祖母にエロ小説を津軽弁に直してくれなんて訊けない
トポ
短編
「おい、小春、もっと尻上げろ」
「こうですか〜? ご主人さま?」
「上等だ。瑞希はその隣で口を開けて待機」
「は〜い、ミズキの口にアッツいのお願いしま〜す」
そんな感じに十数枚続く官能的な会話文。読むのでさえ少し恥ずかしいのに、この僕が書いた文章だと思うと愧死するのではないかと疑ってしまうほど顔が火照る。現に、もし友達に――特に女友達に――僕のペンネームが知られてしまったら、僕は本当に死んでしまうだろう。性癖を丸出しにした妄想を書き殴ってなにが悪い! 誰にでも妄想ってものはあるだろう? 俺は少なくともエロ小説で食べているんだぞ! ――と、僕は空想の中で作り上げた女友達相手に言い返しているが、現実でそんなふうに開き直る度胸なんてない。堂々と生きることができたら、僕は多分自室にこもって新人賞に応募するための小説をしけじけと書き続けてはいなかっただろう。
ポーンとシートベルト着用のサインが鳴り、僕は現在執筆中のエロ小説をセーブしたノートパソコンを閉じる。もうすぐランディング――久しぶりの日本だ。九十三歳の祖母に会うためにやってきた。
はあ、とため息が漏れる。僕はいつどこで作家としての人生を間違えてしまったのだろうか?
一年前――今日はハロウィンだからちょうど一年前――ドイツの大学で勉強しながらコツコツと日本語で小説を書いていた僕は小さな新人賞を受賞しデビューした。そのころは嬉しくて嬉しくてたまらず、親戚にはもちろん、友達全員にやっと夢を叶えたのだと豪語した。あのころのことを思い出すと、涙が出そうになり、僕は隣のドイツ人らしき観光客に気づかれないように顔を肘に埋める。
デビュー作の売れ行きは、まあ、ドン底に悪いとは言えずとも、かなり悪かった。編集者に泣きつきなんとか二作目も出版にこぎつけたが、そっちはもっとダメだった。これで出版社から見放されるんだなとベルリンの朝の公園を放心したように歩いていると、電話が鳴った。
早朝から誰だろうと番号を見ると、日本からで、僕の担当編集者だった。僕は慌てて電話に出て、携帯を耳に押しつけた。
「ああ、どうも。先生の二作目、残念でしたね」先生と言われて僕は赤くなる。そして残念と聞き、さらに気が沈む。「非常に申し訳ないんですが、やはり三作目は――」
「う、うん。わ、わかってますよ。ダメですよね?」
「ええ、すみません」
僕は公園に張られた池の方を向いた。あそこに飛び込んだら死ねるかどうかを考える。多分無理だろうという結論に至る。あの池は膝に水が届くか届かないほどの深さのように見えるから。
「しかしですね、先生の官能小説の方を週末見つけてしまい、興味本位で読み始めたところ面白くて手が止まりませんでした」
――えっ? 編集者さん、なに言ってるんですか? 僕の官能小説? まさかツイッターでリンクしたブログで冗談半分に出したヒントだけで裏ペンネームがわかって、それをまたネットで検索して僕が秘密で投稿しているサイトを見つけちゃったんですか?
