第3話 朝岡遼 #2


 朝岡君はジャージ姿でボールの修繕を行なっていたようだ。どうしたの、と尋ねても私の目を見てはくれない。


 「いや、ちょっと片付けとか洗濯とか遅くなっちゃって今から帰るとこです」


 彼の頬にあった涙の痕は消えてしまっていた。でも私は確かに見た。彼の頬に流れる光を。


 「他の部員は一緒ではないのですか?朝岡君だけで洗濯をしているということはないでしょう」


 藍野先生はゆっくりと尋ねた。朝岡君は黙ったままだ。そしてきまりが悪そうに斜め下を見つめている。しばらく沈黙が続いたあと、朝岡君が重たい口を開いた。


 「いいんですよ。僕、このくらいしかやることないし。みんなの力になれてるなら、それでいいんです」


 私は何も言えなかった。去年のケガの影響で、朝岡君が部活で活躍できていないことは知っていた。その前は熱心に野球に打ち込んでいたことも。だからこそ、彼のやるせない気持ちは痛いほど伝わってきた。


 「あの、答えになっていません。君はたった1人で後片付けをしているのか、と聞いたんです。」


 私は呆気に取られた。もちろん、朝岡君も。何か同情の言葉をかけるのかと思っていた。もしくは労いの言葉だろうと考えていた。それがまさか、そんな事務的なやり取りを交わすとは。


 「ええっと、まぁ、1人です。みんな疲れて帰っちゃうので」


 「ほう。では、君は疲れてないということですか」


 何故か妙に納得した、というような顔で藍野先生は頷いた。それを見て、朝岡君の顔には明らかな不快感が漂った。


 「そうですよ、どうせ僕はプレーしてないし。周りでチームのみんなのことを眺めてるだけだ。先生は機械だからわからないんですよ、人間のことなんて。あの日のめちゃくちゃな最初の挨拶だってそうだったじゃないですか。人の気持ちを理解できない先生だから、そんな風に無神経なことが聞けるんですよ」


 もう失礼します、と言って朝岡君は私たちの前を大股で通り過ぎた。そんな彼の背中を、藍野先生は不思議なものを見る目で追った。


 "あの日のめちゃくちゃな挨拶だってそうだった"。朝岡君の言葉を聞いて、私もあの日の藍野先生の挨拶を思い出していた。


 

 「常識、、、?すみませんが、私のプログラム外の概念です。理解できません」


 

 あの後、クラス全員の間に疑問と少しの緊張感が広がった。ただ1人笑顔を崩さなかった藍野先生がそれでは終わりましょう、と強引に締めてHRを終えた。確かにめちゃくちゃだった。今回も、あんなめちゃくちゃなやり方をするのだろうか。朝岡君のためにも、これ以上無神経なやり方は黙認できない。


 しばらく黙っていた藍野先生は、視線を朝岡君の背中から私の方へと移して言った。


 「どうして質問に対する答えがストレートに返ってこないんでしょうか。これは難しそうな問題ですね」


 真剣な顔をこちらに向ける彼を見て思った。やっぱり、この人はめちゃくちゃだ。

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