Q、ブラックコーヒーをカフェオレにすることはできますか?

 Q、ブラックコーヒーをカフェオレにすることはできますか?

 A、できる。ミルクと砂糖の加減を誤らなければ、飲む人にとってたいへん好ましいカフェオレを作ることができる。


 ハルナを連れて退院する時、ヨシカワは看護婦に何度も礼を言ったそうだった。その中でひと言、


「先生がおっしゃっていたとおり……。ほんとうに、別人になったみたいです」


 それでも彼は、ハルナを愛し続けると約束した。彼は誠実な青年だ。だから今まで6年間、ボロボロになった彼女を支え続けられたのだろうとシノダは思う。


「……」


 看護婦が淹れたコーヒーは、ヨシカワにとっては少し甘めだった。次来る時は、君好みのコーヒーを振る舞おうと、彼に約束した。彼はそれを飲まなかった。飲まないで、彼は新しいハルナとともに、この病院を後にした。


「……別人になったみたい、か」


 ヨシカワはなかなか見る目のある人間だと、シノダは感じた。

 彼の言うことは、間違ってはいない。


「そりゃそうだ」


 ヨシカワが押して行った車いす。それに乗る女性は、ハルナであってハルナではない。ハルナは別人のように変わってしまったのではない。ヨシカワの言ったことは正しい。


 あのハルナは、元のハルナとはべつの人間だ。




 記憶を消す。


 しかも意図的に、選んだ記憶だけを消去する。そんな都合のいいことは、今日の医療技術では確立されていない。遅々と進まない精神医学のとなりで、あるべつの医療技術は、日々目覚ましい発展を遂げている。


 クローン技術。そしてそれを急速成長させる技術。


 シノダがいじったのは、患者ハルナの記憶ではない。ヨシカワがカウンセリングで話したハルナのすべてをデータとして、彼女のクローンに覚えさせた。短期間の睡眠学習では覚えられる物量には限界があるが、それでも新しい彼女の中に、『あの日の事件』は存在していない。


 まるで別人。


 ヨシカワの言ったことは正しい。彼が連れて行ったのは、ハルナはなく、ハルナのクローンだ。ヨシカワの証言した彼女を、おそらくは彼が都合よく美化しているのだろうハルナの人格を、シノダはクローンの上に再現した。それだけだ。

『治った』ハルナを見て、ヨシカワは大いに満足した。喜んだ。そして心の底からの感謝をし、彼はハルナの車いすを押し、病院を去った。


「難しい顔をしていますのね。シノダ先生」


 音もなく入ってきた看護婦は、眉を揉むシノダの顔を一瞥し、


「そう、か」


 ひとりの患者を『治療』するたびに、人間とは何なのか、人格とは何なのか。そう考える。


 見た目が一緒なら、中身が違っても、偽りでも失われても、同じ人間なのか。たとえ泥みたいだろうが不味かろうが甘すぎだろうが、同じカップの中に注がれれば、同じ地続きの『コーヒー』として飲まれるように。


 シノダは立ち上がった。


「今行くよ」




「待たせたね」


 裏庭へと続く通用口。その脇の小さなテーブルの上にハルナはいて、無言の彼女の体を抱え、シノダは鉄製の扉を開けた。


 鬱蒼と茂った、森とも林ともつかない木々。その隙間を埋め尽くすように色とりどりの花が咲いていて、庭の入り口には海外の庭園顔負けのアーチまである。乱立した墓石がなければ、ここが墓地だなんて誰も思わなかっただろう。


 風が木々をざわざわ揺らす。足裏に敷き詰められたレンガを感じる。アーチを潜ると、墓石に留まっていた小鳥が数匹、さえずって空へと戻っていく。


「いいところだろう?」


 シノダの腕の中に収まるくらい小さくなって帰ってきたハルナが、首をかしげてことりと音を立てる。


 彼女の足の骨を固定していたボルトもプレートも、彼女が胸の中に秘めていた傷も痛みも、すべてこの骨壷の中に入っている。


 そして何より、ヨシカワ青年が尽くし、愛してくれた6年間の記憶も。


「君のことは、私が忘れない。だから」


 だから、大丈夫。


 ヨシカワが忘れてしまったような、『本物』のハルナのような人びとが、この裏庭にはたくさん眠っている。

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コーヒーとカフェオレ 山南こはる @kuonkazami

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