「いやあ、まさかお坊さんみたいに質素に暮らしている先生があんな過激な文章を書くとは思ってもみなかったですよ。あっ、でもちゃんと先生が書いた文章だとはわかりましたよ。それくらい見破るのは私たち編集にとっては朝飯前ですから。とにかく素晴らしくエッチな小説でした。SM、調教、鬼畜なんでもこいって感じで。それと同時に物語は面白いし、主人公とヒロインたちの間には純粋なラブがある――」
僕は目をしばたたき、恥ずかしさのあまり公園の池をもう一度見直した。たとえ深さが三十センチほどしかなくても顔だけを突っ込めば死ねるような気がする。うん、絶対死ねる。僕はゆっくりと安らかな死を与えてくれる池の方に一歩踏み出した。
「というわけで昨日先生の官能小説を編集長に見せたところ――聞いて驚かないでくださいね――なんと編集長も唸っちゃって、先生がよろしければ弊社で出版させていただきます」
「えっ?」僕は立ち止まる。「出版って……今なんの話していましたっけ?」
「だから」と編集者は嬉しそうに言う。「先生の『双子奴隷を調教して世界を救う』を出版させてください。他社にはいかないでくださいよ、ねっ」
語尾に「ねっ」を女子のようにつける編集者に僕は、考えさせてくださいとモゴモゴと答えて電話を切った。
その後僕は池を見つめながら人生終わったのか、終わってないのかをしばらく考え込んだ。結局その命題に答えが見つからないままお腹が鳴り、仕方なくケバブ屋に入り、レジで財布が殆ど空であることを思い出し、サンドイッチ一つはなんとか払えたものの、なにもかもに金が必要であるという人生の真理を再び痛感した。
「あの作品のことですが」僕はケバブ屋の前で編集者に電話をかけた。「どうぞお願いします。でも出版は絶対に裏ペンネームの方で」
「ありがとうございます。絶対売れますよ『双子――」
編集者がタイトルを最後まで言える前に赤くなりながら電話を切り、後で電波が悪かったと言い訳をした。
そして僕があくまで趣味で、絶対他人には知られないようにして書いた妄想丸出しエロ小説は編集者が予言したように売れた。売れたと言っても僕が突然売れっ子作家に舞い上がるほど売れたわけではないが、しばらくの間、スーパーで値段を見ずに品物を買えるほどには売れた。
それが六ヶ月ぐらい前のことだった。そして三ヶ月前、今度はタイトルを聞くだけでも赤面する小説の二巻目を書いてくれとの依頼があった。しかし、編集者は物語について一つ要求してきた。
「先生、少なくとも一章ぐらいは青森の村で3Pやってる青年と小春と瑞希の狂ったセックス・シーンを書いてくださいよ。サブ・キャラだっていうのはわかってるんですが、あの青年の評判がとってもいいんです。お願いしますよ、ねっ」
また最後に「ねっ」をつける編集者。僕は青年と彼の幼馴染たちである小春と瑞希は津軽弁を喋る設定だから、標準語しかできない僕には彼らの章を書くのはとても無理だと言ったが、すると編集者は腹黒い本性を現した。
「ブログでお祖母さまが津軽の人だと書いているじゃないですか。会話文を書くために津軽弁のことをちょっと訊いてきたらどうです? 青年の3Pシーンが無理なら、こちらも出版の方は――」
「わ、わかりました」と僕は後先を考えずに、どうにかプロ作家という看板にしがみつくことと、生きていくための印税に目がくらみ承諾してしまった。
ああ、神さま、僕はどうしたらいいのでしょうか? どう今年九十四歳になる祖母に、『双子奴隷を調教して世界を救うボリューム2』の一部を津軽弁に直してくれなんて訊けるのでしょうか?
