コーヒーとカフェオレ

山南こはる

Q、カフェオレをコーヒーに戻すことはできますか?

 Q、カフェオレをコーヒーに戻すことはできますか?


 A、できない。コーヒーはすでにミルクと砂糖が溶け込み、ひとつのものとなってしまった。したがって、コーヒーだけを取り出すのは困難である。



 その病院はものすごい僻地にあって、たぶんいちばん近くの駅から歩いたら1時間はかかるだろうとヨシカワは思った。


 いちばん近くにある建物はガソリンスタンドで、次がコンビニ。あとはぜんぶ、畑と養鶏場だけ。そんな田舎の片隅に、巨大な墓標みたいにその病院は建っていた。


 森とも林ともつかない草木の中の病院。院内は案の定薄暗くて、外の細い明かりがリノリウムの床に反射している。貼られたポスターのすべてが色褪せている。看護婦はみんな無愛想。待合室のソファーは表皮が破れていて、黄色い綿が飛び出ていた。


「ハルナ、何か飲む?」

「……」


 駐車場と病院の入り口までですら、今のハルナに歩かせるのは困難だった。車から車いすを出して、彼女を乗せて病院へ。バリアフリーとはおおよそ縁遠いような古めかしい病院の扉をくぐるまで、すでにヨシカワは疲れ切っていた。


「……僕は、コーヒーでも飲もうかと思うんだけど。ハルナは、何飲みたい?」

「……」


 死んだ魚の目、というのはこういうことをいうのだろうとヨシカワは思う。


 車いすに乗せられた、脱力した体。ひざ掛けの上からでも見て分かるくらいに変形した右足。生まれつきでも事故でもない。彼女の足は故意に叩き折られた。何本ものボルトとプレートでさえ、彼女の足を回復させることは困難だった。


「……ハルナはココアがいいかな? ちょっと待ってて。買ってくるから」

「……」


 ハルナは返事をせず、目線も向けず、顔も上げない。ヨシカワはいたたまれなくなり、自販機へと向かう。その足が早歩きになり、小走りになり、ほんの短い廊下でも、最後は全力ダッシュになっていた。




「こんにちは、ハルナさん」

「……」

「私はシノダ。ここの院長をやっています。よろしく」

「……」


 こんな胡散臭い病院の院長だとは信じられないくらい、シノダの人物像は洗礼されていた。病院の院長という人種が具体的にどんな人びとなのかヨシカワは知らないが、少なくともシノダは大きな総合病院の院長先生みたいに見える。こんな薄暗くて得体の知れない病院の院長だなんて、にわかに信じられなかった。


「それじゃ先に、ヨシカワくんと話がしたいんだ。ちょっと待っていてもらっていいかな?」

「……はい」


 ここに来てようやく、ハルナは返事をした。

 小さくて枯れていて、そして死んだような声だった。



 看護婦が出してくれたコーヒーは薄いくせにものすごく酸っぱくて苦い。間違えて酸化鉄か何かをお湯で溶かしたみたいな味だった。


「それで……。彼女はどうして?」


 扉を叩いた精神科の数は山のようで、もう両手では治らなかった。真っ当なカウンセリングや薬物療法、果ては民間療法やどう見ても詐欺まがいの除霊までもを頼った。


 それでもハルナは廃人になったままだ。そしてようやく最後の頼みの綱として、ヨシカワはこの病院を頼ることにしたのだ。


「それは……」


 うまく説明できていたか、自分でもよく分からなかった。

 あの日のことを思い出すだけで吐き気がした。


「助けて」というハルナの電話を受けて、ヨシカワは彼女の自宅へと走った。その時にはもう火の手が上がっていて、小綺麗な一戸建ては真っ赤な炎に包まれていた。制止する消防員の腕を振りほどいて炎の中に飛び込んだ。ハルナを担いで、無我夢中で外に飛び出た。その時のやけどの痕が、ヨシカワの頬には今でも残っている。


