝の先にゴムを張ることで代替した。ちょうど、走り高跳びのポールや鳥居みたいな形になっている。
その張られた餅の中央に、源田が木槌の先を引っかけた。餅がゴムなら、木槌はパチンコ玉。パチンコの要領で、月まで木槌をぶっ飛ばしてしまおうというのが比嘉の考えた作戦だった。槌の部分を持って、源田が後ろに下がっていく。餅が伸びる。なかなか奇妙な光景だ。
「おめぇみてぇなデカいウサギを飛ばすのは無理がある。だからひとまず木槌だけで試してみようってわけだ。木槌が無理なら、必然的にお前も無理だからな」
なるほど。実現可能性の高い方から実施した方がいい、ということか。
「これ、すごい力いるよ……」
源田が、情けない声を途切れ途切れに発しながら、まるでトラックをロープで引っ張っているかのような重苦しさで、俺のつくった餅に引っかけた木槌を引いている。当然だ。おばあちゃんから受け継いだ最強の餅を舐めては困る。こんな頑丈にしたら人間が食えねぇだろうが、何考えてんだ、という比嘉のひとりごとが聞こえたが、俺は聞こえないフリをした。
「ちゃんと照準を合わせろよ! 角度がずれると、ちゃんと月まで届かねぇからな!」
比嘉が源田を激励する。一見するとバカらしいこういうことにも、ちゃんと付き合ってくれるのがこいつのいいところだ。実際、毎年俺がつくっている餅もおいしさよりも強度を追究したものだから、ロクに食えたもんじゃない。だが、それでも比嘉がかじりつき、必死に噛み切ろうとしているシュールな光景が、毎年この神社を訪れる人たちに初笑いをもたらしてくれている。比嘉のそういう部分はとても素晴らしいので、天井からウサギが降ってきたくらいで別れを告げるカオリちゃんとやらは、男を見る目がないなと思った。思うだけで言わない。そんなこと言っても比嘉は調子に乗るだけだ。
さて、そんな強烈な餅をゴム代わりにしているわけだから、それを支えている俺たちもかなりしんどくなってきた。全身で、木の枝を支える。顔が熱い。バスローブ姿の比嘉も、今は完全に寒さを忘れているようだ。
「も、もう限界かも……」
これ以上踏ん張れなくなったらしい源田が、5メートルほど先で呻くように言った。ずるずると、源田の体がこちら側に動いている。
「バカ野郎、もっと粘れ! ――ええい、粘るのはもういい! 月を狙え! そうすればもう、手を離したっていい! このまま月を叩き割るくらいのつもりでやれよ! 外したら許さねぇからな!」
「うああああああああああああ!」
比嘉の応援の直後、源田が手を離す。バギュンという鋭い音が聞こえたので、俺は耳が壊れたかと思った。しかしそれを感じた直後、支えていた枝の間を超高速で木槌が駆け抜けていったので、俺と比嘉は枝を抱えたまま石畳の上に倒れこむ。耳が痛いやら体が痛いやらで、どこを押さえたらいいのかわからない。
「行ったか?」
俺は空を見て呟いた。月を目がけて飛んでいった木槌は、もうその影すら見えなくなっている。無事に辿り着いたのかどうかさえわからない。
源田がフラつきながら戻ってくる。仰向けに倒れた俺たち2人と1匹は、しばらくぜえぜえと息をあげながら、正月の夜の寒さを全身で感じた。寒いけど、不思議と心地いい。
パルルルル、という謎の電子音がしたと思うと、源田が右の耳の中から通信機らしいものを取り出した。耳には色々収納できるのかと、俺は月面で進化を遂げたウサギという種に感心する。
『――源田か? よくやったな。無事に木槌は届いたぞ』
ノイズがひどいが、およそそんな感じの声が俺たちにも聞こえた。おそらく、先ほど源田に木槌だけでも月に戻せと命令していた誰かだろう。本当に、無茶なことを言うウサギだ。
声の主が、気まずそうに続ける。
『だがその――その木槌が停めていた宇宙船に突き刺さったもので、宇宙船が派手に壊れてしまった。燃料が揃い次第お前を迎えに行こうと思ったが、宇宙船をほとんどゼロから造らなければならない状況でな……。100――いや、70年だ。70年あれば宇宙船も完成するだろう。それまで、地球で待っていてくれたまえ。必ず迎えに行く。それと、あけましておめでとう』
ブツン。通信が切れた。静寂に包まれる。源田は悲しそうな表情ではなく、ただただきょとんとしているようだった。俺もどんな顔をしたらいいのかわからない。
すると、比嘉が小さく吹き出し、やがてバカみたいな大声で笑い出した。俺と源田はしばらく、そんな比嘉の横顔を不思議そうに眺めていたが、比嘉につられ、寒空の下で体が上下するほど笑ってしまう。石畳に寝転んでいるせいで背中が、笑いすぎたせいで腹が痛い。
そんな俺たちを、まるでおかしなものでも見るかのように、やたらと綺麗な月が見下ろしている。
月のウサギたちにはファミリーネームという概念がないようで、俺たちの世界なら名字であろう「源田」という名前も、どちらかというと固体識別番号、つまりは「下の名前」の意味合いをもっていた。しばらく月に帰れそうにない源田は、『源田餅太郎』という名前で俺たちの街で生活するようになる。
「よし、今年こそは行けるんじゃないか? 手離すなよ、蓮本」
「任せとけ。源田、準備はいいか?」
「うん、大丈夫。ありがとうね、ふたりとも」
かといって、源田を月に帰すことを諦めていない俺と比嘉は、年越しの夜には毎年、木槌を飛ばした装置と同じものをつくって、パチンコ玉代わりに源田を引っかけて飛ばすことにした。ガタイのいい源田が強力な餅に寄りかかっている姿は、さながらロープの反動を使って相手を倒そうとしているプロレスラーのようである。
年々弾性を増していく餅。いつの日か、宇宙船の完成を待たずとも、源田を月に帰せる日が来るのかもしれない。しかし源田は、もはや街の人気者だ。帰したら帰したで、街の人たちは悲しむだろう。俺たちも寂しい。万が一本当に飛んで行ってしまったらどうするつもりなのか。そんなことは考えないようにして、毎年俺たちは、この不思議な時間を過ごしている。
「行くよ!」
源田が足を浮かせると、すさまじい速度で餅は元に戻ろうとし、もはや慣れてきたソニックブームのような衝撃波を残して、源田は空高く飛んでいく。
「行けるか、行けるか!?」
俺は声をあげるが、源田は途中で失速し、建物目がけて墜落する。
「ぎゃああああああああ! 俺の家がああああああああ!」
毎年、元日の夜空に、哀れながらも楽しそうな比嘉の叫び声が轟く。今やこれが、街の人たちの初笑いになっていた。
(おわり)
うさぎを月まで連れてって 柿尊慈 @kaki_sonji
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