飛行機は羽田空港に着陸して、乗客たちはいそいそと立ち上がる。僕は隣のドイツ人の観光客を通し、他の乗客がいなくなってから最後に飛行機から降りた。
予定では祖母が迎えに来てくれるはず。両親もドイツに永住しているので、日本にいる親戚は祖母だけだ。彼女は携帯を持っていないので、出会えるかどうか少し不安になる。一応ゲートで待っているはずだからすれ違うことはないと思うのだけれど。
ところで僕は日本行きのチケットを購入する前、ネットで津軽弁のことを調べてみた。もしかしたら津軽弁の辞書や文法を説明するサイトがあるかもしれないと期待したからだ。まあ、収穫がまるっきりなかったわけではない。たとえば、「尻」は「どんず」、「口」は「くぢ」。他にもエロ小説に使えそうな言葉もわかった。「気持ちがいい」は「あずましい」、「恥ずかしい」は「めぐせぇ」。
しかしこれだけでは会話文は書けない。「精液」は津軽弁でなんていうのだろう? ネットで僕が調べた限り、なにも引っかからなかった。その上、単語がわかっても、それだけでは自然な津軽弁を書くのは難しい。だから色々迷った挙句、僕は日本行きの飛行機を予約したのだ。
また、これは編集者にも言ったのだけれど、会話文を津軽弁に直してしまうと、標準語しかできない読者にはなにを言ってるのかわからなくなってしまうのではないだろうか。少なくとも僕は「めぐせぇばて、あずましい」と読んで、これが「恥ずかしいけど、気持ちいい」だとは到底わからない。
だが担当編集者は「それでもいいんですよ。津軽の雰囲気がよく出ているし、地の文で大体なにを言っているのかはわかるでしょう? それに、わかる読者にはわかるという面白みがある」といい加減な理屈を頑固に唱えた。
バゲージクレームでトランクを見つけて、税関を問題なく通過し、僕はゲートを出る。祖母はどこだろうとキョロキョロしていると、出口の数メートル先に着物に身を包んだ背丈が僕よりずっと低い彼女が手を振っているのを見つけた。少し照れながら僕は祖母の方へ行く。
「よしちゃん、一年ぶりだねぇ」と祖母は嬉しそうに言い、僕の肩に手を寄せようとする。
「うん。久しぶり、ばあば」僕は身を屈めて祖母が僕の肩を叩くのを許す。
父の仕事のため小学校のころからドイツに住んでいる僕は未だに祖母のことをばあばと呼んでいる。祖母は自分の名前を嫌っているようだし、ドイツに住んでいたため、あまり会えない祖母のことをおばあちゃんとかに言い換える時期を僕は逃してしまった。
「ばあばはよしちゃんが作家になれて鼻が高いよ」
挨拶の後にすぐ祖母は胸が締めつけられることを言う。この一年で僕はデビューホヤホヤの三流作家からエロノヴェリストに落ちぶれてしまった。もし祖母に僕の新作のことが知られてしまったら――ああ、合わせる顔がないというのはまさにこのことだ。
「う、嬉しいよ」僕はぎこちなく答え、思い出したようにつけ加える。「で、でも文学の方はばあばには敵わないけどね」
そう、僕の祖母も作家だ。津軽に面した小さな村で生まれ育ち、第二次世界大戦の間、東京で看護婦を努めた彼女は昭和の終わり頃に田舎の日常や戦争の苦しさを小説にまとめ、それがヒットして、今では中々の文豪として知られている。だから作家と言っても僕とは全く格が違い、一年前は僕のデビューを顔をしわくちゃにして喜んでくれた祖母に、僕が作家としての道を外れてしまったとはとても言えない。
「あたしなんて」と祖母は笑って謙遜する。「ところで、よしちゃん、疲れたでしょう? 直接家に行くのもいいけど、ゆっくりお茶でも飲んでいかない?」
祖母の提案で僕たちは空港のスターバックスに入る。ハロウィンのキャンペーンで特別なフラペチーノをやっているので、僕はそれを、祖母は緑茶とコーラを注文する。
隅の席に座り、祖母は唇を直接コーラビンに当てて一口飲む。着物を着ている祖母がコーラをラッパ飲みする光景はちょっと不思議だ。
「本当は飲んじゃいけないんだけどね」と祖母は言う。
「お医者さんには黙っておくよ」
「よしちゃんにはあたしが初めてコーラを飲んだ時のことを教えたっけ?」
「うん、でももう一度話してよ」
