王の盾持ち

有馬美樹

第1話 王の隠し子

 明るい栗色の髪をした十七、八の少女が生まれたばかりの赤子を抱いていた。

 初めて生んだ赤子であり、どう育ててよいものかわからない。実子を産んだことがない養父母も同じであった。

 結局、養父母の家に出入りしている女たちの手も借りて、懸命に育てていた。

 父親の名前は明かせなかった。だが、この地域を治める貴族の館に少女が通っていたことを誰もが知っている。

 折々にその貴族から遣いの馬車がやってきて、少女の家を訪ねることもある。

 美しい女の子であった。きっとその貴族のとしだね身籠みごもり、産んだのだろう――そのように囁かれていた。


 少女の名はトワネット。プロヴァンスの大地が育てたあどけない少女である。

 農村生まれだが、その貧しさから間もなく人に売られてしまった。だから実の親の顔はおろか名前すら知らない。

 彼女は幼くして町の商家へと引き取られ、子供のいなかった養父母の愛情を一身に受けて育った。温暖な大地に降り注く太陽の日差しを浴びて、顔立ちは咲き誇る花のように華やぎ、強い北風にも倒れない草木のように丈夫な身体に育っていった。

 町の若い男たちは彼女の心を射止めようとしたが、その誰も彼女の心を虜にできずにいた。今まで手塩にかけて育ててくれた養父母を置いて家を出る覚悟が年若い彼女に定まらなかったこともある。


 ある時、地元の貴族のお屋敷に品物を納めに行った父に付き添った日、少女は運命的な出会いを果たす。父親よりも少し若いくらいの偉丈夫いじょうふと目が合ったとき、彼女の胸に何か言葉にできないかっと熱いものが芽生えた。十六になったばかりの少女である。何物かわからぬ感情を胸に秘めたまま、その日は何事もなく帰った。

 後日、その貴族から丁寧な手紙が届いた。文字が読める養父母のおかげで読み書きを学んでいた彼女は、受け取った手紙を開いて、言葉を失った。


 美しい少女よ、君の名前は何というのか。

 プロヴァンスの色とりどりの花のように咲く乙女よ、君の名前は何というのか。

 願わくばもう一度、その可愛らしい顔を見せておくれ――


 かっと燃えるような何かが全身を包んでいった。美しい金髪を生やした眉目秀麗な貴人の顔立ち、蒼穹そうきゅうよりも澄み渡った青い瞳を思い出して身が震えた。同世代の町の男たちとはまったく違った雰囲気を帯びた彼の虜になっていた。

 それから少女は貴族のお屋敷に通うようになった。品物を納める養父の付き添いに始まり、乞われてお屋敷にひとりで出仕しゅっしするまで時間はかからなかった。

 その貴族の屋敷には立派な馬車がやってきて、彼女の心を惹きつけてやまなかった貴人を連れてくる。お屋敷で働けばあの御方に逢えるのだ――少女の心は弾んだ。

 貴人はずっと年下の少女をとても可愛がってくれた。使用人のひとりとして貴人の傍にいることを許された彼女は、やがて貴人の寵愛を受けるようになった。数え十七になった頃、少女のお腹の中には新たな生命が宿っていた。


 こうして、未婚の少女は貴人――ブルゴーニュ大公アルテュールの落胤をこの世に産み落としたのであった。


 ***


 ブルゴーニュ大公アルテュールという人物に触れておかねばならない。

 ヴァロワ朝フランス王家の分枝の一つにしてブルゴーニュ公国を治めた一門に生まれたアルテュールは若くして父を亡くしていた。商業の発展が著しい低地諸国を奪い取ろうとしたフランス王の策略で暗殺されたと言われているが確たる証拠はない。

 いずれにせよ、十八歳になったばかりのアルテュールは家門を相続し、先祖伝来の領地を周辺国から守り切る戦いを余儀なくされた。その後ろ盾として彼はフランスと長く敵対したイングランドと結んで、正妻を迎えている。一方で軍備増強にも努め、たびたび領土に攻め込んできた外敵を撃退していた。

 最初の十年で領地の維持に努めたアルテュールは、一転して領土拡張に転換した。ブルゴーニュ領は内陸のブルゴーニュ地方と北海沿岸のフランドル地方に分断されていたが、これを結ぶ回廊地帯を親フランスの貴族が治めていた。その貴族がアルテュールの留守に領内に押し入ったのを好機到来とみて、逆に回廊地帯を奪い取ったのである。これがフランス王の逆鱗に触れ、以降十年にわたる戦争を招いた。

