阿形教授

柳なつき

研究室にて

「私は非常にパンクチュアルな人間です」


 初対面の阿形あがた教授は膝の上で手を組んで、真面目な顔でそんなことを言い出した。


 いきなり研究室を訪ねたもんだから、多少は邪険にされる可能性だって考えていた。でも、国立学府こくりつがくふの哲学科の教授である彼、阿形教授は、とくにそういう素振りもなく、面識もない、まだ教養課程にいる一学生でしかない僕を迎えてくれた。……まあ、かといって喜んでるふうにも見えないけどな。


 応接ソファに僕は座らされて、向かいには阿形教授。けっこうな歳のはずだ。髪の毛は豊かではあるがほとんど白くなっており、パサパサとしている。いまいちインパクトのない、小さく四角いフレームの銀縁眼鏡。右耳にはなにか装置のようなものをぶら下げている。補聴器だろうか、それとも目ではなく耳にかけるような、変なたとえかもしれないがちょっと趣味の変わったモノクルのようなものだろうか、いまいち判別のつかない得体のしれないゴールドの糸みたいなものだ。


「そうなんですか」


 僕はとりあえずそれだけ言って、ティーカップに入ったほかほかの紅茶に視線を落とした。いま阿形教授が自身の手で淹れたばかりの紅茶。疑わない、わけではない。なにか変なものが入っているかもしれない。あの日――以来、僕はなにもかもを疑ってしまう。薬物も。悪意も。

 けれど……どうしてだろうか。寒い季節、ひとりで歩いてこの国立学府の果ての果てにあるような哲学科の研究棟に来たからだろうか、湯気をあげる紅茶は、やけになめらかでおいしそうに見えるのだった。

 でも、手はつけられない。それは。……あの日以来の、ひとを些細なレベルでも信用できないという、僕にかけられた呪いだ。


 阿形教授の前にも同じティーカップが置かれていて、おなじように湯気がほかほかとしているが、口をつけるようすはない。……だからすこし様子を見よう、と僕も思ったのだった。


「パンクチュアルとは、時間に正確な、という意味です」

「知ってますよ。曲がりなりにも国立学府の学生でそれを知らなかったら、いったいどんな手立てをつかって国立学府に入ったのかなって、疑いますから」


 埃っぽい研究室、もう完全にカビちまってんじゃないかと思わせる哲学やら倫理学やらの専門書の本棚が、四方すべての壁となっている。この部屋は無駄にデカい。だから四方が本棚という時点ですでにかなりの蔵書があることがわかるのに、それに飽き足りないとでもいうかのように、あちこちに本が積まれている。阿形教授の専門は、哲学のなかでも倫理学、そのなかの更に行動倫理学と呼ばれる分野だ。なのでたしかに、その専門の本が多い、と思う。いくつもいくつも、ほんとうにたくさん。

 不思議なのは、それでも雑然とした印象を受けないことだ。秩序だっている。どうしてだろうと目を細めてすこし観察してみたけれど、まあたしかに分野ごとにまとまっているとか、やたら背の順や著者の順を意識して並べられているとか、そういう特徴はあった。すこし神経質、といってもいいくらいの並べかただったが……それならもっと、埃とかカビにも気を遣えばいいのにな。いくら整然としていたって、やっぱり、埃は埃でカビはカビなわけでさ。


「君は、けっこうきょろきょろといたしますね」


 僕は弾かれたように視線を戻した。……じっとしていなくてはいけない。こんな簡単なことが、僕はまたできていなかったようだ。まったく、気まぐれで、それをうまく制御することもできない自分があらためて嫌になる。……名前の呪いか、と叫びたくなる。


「……癖なんです。すんません」


 とりあえず、ぺこりと頭を下げて謝っておいた。たしかに、教授の研究室を訪れた学生の態度ではない。

 ほう、と阿形教授が顎に拳を当てて、ため息をついた。やけに生暖かそうなそのため息には……いったい、なんの意図があるんだ?