「あれは戦争が終わってから二、三年ぐらいしてからかな? 病院の先生がある日あたしにコーラをくれたのよ。アメリカの飲み物だ、って。色が黒いからこれなんだろう、と思って飲んでみたんだけどびっくり仰天! こんな美味しい飲み物を作る国に日本が負けるのは当たり前だと納得したのよ」
僕は笑う。「でもその感想は黙っておいたんでしょう?」
「とても言えないでしょ」祖母もニカッとして、一口だけ飲んだコーラを脇に置き、今度は緑茶を両手で包み込む。
祖母の小説にはこのような昔話がいくつも出てくる。貴重な牛肉が手に入ったのだけれど、すぐに食べてはもったいないと思って翌日のために取っておいたのだが、その夜空襲にあって住んでいた下宿と共に肉も燃えてしまい、住まいのことより肉のことを嘆いたこと。爆弾が目の前に落下して一瞬死を覚悟したが、偶然不発弾だったため助かった話や、防空壕に間一髪飛び込んで、頭を打ったため気を失い、しばらくの間死んだと思われた話。しかし祖母の昔話は面白かったり、スリリングなやつばかりではなく、敗戦直後に祖母のように若い看護婦たちに病院側からいざという時のため青酸カリが配られた話のように、後味が非常に悪いのもある。
「ところでよしちゃん、処女作と二作目はちゃんと読んだのだけれど、三作目はまだなのよね?」
ドキリとする。実は三作目は出している。例の『双子――以下省略』のあれだ。だけどもちろん言えない。裏ペンネームで書いた作品のことは絶対に言えない。
「あー、三作目のことなんだけどね……」僕は汗が滲む手のひらを冷たいフラペチーノのカップに押しつける「じ、実はね、津軽のことを書いているんだ」
「津軽? へえー、そうだったの」祖母は目を丸くする。
「そ、それでね、津軽弁のことを聞きたかったのだけれど、たとえば――」なにをどう訊けばいいのか慌てて考える。前もって祖母をどう誘導すればいいのか計画しておくんだった。「えーっと、津軽弁でさ、熟語とかどういうの? うーん、ほら、せ、せい、せいえい……じゅ、とか」
「せいえいじゅ?」祖母は首を傾げる。
「う、うん、『精英樹』。長生きして材質に優れた樹木のこと」
「そういうのは津軽弁でもそのままよ」
「そ、そうなの? じゃあ……ちょう……きょ、は? あっと、だから『聴許』、聞き入れて許すということ」
「それもおんなじよ」
「へえー」
あれ? こんな簡単なことだったのか? だとしたら僕がわざわざ日本に来たのは無駄足だったのかな? いや、待て。熟語がそのままだとしても、まだまだわからないことがたくさんある。
「タイトルはもう決まっているの?」
「えっ?」突然祖母に訊かれて僕は驚く。「タイトルって?」
「三作目のタイトル。あたしはタイトルは最後に決めるんだけど、よしちゃんは?」
「ああ、た、タイトルのことね」僕はフラペチーノをさらに強く握る。ピキッと音がして、プラスチックのカップが少し変形する。「えーっと、まあ、後から変えるかもしれないけど一応は考えてあるよ」
「そうなの。楽しみね。で、今のタイトルは?」
「う、うーん、た、タイトルと言われても……」
「まさか忘れたわけじゃないでしょう?」
祖母に迫れて僕は狼狽える。どう答えれば……?
「えーっと、ばあばに言うのには少し恥ずかしいタイトルなんだ。ほ、ほら、僕はエンタメ系だから……」
「言っちゃいなさいよ」祖母は強めに言う。
「あー、タイトルはね、『津軽弁で世界を救う』なんだ。恥ずかしいでしょう?」
「そう? あたしはそうは思わないけど」
祖母は涼しい顔で答え、僕はとっさに言った嘘が通用したので胸を撫で下ろした。
「――津軽に行ったのは数回ぐらいだけど、僕は津軽のことを書きたかったんだ」と言い訳みたいなことを僕は言う。
それは嘘ではなかった。僕の苦悩の淵源である、津軽弁を喋る設定になっているあの青年、小春と瑞希――彼と彼女たちが津軽出身というのは僕が津軽が好きだからだ。東京で育ち、今はベルリンに住んでいるが、僕の先祖が生きて死んでいった土地のことを――作家の端くれの端くれであっても、すぐに忘れ去られてしまうエロ小説であったとしても――物語の中で触れたかった。先祖、生まれ、故郷――そのような無作為なことに対してセンチメンタルになり、プライドを感じるのは論理的ではないというのも同時に意識している。しかしなぜか僕の心は、生まれても、育ってもいない、夏休みに数回行った青森の奥地に惹かれている。