 アルテュールはそれまでの軍隊が騎馬と歩兵の混成で一部隊としていたものを改め、兵科ごとに部隊を編成する軍制改革を成し遂げていた。新兵器である火砲の運用にも努め、異なる兵科を効果的に動かすという野心的な用兵を行っていたのである。

 十年間ずっと守勢に留まっていたブルゴーニュ軍は大河の堤を破ったがごとく怒涛の勢いで緒戦の勝利を重ねた。しかし、隙あらば漁夫の利を得ようと画策するイングランドに対する牽制も疎かにできず、フランス王を決定的に叩くまでにさらに十年を要した。

 当主となって二十年目。機が熟してフランス王を打ち破ったアルテュールは和平を結び、本領ブルゴーニュから地中海沿岸プロヴァンスに至るまでの広範な地域を正当な領地としてフランス王に認めさせた。もはや公国ではない、新たな王国がそこに生まれた。

 先祖伝来の領地には成年に達した息子たちを配して統治させた。地域の貴族たちと婚姻を進め、息子たちは確実に根を下ろしていった。絶頂期を迎えたブルゴーニュ公国に思いがけず冬がやってきた。二十年連れ添った愛妻の死が大公を蝕んだ。

 新しい領地プロヴァンスにやってきた大公にかつての精力はなく、抜け殻のような有様に映った。何人もの貴族たちが美しい娘を連れてきては後妻を娶るように勧めたが、誰も彼の心を動かさなかった。そんな涸れ切った彼の心をなぜか捉えてしまったのが、あどけない町娘に過ぎない十六歳の少女である。理屈を超えた不思議なめぐり逢いというべきか。

 こうして、大公アルテュールは自分の娘にも近しい年頃の少女を愛した。八人目の息子が生まれたのはそのような経緯であった。


 ***


 少女トワネットが産んだ息子は「レオナール」という幼名で育てられた。真の名が別にあったが出自を隠すために伏せられた。貴族が娘を輿入れさせたがっているのを断っている手前、町娘を息子の母として宮廷に入れるわけにいかず、少女もまた養父母から離れるのを躊躇ったからである。

 大公アルテュールは母子の行く末を案じて、地元の貴族を通じて母子を援助した。貴族の隠し子であると思われていたのはそのせいである。そのような関係が二年近く続いた後、またしても彼に転機が訪れる。


 それははるか東方――地中海の果て、アナトリアからやってきた。「スルターン」と呼ばれる異教徒の大王が代替わりを迎え、即位した若き征服者が西のヨーロッパに向けて侵略を開始したのである。

 文化人をはじめとする幾多の亡命者が彼の国にも押し寄せていた。地中海を隔てた彼方に異教徒の帝国が勃興して脅威となりつつあることを大公は思い知った。

 アドリア海の東、バルカン半島の南部を侵食した征服者は、古代ローマ時代からの千年の古都コンスタンティノポリスを孤立させ、わが物にせんと企んでいた。これに待ったをかけたのが大公アルテュールである。

 かつて仇敵フランスを倒すために編成された常備軍がヨーロッパから異教徒を退ける戦いに向けて進発していく。それを自ら率いた大公は四十歳を過ぎていた。息子と同じ世代の若い征服者との戦いが彼に残された寿命を食い潰していった。

 プロヴァンスに残した母子が彼には気がかりだった。彼が亡き後、誰が彼女たちを守っていくのだろうか――と。しかし、ヨーロッパの命運を双肩に担う彼に、地位のない母子の行く末を想う隙など容易には与えられなかった。


 征服者がコンスタンティノポリスを去り、仮初かりそめの平和が戻ると大公はプロヴァンスに凱旋した。王様の還御かんぎょと熱狂する大衆に混ざり、若き母親と手を繋いで王者の帰還をじっと見つめていた息子は数え五つになっていた。

 アルテュールは久しぶりに母子を貴族の屋敷に招き、二人の無事を喜んだ。そこで彼女たちの人生を決定づける大事な話を切り出した。

 レオナールと呼ばれた息子は彼が引き取って貴族の屋敷に預けることにした。これまで育ててくれた母と別々に暮らすのだ。そして、まだ若く美しい母には彼に代わり彼女と添い遂げていける新しい夫を見つけることを約束した。この先また異教徒との戦争が待っている彼がいつまで生きていられるかわからないためだ。

 こうしてアルテュールは母子との煮え切らない関係を整理した。息子を立派な騎士に育ててみせる――涙を浮かべる女にそう誓って、未だ愛していた女との関係に自ら終止符を打った。

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