 こちらが不躾な振る舞いをしてしまったからには、こちらから繋げなければなるまい。そう思って、僕は両膝をきちんと揃えなおし、その上にふたつの手を置いた。


 ……女としてのジェンダー的振る舞い、女としての身体的に小さな手。どっちも僕の心にはそぐわない、ほんとうの僕のあるべきすがたとは、まったくかけ離れている。心の底から嫌になるが、でも、それでも、僕はそのジェンダー的価値観のなかで行動をする、息をする。敗北感を覚えないわけではない。実際、以前はかたくなに、身体の性に合わせることを嫌っていた。でもあの日、僕にとって最大の呪われた日である、あの日から……僕は、なにか突き抜けてしまった。……きっと、自分でも、あんまりよくない方向に。


 まあ、それは、いまは、いい。……僕はどうにもすぐに思考もきょろきょろする。いまは会話だ、阿形教授と、さあしゃべろう、なんのために来たんだ、僕、……高柱たかはしらねこよ。


「……パンクチュアルな人間。なんですね?」

「そうですそうです」


 そちらの言葉を反復しただけなのだが。阿形教授はそれだけで、ごもっとも、とでもいうかのように、ご満悦な素振りで、うなずいてみせた。表情があまり変わるわけではないのだが、なんだ、このひと、……意外とわかりやすいな。


「私ほどパンクチュアルな人間は、きっとこの世界にいないでしょう」

「なるほど……」


 すごい自信だな。


「ねえ君。カントという哲学者を知っていますね?」

「はあ……まあ、ふつうに。かりにもここ、国立学府にいるのに、カントのことを知らなかったら、いったいどんな手立てをつかって国立学府に入ったのかなって、疑いますから」

「あははは。さては君。それが口癖でしょう?」


 両手を、ずいっとピストルでもつくるかのように向けられた。なんだっけこれ。ゲッツ。みたいな。しかもその顔。おもしろいでしょうおもしろいでしょうと訴えている。……ああなるほど。意外とこういうタイプか。めんどくさいな。まあでもここで変な反応をすることもめんどくさい。なので僕は、阿形教授を真似てあははははと笑っておいた。棒読み感がすごい。でも、阿形教授はそれで満足したようだ。


「カント。倫理学の星と言われています」

「……そうなんですか?」


 聞いたことがない。


「より正確には、私がそのように呼ぶことを提唱しているのです」


 どうでしょう、とでもいうかのような視線を阿形教授は向けてくる。僕はげんなりした顔を隠すことができなかった。阿形教授はそれであからさまにショックを受けた顔をしている。……えー、マジか。


「しかし、私の主張は、あながち間違いであるともいえない。よって、あながち独断的なものでもない。なぜならば、カントが感嘆し、畏敬の念を向けたのは、『わが上なる輝く星の輝く空』と『わが内なる道徳法則』ですからね」

「……はあ。そうですね」


 カントによる、『実践理性批判』の結びである。僕もそれは当然読んできた。まったくもって理解しやすいものであるとは言えなかったけれど、阿形教授の専門のひとつはカント倫理学だ。さすがに、しっかり読んでこないというわけにはいかなかったので、夏休み明けにこの、計画、を立ててから、時間をかけて労力をかけてずっとずっと読んできたのだ。だから、先日読み終えている。……まあ、いちおうは読んでおいてよかったな、やっぱり。


「でもそれは星ではなくて、星の輝く空ではないですかね」

「ふふ。……君はけっこう厳密な人間かもしれない」


 くくっ、と阿形教授はおかしそうに笑った――もし頼めるのなら阿形教授、ひとりで悦に入らないでほしいんだよなあ、さっきから。


「ところで。カントが非常に、たぐいまれなるパンクチュアルな人間であったことを、君はご存じでしょうか」

「ああ、なんか寝起きの時間とか、生活の時間をめちゃくちゃ厳密に決めてたんでしたっけ。カント先生の散歩は時計代わりになると近所のひとたちに言われてたとか」

「あるいは、時計以上だったかもしれませんね。カントが散歩をしているすがたを見て、近所のひとは時計の針を直したといわれるくらいですから」

「……へえ」


 極まってるな。


「私は研究者として、まあ、あまりぱっとしない地味な研究者人生でしたけど、カント倫理学に強い影響を受け、ずっと格闘を続け、そして行動倫理学こそ自分のフィールドと定め、研究し続けてきました。私はいまでは行動倫理学が専門と思われるようになりましたが、やはり私のなかにはずっとカント倫理学がある。あの星のようにずっときらめくなにか絶対的な手のとどかないもの」