「それだけ?」


 シノダの声はすべて分かっているようで、


「いいえ」


 彼女の右足は叩き折られていた。それも複数の個所が。ひざの皿は割れていた。そして何より、彼女は犯されていた。体液のDNA鑑定によれば、犯人は3人だった。


「……彼女は、ハルナは、自分の家族が死体の横で、犯されたみたいなんです」


 居直り強盗、というやつだ。


「めぼしい預貯金や貴金属のたぐいはすべて持ち去られていたそうで……。火事も、おそらく放火だろうと」

「犯人は捕まったのかい?」

「……」


 ヨシカワは首を振った。


「君とハルナさんの関係は?」

「……恋人、です」


 そんなこと、言わなくたって分かっているくせに。


 あれから6年。高校の同級生だったふたりは今年で24になる。大学に行くかたわら、ヨシカワはハルナを治すために奔走した。人生でもっとも楽しくかがやかしいだろう時期を、ヨシカワはすべて擲ってハルナのために尽くした。


 それでも、ハルナは。


「……」

「そうか。……それは大変だった。ヨシカワくん。よく話してくれた」

「先生……」


 シノダの目には、慈悲ある小さな病院の院長としての色が浮かんでいる。たとえハルナが治らなかったとしても、彼にかかってよかったとヨシカワは思う。


「それで? 君は何を望む?」

「それは……」


 この病院の治療方針は知っている。今この国で、この画期的療法を行なっているのは、この病院だけなのだ。


「記憶を……、消してください」


 口の中が酸っぱくて苦くて、それはたぶん、コーヒーのせいだけではなくて、


「先生、お願いします。ハルナの記憶を……。あの日の記憶を、消してください!」



 ※



「先生、ハルナはどうですか?」

「まだ変わらんね」


「先生、ハルナとは面会させてもらえないんですか?」

「患者に余計な刺激を与えるわけにはいかないんだ。もう少し、待ってくれたまえ」


「先生、ハルナは?」


「先生、ハルナはほんとうに、大丈夫なんですよね?」


 毎週毎週、けんもほろろに断られることを分かっていながら、それでもヨシカワはハルナとの面会を求めずにはいられなかった。


 シノダの治療が進展しているのかいないのか、彼にはよく分からない。ただ彼に求められたものはすべて持ってきた。彼女のアルバム、ビデオ。ありとあらゆる情報。食べものの嗜好、性格傾向、言動、道徳的概念、それから些細な癖までも。


 くり返されるカウンセリング。いつも同じ無愛想な看護婦がコーヒーを持ってきてくれて、でもコーヒーの味自体はその時その時によって違った。今回のコーヒーはものすごく甘い。ひと口飲むだけで糖尿病にでもなりそうだった。


「ねえ、シノダ先生」

「なんだい?」

「なんで……、こんなことをするんですか?」

「こんなこと?」


 シノダ先生の眉が、一瞬、グッと寄って、


「はい」


 重ねられるカウンセリング。ヨシカワはハルナの治療を依頼したはずなのに、これではまるでヨシカワが精神療法でも受けているのではないか。もしかしたら、自分の方がハルナの記憶を消されるのではないかという不安が、ここにくるたびに募っていくのだ。


 まるでほんの少しのホコリが、ちょっとずつ層を作るように。

 シノダは表情を和らげた。


「消すべき記憶だけを消すっていうのはね、たいへん難しいことなんだよ」


 彼はコーヒーをすする。ほとんどカフェオレみたいなコーヒーの味に、先生の顔がゆがむ。

 その顔があまりにも人間じみていて、彼をちょっとでもうたがったことを、後悔しはじめる。


「ヨシカワくん」

「はい」

「善処はするが……。彼女はもしかしたら、君の記憶まで、忘れてしまうかもしれない」

「僕の……、記憶」


 それは想像すらしていなかったこと。


「そう」


 先生はマグカップの中に、スプーンで渦潮を作りながら、


「記憶っていうのはね、他の記憶とも密接に結びついているんだ。彼女が被害に遭った火災現場にも、それから先の生活にも、いつも君はいた。その犯罪の事実を忘れてしまえば、彼女は君が尽くしてきた愛のことも、あるいは君という人間のすべても、忘れてしまうかもしれない」