はあ、と僕はフラペチーノを額に押しつける。しかしサブ・キャラが津軽弁を喋るという無駄な設定のため僕は今泡を吹いている。
「どうしたの?」と祖母は心配する。
「時差ボケ。でも……じゃあさ『平気』って津軽弁でなんていうの? やっぱりそのまま?」
祖母は首を振る。「じへらど」
――ダメじゃん、と僕は心の中でぼやいた。
僕たちはスターバックスを出て、電車に乗る。祖母の家は空港から遠い。乗り換えを含めて一時間以上はゆうにかかる。日本の電車の中はドイツの電車の中よりずっとひっそりしている。だから祖母と僕の会話が他の乗客に聞かれているようで、僕はスターバックスに座っていた時より緊張する。しかし祖母はそんなことはお構いなしのようで、僕を質問攻めにする。
「この一年、前日本に来てデビューしてから、よしちゃんはどう過ごしたの?」
僕はできるだけ処女作と二作目のことを話す。だが祖母はやがて、僕が二作目を出すまでの経緯ばかりを話していることに気づき、その後のことを尋ねる。
「んーっとね、実は二作目の方もあんまり売れなかったんだ」
「そうだったの。あたしは優れていると思ったのに」と祖母は残念がり、僕は『優れている』という言葉にニヤついてしまう。
「だから今書いているのが勝負なんだ」と嘘をつく僕の声は小さくなる。
「あの『津軽弁で――」
「あーっ」僕は声を上げて祖母を遮る。「タイトルはここでは言わないで」
『双子なんとか』ほどは恥ずかしくないが、やはり『津軽弁で世界を救う』も他の乗客に聞かれたくない。
「でも売れなかったのなら大変だったでしょう? お金はどうしていたの? ちゃんとした物を食べていたの?」
「……うーん、貯金があったから」
「あれ? 一年前は貯金がないって言ってなかったけ? あたしもうボケちゃったのかしら?」
僕は胸元を掴み、「もうすぐ十一月なのに東京はまだ暑いね」と言う。
「よしちゃんが厚着しているからよ」
しかし僕の会話を変える作戦は成功して、祖母はそれから家に着くまで昔のことを話してくれる。祖母は子供のころ、帰るのが遅くなって青森の田舎の夜道を自転車で急いで走ったことがあるらしい。そして、月明かりしかない遠くの暗闇にぽうっと火の玉がいくつも現れたのを見たと言う。
「ぞうっとしてね、一目散に自転車を漕いで逃げ出したわ。狐の嫁入りだったんじゃないかって後で思ったの」
田舎の話には怪談ぽいやつが多い。または、祖母がいたずらをした話。そんなことを話す祖母に耳を傾けながら、僕は窓に流れる東京の景色を眺める。
そして降りなければいけない駅が次だというアナウンスが入ると祖母は立ち上がり、「ねえ、よしちゃん、なにか隠しているんじゃないの?」と素っ気なく言う。祖母は僕の答えを待たずにドアの方へ行く。
僕は一瞬凍りつき、「いや、そんなことはないよ」と答え、祖母に続く。
祖母の家は駅の近くにある。階段を上るのがこの歳では大変だということで祖母は十年ほど前に小さな和風の平屋に引っ越した。こじんまりとした庭もついているが、そっちの手入れはたまに来る庭師に任せ放しであるらしい。それでも祖母は引っ越しする時、庭付きの家にこだわったのは、僕が生まれた年に死んだ祖父の盆栽を残しておきたかったからだ。
祖父の盆栽が見えてきて、僕は垣根越しの風景に驚く。大きなカボチャが飾られている。ただのカボチャじゃない、ハロウィンらしく怖い顔が彫られたカボチャだ。玄関のドアには『Happy Halloween』とアルファベットで書かれたプレートが下がっている。
「あれ、ばあばいつからハロウィンを祝うようになったの?」