 なんだか急に詩的なことを言う。でも、それはそれだけこの教授がカントとその倫理学に魅せられているということなのだろう。たしかに、カントはまだちょっと読んだだけのまだ教養課程の一学生からしたって、その絶大な力はわかる――とんでもないことを考え、じっさいにそれを為し、残し、大きな影響を与えたこんな哲学者がいるのだと、僕だって思ったから。……それに生涯をささげるというのは、つまり、そういうことなんだろう、って。詩的な言葉がずっと離れないほどの――。


「なので私は彼の行動規範も非常にだいじにいたします。彼のパンクチュアルであるところにもまた、敬意の念を抱いているのです。実際にそのように行動したいのです」

「……あの。でも。それだと、もしかして今日、僕が訪ねてきたのって、ちょっとご迷惑だったんじゃないですか? べつに予約とかしていたわけではないし」

「そうですね……ご迷惑、とまでは言いません。しかし、私の予定が乱されたことはたしか、かもしれません」

「……そうですか。すみません」


 思わずうつむいて、声が小さくなってしまった。……そうか。約束。それくらい、すればよかった。僕はどうにもこういうところに気が回らないな……そう思っていると、顔をあげてください、と阿形教授が思いのほか優しい声で、言ってくれた


「よいのですよ。私はカントを見習うと言っておきながら……予定調和が乱されることも、またどこかで望んでる。そんな、本質的には下劣の部類に入る人間なのですから。……カントの名を出すことも、ほんとうは失礼なくらいにね」

「そんなことは……」

「まずは、用件を聞いてからです。教養課程一年の、高柱猫さん。あなたはまだ一年生ですよね。ゼミにも卒業論文にも、まだ早い。いったいなんのお話なのか、じつのところ私には見当がついていないのですよ。……そのお話によって、私の今日の予定調和は、意義あり価値あるものだったか、それともそうではないものだったか、決定されるでしょう。……包み隠さず話してください。あなたは、私に時間をとらせている」

「……はい。それは、承知してます」


 すこし、がんばって――僕は、丁寧な言葉を使った。



 僕は、阿形教授に説明した。自分が今年の夏に、ひどい事件に遭ったこと。それによって自分の尊厳も価値も存在意義も、なにもかもがわからなくなったこと。すべてを、破壊されたこと。……憎しみと孤独だけが、いまの僕の生活を支配していること。

 授業とバイトの時間はすべて、国立学府の図書館にこもって、ひたすら、本をむさぼるように読みあさったこと。恥ずかしいけども……救いを、あるいは救いめいたなにかを、求めて。

 そのなかで阿形教授の行動倫理学の本に出合ったこと。「倫理のすきま」を突く阿形教授の理論――非倫理的行動の類型のひとつとして、つまりは、……いわゆる「ふつうのひと」が倫理的ではない行動をするときのパターンと心理について、鋭く分析し、かつそういった「倫理のすきま」を埋めるためには、多少劇的な政治的変革や社会的変革が、ほんとうは避けられないのではないか――そういった、学術的には少々不適切ではないかと思える程度の過激さと陶酔をもってして、「ユートピア的」な革命を夢見る、最後はどちらかというとポエムのような結論にいつもなる、そんな、阿形教授の本に出会って僕は不覚にも、……ほんとうにほんとうにほんとうに不覚にも、涙が、あふれて、止まらなくて、……ああ、いた、いたんだ、僕の想いえがく救いをこんなかたちで考えているひとが――そうなんだ、って思って、……この半年、ずっとずっと、阿形教授に実際に会って、話をしてみて、……できるならば、ほんとうに可能ならばだけど、弟子、みたいにしてほしい、と思っていた。それがたまたま今日の寒い日だったのだということを――すべて、包み隠さずに、しゃべった。



