夏と陰翳

 目覚めたのが先か上体を起こしたのが先か、分からなかった。

 枕元の時計は二十三時四十分過ぎを指していた。暑さに耐えかねて開けたままにした窓の外ではバイクの排気音が遠ざかり、代わって何ブロックと先を進んでいるだろう救急車のサイレンと家の外壁に止まっているかも知れない蝉の声とが同じ音量で鳴っていた。

 薄明るい部屋の中、手をあちこちへ探らせた。シーツは温く湿り、身につけた下着も身体に張り付いている。普段の起床時にも勝る脈拍数の上昇を感じ、息が上手く吐き出せない。全身に走る緊張で身体は動かせないが、頭だけは躁じみて脈絡なく働く。

 悪い夢を、見ていた気がした。

 不快を煮しめたような中途覚醒。

(——果たして、もう一度寝付けるだろうか)

 脚を横方向へとずらし、ベッドに腰掛ける体勢になる。鉢の中の金魚と目が合う。妙に部屋が明るいと思ったら、南に向いた天窓からほぼ満月に近い形の月が光を射し入れているらしかった。二十時を過ぎての帰宅の途中で見たそれは、確かざらめのついた飴玉くらいに大きく、アラザンのような銀色をしていたが。

 腹が鳴った。

 壮大な誘蛾灯に立ち上がって、掃き出し窓の傍まで歩く。少し屈んで空を覗けば、数時間前よりよほど遠ざかって、けれど輪郭を鮮明にさせた月が深淵のようにこちらを覗き返している。それは言葉の通じない異国人の視線に似て、収まりかけた動悸を再発させる。

 月に背を向け、壁伝いに逆側の扉を目指す。一歩ごとに、緩く熱を持った床が揺れるようだった。私を夜の泥濘に呑み込もうとしている。息が苦しい。扉を開け放したままに部屋を出て、まだ、苦しい。渇ききった喉がひくりと動く。

 恃みを壁から手摺へ変えて、こわごわと階段を降りていく。足下が見えない訳ではない、むしろ明るいが、見えているものさえ信じられないような気持ちだった。物理的な明暗は問題でなく、全てが暗闇の中だ。

 先程までの悪夢を、思い出せないが心は竦んだままで、リビングに降りたものの頭にカラーバーや砂嵐が過ぎりテレビを点けることさえできない。努めて五感を鈍らせ、キッチンへと向かった。スリッパを履き、冷蔵庫の扉を開いて、

「、ぉえっ……」

 突然の吐き気に頽れる。第六感の錯覚、と愚にもつかないことを考えた。一瞬、ほんの一瞬、どろどろした血や内臓が詰まっているように思えてしまった。同時に私を責め苛む悪夢の粗筋を知る、それはきっと突然に死の悍ましさを突きつけられるようなものだっただろうと。先の錯覚はまだ覚めきらない夢のその続きなのだろうと。

 再び向き合った冷蔵庫の中身はいつものとおり不夜城のインテリアのようであって、唸る機械の駆動音に耐えていた。

 よく冷えた麦茶を、ペットボトルのまま呷る。一リットルのボトルに半分ほど残っていたのを全て飲み干して、息を整える。隣の生ハムに触れないよう六ピースのプロセスチーズを取り出して一欠片食べる。丸まった背で飲食物を物色する私のほうが余程ひとにとっては恐怖かもしれない、なんて思う。父のワインをばれない程度に盗み飲むか少し悩んで、やめた。

 酒を入れずとも、腹が膨れて気分は上向いた。単純な人間だ。足下がぐらつく感覚も収まっている。目の焦点もよく合って、想像の産物を捉えようとはしない。来た道をなぞって、しかし全く違う印象を受けながら自室に戻る。

 月の光はやさしく私を迎え入れた。もはやそれは異国人などではなく、自分と不釣り合いな気高い恋人のような仕草をした。その光から目をはなさずに、乾いて、ひやりとしたシーツの上に再び横になる。目が覚めてから三十分ほどが経っていた。あまりに綺麗で静かな時間に、却って瞼が閉じたがらない。凝と、ひかる空気を見つめる。信仰の恍惚の感覚に、実際のところは知らないが、似ているように思った。私は息を潜めなければならなかった。

