第5話「二文字はきっと、ココロの中」
入社して十日ほど経った新人君。28歳、独身。
彼は車が無いので、片道40分かけて自転車で通勤している。
今朝は雨がぱらついていたが、傘を差しながら漕いでくる彼と玄関前で出くわした。
「おはようございます」
挨拶の声は大きく出ている。けれど硬い。
黒のスーツに身を包み、似顔絵を描くなら毛筆がぴったりの濃い顔立ち。それが人を前にすると緊張で険しくなる。眉根の縦皺が深くなり、眼光は直球、口は発生練習さながらめいっぱい開き、最後は仕掛け人形のようにカクッと身体が折れるのだ。
思わずこちらも歯を食いしばってしまいそうになる。それでも、彼の抱えたお弁当バッグの白を見ていると、奥歯のあたりからほぐれていくようだった。
彼は新設されるシステム部門の配属第一号である。
そこはまだ準備段階で環境が整っていない。プリンターやFAXが置かれているブースの、端っこの空きスペースに座って、とりあえずは事務の手伝いをしている。無心にキーボードを打っていたり、書類を手にして右往左往しているときもある。
昼前のことだった。
新人君は注文伝票を作成しているうちに、納期のことで『?』となったため、先輩たちへ質問をした。
先輩A「設定コースと納品希望日が一致してないから、クライアントへ確認の電話を入れて」
新人君はコミュ二ケーションが苦手で、電話をかけることが億劫だった。
前職でも発言するのは会議の時ぐらいで、あとは黙々とキーボードを打って終日過ごしていたという。
休憩時間になり、先輩Aが外出したので、今度は先輩Bに尋ねてみた。
先輩B「俺だったら電話なんてしないよ。だってお客さんが希望日を書いているんだから。コースが該当しない? だったら料金が割り高になっても仕方ないでしょ」
新人君はしばらく立ち尽くしていた。入社してから自分が起こした注文伝票たちが頭の中を巡り、手にしている書類はどんどん重くなる。先輩Bはそっぽを向いて見積の続きに戻った。
「正解はどれですか」
「はあ?」
「正解は、どれですかっ!」
「ねえよ。どれにも正解なんて、ねえんだよ」
「じゃあ……。僕が、僕がやってきたことは……。うっ」
新人君は足早に席に戻ると動かなくなった。
これは事務所内での出来事。
このあと、彼はしばらく何も手につかないようだった。
「やべえかもね」
事務所の人間が入れ替わり給湯室に来ては、首を捻ったり渋い顔をしていった。
午後、運送業者が現れて事務所脇のホールが賑やかになる。
様子を見に行った女子達は戻ってくるなり、あれって必要? 私も欲しい! などと談笑している。
ホールには新品のデスクと椅子が届いていた。その傍らには折りたたみ式のパーテーションがあり、笑っていたのは、きっとパーテーションのことだろう。
事務所にいくと、FAXの前に立っている新人君がいた。
送信したものの、呼び出し音が切れてはまた鳴り続ける、を繰り返しており、完了するのを待っている。
先輩Bは、かったるい様子で彼を一瞥すると廊下に出ていった。どうやら、さっきの彼の正解は解決に至ったらしい。「あいつ、営業無理」そんな声を耳にしたが、新人君に届いていたかはわからない。ただ、無事に送信を終えた彼の、筆字のような眉毛がいくぶん緩んだように見えた。
ホールにまた荷物が届き、新人君の環境は着々と揃いはじめている。段ボールの隙間から見えた、デスクの天板の白が彼のお弁当バックと重なった。
ここに向かって彼はキーボードを叩く。パーテーションが彼のエリアを作り、保護する。そこで喧騒を上手くかわし、答えを求め、答えを出しては弾き続ける。
黙々と自分の世界に入り込む彼を想像してみる。彼の領域のことは、ここの誰にもわからないだろう。彼が出した結果を、パーテーションの陰から覗いてみたいと思った。そして、時にはこちら側にも問いかけてほしいとも。
夕方は傘が要らなかった。玄関で靴を履き替えていると、新人君が会釈をして出ていった。たたんだ傘を自転車のアームに掛け、鞄とお弁当バッグを前カゴに入れて漕ぎだした。
正解、それがないと前に進めないひともいる。それが無くても進めるひとがいる。彼はずっと追い続けてきたのだろうか。
傾いた陽にまぶしそうに顔を向けた後、彼は前のめりになってスピードを上げて行った。その後ろ姿はしなやかだった。
きっと明日も、40分かけて、彼は来る。
【ひとかけの☆ Scene】 小箱エイト @sakusaku-go
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