「……なるほど」


 真剣な顔で、腕組みをして僕の話を聴いてくれていた阿形教授は、僕の長い話が終わると唸るように、なるほどと言った。そしてもういちど、吐き出すように、なるほど、なるほどねえ、と言った。


「どうやら、高柱さん。あなたとお会いする時間が今日偶発的に発生したのは、私にとって、非常に有意義で、価値のあるものだったらしいです。……興味深い。なんですか、それは。非常に、……非常に、興味深い、……興奮を覚えますよ、正直なところ。あなたの考えには……それだけの、意義、価値、魅力が、ある」

「……ほんとうですか」


 よかった――それだけで安堵する、……弱々しい自分の心を、感じた。

 あの日、以来。僕が呪われたあの日以来。僕は自分が強くなったように錯覚しているけれど、ほんとうは、……僕はすっごく弱くなっているのかもしれないな、って。


「よろしいでしょう。あなたは教養課程の一年生……ですが、明日から私の研究室においでなさい。明日から君は教養課程ではなく哲学科倫理学専攻行動倫理学分野、阿形あかし研究室の、所属です」

「えっ。明日から、ですか?」

「都合が悪い、とは言わせませんよ。あなたは私の都合にかまわずやってきたでしょう」

「……いえ。そうじゃなくってですね、……マジでいいんですか、それ。だって、僕はまだ一年生だから制度的に専門課程には、まだいけないんじゃ――」

「いいのです。そのくらいはね。私が今日これから教授会と大学の事務には手紙を書いておきますから。……私はぱっとしませんがこの世界で歳だけはくってる。その意味が、わかりますね、君であれば。……ましてやまだ新設の、この国立学府です。前例などいくらでもつくってしまえばいい」


 それは、つまり――そのへんの制度的な問題やなんやらはどうにかしてくれる、ということだ。


「……マジですか……阿形先生。ありがとう、ございます」


 感謝してもしきれない、こんな気持ちになったのはいつぶりだろう、もしかしたらはじめて、いや、……ほんとうはクズでしかなかったあいつらと友達になれた、と思ったとき以来――そう思って僕はそれ以上考えるのをやめた。……あいつらのことを考えるのは、いまは、やめよう。だから無理にでも思考を止めて、僕はとにかく、阿形教授に頭を下げた。


「ふふ。やはり君はね厳密な人間ですよ。……いま、はじめて先生と呼びましたね? 阿形先生、と。君のような聡い学生の敬意を得るために、老いぼれ教授も苦労しているんですよ」


 そう言うと、またしても、両手をピストルのようなかたちにしてこちらに向けてきて、おどけた――どうにもシリアスとユーモアの境目が曖昧なひとだ。

 でも僕も自然とすこしだけ頬が緩んでいた。そういえば、研究室に入ってから、ずっと緊張し通しだったかもしれない。僕はちょっと照れて、わざと長く伸ばしはじめた髪をすこしだけ右手でいじって、そのまま、紅茶のティーカップを持ち上げた。


「おや、いいんですか高柱さん。私がそれに毒を入れている、などという可能性は?」

「……考え、ましたけど。そのくらいは」


 ずっと、疑うようになっているから。それくらいは。

 でも。まあ、なんだか。……このひとは、だいじょうぶかなって思ってしまったんだ。

 根拠がないと言われれば、根拠はない――。


「行動倫理学は、人間の不合理、非倫理学的な行動も扱います。私がかりにまともな人間だとしても、君のティーカップに毒を入れる可能性を完全に否定してはいけない。または、私がまともではない人間の可能性もある。……その点についてはどう考えますか?」


 これは、もしかして、阿形先生の研究室の一員としての質問かもしれない――そう思ったから、僕はある程度真面目に答えようと、思った。


「前者については、充分そうでしょうね、と。それではもうこの紅茶を飲むのはやめたほうがよろしい、ということですか?」

「いいえ。それは私が、悲しい。かりにそうされてしまえば、私は君への悲しみを憎しみに変換し、次回以降に計画的に毒を盛るかもしれません」

「そうなるとけっきょくそれはそのひとを信じるか信じないか、という信念の問題になってくるわけですよね。僕はいまは先生を信じることにしています、そういう意志決定、自己決定をしています。今後どうなるかはわかんないですけどね」