 それから何分が過ぎていったかわからない。

「……」

 電気が通ったように、無機質に身を起こして思案する。いつまでも眺めていてよいならばそうしたかったが、私には明日があり、眠らなければならない。

 部屋を見回して、ちかりとなにかが目につく。

 私は立ち上がって部屋の中央、月の光がよく当たる場所に椅子を移動させ、その上に綽綽と金魚の泳ぐ硝子の鉢を置いた。

 炎を見ていると眠くなる。それは地に足の着いた快さに思えた。冷たく貴い絶佳の、……ではなく。そして、金魚は炎のように泳いだ。

 ひれを水に遊ばせ、時折光を反射して床に皓皓とした粒を振りかける。その無造作なようで緻密な動きは、祭のあと、凋んだ篝火が誰に見せるでもなく舞うのに似ていた。月の透徹な灯のもとで水も硝子も見えなくなって、金魚は鬼火となって暗がりに紛れ空中をゆく。

 床から水が染み出し、何十分か前に足下が揺れていた理由を知った。酸素に満ち満ちた、透き通った液体が渾々と溢れ、やがて部屋の全てを沈めた。月光が水流に合わせて揺れる。パイン材のテーブルやベッドランプ、アクセサリ、置時計、そうした部屋の調度品が浮かび上がる。

 そして私は魚になった。水の味は分からなかったけれど。

 金魚は窓に同心円状の細波を立てて、部屋を出て行く。窓の外、濃紺の空を背景にたくさんの魚が泳いでいた。そこもきっと水で満たされているのだろう。電燈や煤煙に空を放逐された星の死骸が、静謐を保つ街に降り積もっていく。遠く高架の幹線道路を、優游自適と白鯨がゆく。

 ふと窓際が茫と明るくなり、私の部屋のすぐ外に大きな海月が現れた。それは細く棚引く手を伸べて私を誘う。ダンスホールの隅で俯く冴えない参加者を、その日の主役のひとり、華麗に着飾った誰かが見出すように。

 私はその腕に抱かれて、縹渺の夜に繰り出していく。


 就寝時と同じ体勢で私は目を覚まして、金魚は鉢に張られた水を泳いでいた。枕元には確かにデジタルの時計があり、家を出なければならない十分前の時刻を指している。

 昨晩とは全く質の違う焦燥に飛び起きて、服を着替え荷物を確認し、部屋を出ようとする。寸前に、部屋の中央の金魚のほうを振り返り、変わらない闊達な泳ぎを見つめる。昨夜のことを反芻するように。

 それから薄くメイクをして、外出した。やはりひどく暑い日だった。

 それから数時間。東の空低く、僅かに欠けた、不言色に輝く小さな月を眺めながら、昨日より早く帰宅した。ソックスを洗濯機に放り、母の夕食の誘いを断って階段を登る。腥い匂いがした。魚は、食べるのは苦手だった。

 扉のノブに手を掛けて、違和感を抱く。明瞭に言葉にできないまま、部屋へと入る。

「っ、……」

 大袈裟ではあるが、咄嗟に口許を覆う。外気と同程度の温度の部屋に、吐き気を催すに十分な饐えた臭いが充満していた。

 月が冷やすなら、太陽は熱するのだ。

 金魚は昨夜の典雅をまったく失って、ただ紙粘土のように汚れた水に浮かべられていた。それはもうどんな意味も持ち得ない有機物だった。こまめに水を換え、餌をやり……そう、まるで薔薇に硝子の覆いを被せるように、接していたのに。

 足下が揺れる。金魚の肉が溶け出し、丸い硝子の底に血が沈んでいく様を幻視する。

(――正夢)

 卵が先か鶏が先か。

 私は鉢を持って部屋を飛び出し、濁った水を溢しながら階段を駆け下りる。体当たりで玄関ドアを開け、外の花壇に中身をすべてぶちまける。額に汗が浮かんでいる。鉢さえもその場に放り出して、立ち尽くした。

 喉が引き攣る。汗が目に染みる。蝉が衒らかすように鳴いている。

 今まで葬った生き物たちの影は私のそれに溶け込んでいるのだ。残照を背にして、花壇に落ちた、深く穴が開いたように黒い、長い人形と向き合う。

 風に吹かれて揺れた髪が形づくる影は金魚の背びれのように。

 滑稽なくらい冷静な頭の一部分に従って、スコップを探すために踵を返した。

 

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光路 悪谷性哉 @sagaya15425

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