祖母は振り返って肩を竦める。「若い人たちがハロウィン、ハロウィンって騒ぐからあたしもやってみたの」はあ、と祖母はため息をつく。「あたしゃ大正生まれだけど、もう昭和はもちろん、平成も終わって令和元年――時代が変わるってこういうことなのね。パソコンのことはわかりそうにないけど、これくらいなら若い人たちに合わせられるかなと思ったんだけど……洒落にならないわよね」
祖母と僕は庭に置かれた盆栽とカボチャを見比べる。
「いや……いいんじゃないかな? うん、僕はいいと思うよ」
「そう? よかった」
僕たちは平屋の中に入る。祖母はちょっと待ってと言って、僕を居間に残し奥の部屋に行く。荷物を部屋の隅に置き、僕は祖父の仏壇に向かう。
彼はどうやら悪ガキをいつまでたっても卒業できなかった人だったらしい。戦争のころは、若すぎたため徴兵は免れたのに、志願すると祖父は言い出し、もし祖父の母が彼を泣いて止めなければ、おっちょこちょいだった祖父は恐らくすぐに戦死しただろう。そうしたら僕は今ここで手を合わせてはいない。また、戦後は獣医として東京で稼いだのに、そのお金は貯めずに酒や賭け事ならまだしも、故郷である津軽の村でキャバレーを開いたり、政治家として立候補するなどといった馬鹿なことで使い切ってしまった。
祖母と祖父が結婚する経緯も今の時代の価値観からすると理解するのが難しい。祖父はどうやら工場の高い煙突に登り、そこから祖母に、結婚しないとここから飛んでやると叫んだらしい。
はあ、と僕はまたため息をつく。今日はため息が多い日のような気がする。
祖父はよく言えば起業家、悪く言えば不良。ひっそりと小説ばかり書いている僕とは大違い――と、思いたいが、祖父が津軽でキャバレーを経営していたことと、僕はエロ小説で食べていることを思い出し、そこまで僕たちは違わないのかもしれないと、少し自虐的に、少し誇らかに祖父の写真を見つめる。
時代は変わった。大正から昭和から平成から令和へと。祖母は今年、生まれて初めてのハロウィンを祝う。
なぜ僕はエロ小説で食べていることを恥ずかしがるのだろう、とふと考える。今自分が歩んでいる道は僕が望んでいた道ではなかったことは確かだ。だけどそんなことを恥ずかしがっているんじゃない。しかしだったら僕はなにを――
「よしちゃん、お待たせ」
祖母が居間に入ってくる。彼女は着替えていた。さっきまで着ていた着物の替わりに黒いローブとトンガリ帽子――魔女の衣装だ。
「似合っている?」祖母は照れながら訊く。
僕は祖母が魔女の衣装で入ってくるとは思っても見なかったので、最初言葉を失ってしまう。
「えっ……どうしたの?」
「だからあたしもハロウィンをやってみようと思って。似合っている?」と祖母は繰り返す。
「に、似合っているよ」と僕は言い、すぐに吹き出してしまう。「うん、似合いすぎているかも」
「それ、どういう意味?」祖母もニカッとする。
「まさかばあばが魔女の衣装まで用意しただなんて思わなかったよ」
そこまで言って、僕は唐突にもう一つ、祖父の話を思い出す。戦争の直後、祖父は日本人女性を、恐らく強姦するために路地に引っ張っていこうとしたアメリカ兵士を殴りつけ、逮捕されたことがあるらしい。祖父はなんとまあ無謀な人間だったんだなあと僕は苦笑する。
「なにまだクスクスしているのよ」と祖母はへそを曲げたように訊く。
しょうがない、と僕は覚悟する。時代は変わっても、僕は無謀だった祖父の子孫なのだ。祖母は僕が今書いている小説のことを知れば、最初は理解してくれないだろう、最初は怒るだろう。だけどいずれはわかってくれる――少なくとも僕はそう思いたい。
もしかしたら僕は祖母が年寄りだから考えを変えることができない、と思い込んでいたのかもしれない。しかし祖母はこの歳でハロウィンを初めて祝うことにした。この九十年以上、祖母にとって十月三十一日は他の日と変わらない日だったのに。
わかってもらえるかもしれない。わかってもらいたい。
「ねえ、ばあば、この一年のことなんだけど、実は――」と僕は祖母に会いに来た本当の理由を話し始める。
祖母にエロ小説を津軽弁に直してくれなんて訊けない トポ @FakeTopology
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