 阿形先生は、目を細めた。


「……とりあえずは、よろしいでしょう。しかし、高柱さん。後者についての可能性は? つまり私がまともではない人間かどうかという点においては」

「……それは……」


 僕は、宙を見るかのように視線を動かして、言葉をさがした。


「……いや、それは、先生はまともかまともじゃないかで言ったら、まともじゃないんじゃないですか。本に書かれてた、過激なユートピア思想。あれ、感情的すぎますし、行き過ぎですし、だから先生の研究ってあんまり認められずに埋もれてるんだなって思いますし」

「ぐはっ」


 先生は、ピストルでやられたかのように胸を押さえた。……僕は思うんだけど、こういう茶番ごっこみたいなのって、もしかして、今後ずっと、つきあっていかなくっちゃいけない?


 僕の突っ込みがないとわかると、先生はなぜか胸をぱんぱんとはたく動作をして、すぐに背筋をぴんと伸ばして、座りなおした。


「……君はずいぶん冷たい目をするんですね」

「そうですか? よく言われるんですけど、自分ではよくわかりません」

「なるほど。ふうむ。なるほどなるほどなるほど……」


 ……なにがそんなに興味深いのか。


「……いいですよ高柱さん。君には、話しておいてあげましょう。僕の、ほんとうのことを」


 一人称が、私、から、僕に、……変わった。

 真剣そのものの顔で、阿形先生は、しゃべる。


「僕はね、すごく、性的欲求の強い人間なんですよ」

「……は?」


 思わず、声をあげてしまった。すぐにティーカップを持っていないほうの左手で口を押さえる。いけない、いけない、いまのはちょっと先生に対して失礼だったよな……でも、いや、うん、まあ、……は? いきなりなにを言い出している?


「ほらびっくりするでしょう。僕は一見、枯れ草のように見えるようで。そのような性的欲求などとは無縁の人間に見えるそうですから」


 えっへん、と先生は胸を張るけれど……いやなにがそんなに誇らしいんだ? わからない。さっぱり、わからない。


「若いころなんか大変でしたよ。一日に最低でも十回以上は自分を慰めなくてはいけなくてですね。それじゃきかない日も多い。慰めても慰めてもきりがなく、それだけをして日が暮れることも、しばしばありましたよ」

「いきなりなんの話をしている?」


 いけない。思わず、敬語さえも忘れてしまった。

 でも熱く語りはじめてしまっている先生には、もうそんな僕の不躾さえも伝わっていないようだった。ろくに。


「自分が犯罪者にならないかといつもハラハラ、ドキドキでした。いえ、自分はきっと、そうなるんだろうなと思っていたんです。僕はなんにでも発情してしまう。木の股を見ても、というユーモアは、僕のためにあるんだと思いましたよ。実際、僕は男女、老若、社会的属性、立場にかぎらず、すべての人類に対してそういう意味での魅力を感じてしまう。なんなら人間に限らない。本棚にでもボールペンにでも壁にでも球体にでもイデアでも。なんにでも、感じてしまう」

「……はあ……」

「僕は罪深い人間なんだと思いました。生まれつき、こんな欲の強い人間があるかと。呪われているんだと思いました」


 呪われている――話の内容はともかく、その言葉だけは、……僕を刺す。僕も、呪われている。だから……心の奥底、いちばん、やわらかい部分に、こんなにもすっと、……まっすぐに、入ってきてしまう。

 こんなとんでもない話をされているというのに――。


「それでも僕は犯罪者になりたくなかった。僕にそういった欲求が生来強く備わっていることと、僕の人格や、気高さ、誇りというのは、別物です。だから強く生きていこうと思った。自分の欲望という獣を飼いならしてでも。……その結果、僕はいちども他人の合意なく、他人を欲望の対象にしたことが、ない」