 ようやく、話が飲み込めてきた。記憶は他の記憶に紐付けされ、ありとあらゆる記憶が少しずつつながっている。ひとつの記憶を消せば、他の記憶にも影響が生じる。人格とは今までの記憶の集合体であり、集大成だ。治療前のハルナと治療後のハルナでは、もしかしたら人格そのものも、まったく別人になってしまう可能性もある。

 シノダは、


「でも、記憶をつなぎ止める材料があれば、結果は変わってくるかもしれない」



 彼はやっぱり甘すぎるコーヒーに、うんざりしたような顔をしている。


「他の記憶を守るために?」

「そう、そういうことだよ。ヨシカワくん」


 楽しかったころの思い出を。自分が彼女に尽くしてきた、その絶対的な愛を。それを守って、あの忌まわしい日の記憶だけを消すために。


「もっとも、折られた足がよくなるわけではないし、記憶の方も、保証はできない。もしかしたら記憶の混乱が起きて、状態は前よりも悪くなるかもしれない。少しでも、元の人格を失わないように……。壊れる前の彼女に戻れるように、精一杯の努力を約束する」

「先生……」

「だがヨシカワくん、君も約束してほしい。術後のハルナくんが、君の知っているハルナくんと違う人間になってしまったとしても……。彼女がすべてを忘れてしまったとしても、君は彼女を愛し、支え続けるんだ」

「はい……!」


 そんなこと、言われなくとも分かっている。


 先生はヨシカワの手を取って、硬く握る。その手の力強い感触に、ヨシカワの6年間が溶けていく。炎の中から彼女を負ぶって逃げたあの日。足を折られ、凌辱されたハルナを前にした時の衝撃。彼女の車いすを押した日々。虚ろな目に光が戻ることを期待した夕焼け。その口が、前と同じように笑うことを夢見たあの夜。


 付き合いはじめた時と同じ道を歩き、元に戻ってくれることを願い続けた、この6年。


 先生が手を離す。甘すぎるコーヒーに閉口していた先生の顔が、小病院の院長らしい穏やかな顔に戻って、ヨシカワに微笑んでいる。


「材料は集まった。たぶん近々、施術をはじめられると思う」

「……ありがとうございます。先生」


 鼻の奥がジンとする。


「これでカウンセリングは終わりだ。毎週長々とすまなかったね」

「いいえ」


 これでハルナが治ってくれるなら、そんなこと、どうだっていいのだ。


「ところで」

「はい?」

「今日のコーヒーの味、どうだったかね?」


 わざわざ訊かなくたって、そんなの先生自身が、いちばんよく分かっているはずなのに。


「……ちょっと、甘すぎました」

「だよねえ」


 先生は笑った。電子カルテにパチパチ字を叩き込んで、


「今度会う時は、君に合わせたコーヒーを、提供するよ」

「はい」


 重ねて礼を言い、ヨシカワは診察室を出た。

 薄暗い待合室が、いつもより明るく感じた。




 それから数週間後、ハルナが退院した。


「あの、あなたは? どなたですか?」


 先生の最悪の想定が、的中してしまった。ハルナは見事、ヨシカワのことを忘れてしまっていた。


「そのやけど、どうしたんです?」


 彼女を助けに炎の中に飛び込んだあの日。彼女の身に降りかかった出来事。それを忘れてくれただけでも、この治療の成果はあったはずだ。


「……僕は、ヨシカワっていう」

「ヨシカワさん。……私は、ハルナといいます」


 そう言ってハルナは笑った。


 開け放たれた病室の窓から、暖かい日差しがまぶしい。流れ込んできた空気が、ハルナの髪を揺らす。


「……行こうか?」

「はい」


 今のハルナが、前のハルナと違う誰かになってしまっても。

 それでも自分は、彼女を愛し続けると約束した。


「……シノダ先生、ありがとうございます」


 ヨシカワのつぶやきは、春の空気に満ちた病室に溶けて消えた。

 シノダは他の患者の施術があると、顔を見せてはくれなかった。

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