 人間は手段ではなく、目的として扱わなければいけない――阿形先生がそうつぶやいたその言葉もたしか、……カントに、よるものだ。


「……それは、壮絶なことでしたよ。なんにでも欲求をぶつけたくなる僕が、その獣を、更に大きな――理性によって、飼いならす」

「なるほど。だから先生は……カントに、惹かれたんですかね」

「お察しの通り。そういうことです。理解がよくて助かります」


 先生は、ふう、と息をつきながら、ソファに沈み込んだ。

 すっかり冷めてしまったティーカップ。印象にあまり残らない、地味な服装。グレーのズボン。

 そのズボンのほうを、先生はちょいちょいと指さした。


「……僕はね、ここに戒めをつけているんですよ」

「戒め」

「具体的な、器具としてです。一日のうち、午前一時一分から午後十一時五十九分まで、いくら僕がそのように望んでも、そのような行為ができないように、僕は自分のいわば身体的な機能にですね、ロックをかけているんです。……電子ロックです、この先百年分、時間がくれば開き、閉じるように設定してある。もはや僕自身にもこの戒めを解くことはできないようにね。……苦労しましたよ、金も、技術も、必要だった」


 ……それは、つまり。


「一日、一時間だけ……そういう行為をできる時間を、つくってるってことなんですかね」

「そうとも、言えます。そのときだけ私は獣になります。……理性をすべて失った、醜い野獣です。ひとりでとことん楽しむこともあれば、金と社会的な権利を利用して、相手を用意することもあります。相手を手段として取り扱っている。最低です。でも、そうでもしないと私のなかの獣は静かになってくれない。私自身を呑み込む。……でもそれも言い訳です。私はともかく他人を手段として取り扱っているのですから。高柱さんにはとても見せたくないようなすがたですね」


 先生は、弱々しく、笑った。


「だからですね。高柱さん。基本的に、私にはいつ連絡してきてもいいですが、毎日午前十二時から午前一時のあいだだけは、やめてください。私は正直なところ、君にもそういった欲求を感じる。……いまも抑え込んでおります。でもこれは私はだれにでも感じてしまうのです。すべての学生に対して、すべての同僚や先輩や後輩に対して、すべての職員に対して、……全人類に対して」

「……それがほんとの話なら、先生って、すっげえ大物ですよ。マジでぜんぜん、お世辞でも、なんでもなく」


 そんな物言いが、自然と出てきた。


「でも、高柱さん。信じてください。私は、一日二十三時間に限っては、非常に理性的で、他人をけっして手段としては扱わず、そういった欲望の対象にはしない。そういう人間なんです。そういう人間で、いられるんですから。そしてこういったことも私と今後継続的にかかわる相手には、包み隠さず話すことにしているんです。それが、敬意、誠意だと思いますから」

「わかりましたよ、それは、重々」


 そうだな。

 ……そういう意味では、話してくれて、嬉しく思うし。


「そうですか。よかった。……これで、わかりましたでしょう? 私が非常にパンクチュアルな人間であるということの、意味が。まるでカントのごとく――」

「それは、わかったけどさ」


 僕は、右の肘を右の膝に載せて、頬杖をつくみたいな体勢になりながら、ティーカップを口に近づけた。けっして、きちんとはしていない格好。普段の僕の、振る舞いだ。


「センセー、あの世でカントに会ったらぶち殺されちゃうんじゃないの?」


 僕は、そう言って、笑って――ティーカップの冷めた紅茶を一気に飲み干した。視界が、ティーカップで埋まる。それは一瞬だったけれど、ティーカップを戻すと、僕はまた、先生に笑いかけた。……それはたぶん、苦笑に近い笑顔だったろうと思う。

 先生は、うん、うん、そうですね、と言いながら、笑った。あなたは魅力的なひとですよ、気をつけてくださいね――そんなことを、やっぱり真顔で、でもその四角い小さな銀縁フレームの奥の目を、なんだか、愉しそうに、細めながら。




 これが、僕と阿形教授の出会いだった。

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阿形教授 柳なつき @natsuki0710

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