エピローグ
且元が京都の自邸で死んだのは豊臣母子の死から二十日後の五月二十八日のことであった。
幕閣のうちには且元の死を聞いて
「
と進言する者もあったが、そのようなことを真顔で進言する者を見ると、長かった戦国の世も確実に昔のものとなりつつあることを、家康は否応なく思い知らされる。
家康は不機嫌そうに
「市正の死は届出のとおり病死として受理すること。我等が且元にしてやれることはそれくらいしかないのだ。改易など沙汰の限りである。以上」
と告げたあとは、まるで亡くなった且元の菩提を弔うが如く瞑目した。
且元の死後、その跡を襲った子、孝利は寛永十五年(一六三八)、三十八歳という若年で病死する。子をなさぬままの逝去であった。
時は三代家光の治世であり、この時期の幕府は武断政治の真っ只中であった。幕府に対して一瞬でも隙を見せれば取り潰し、減封ならマシという粛清の嵐が吹き荒れている最中であり、無嗣の藩はそのことを唯一の理由として取り潰されても文句は言えない時代であった。
無嗣断絶を防ぐための駆け込み養子を「
しかし為元も四十四の若さで亡くなり、その跡を襲った為次に至っては家督相続の翌年、明暦元年(一六五五)に十五で逝去するに至り、大和竜田藩は一旦無嗣改易となった。
しかし
「秀頼の呪いではないか」
という声に抗うかのように、幕府は且元系片桐家の存続を引き続き図る。今度は為次の弟且昭に片桐の名跡を継がせ、改めて三千石の旗本として取り立てたのである。
その且昭も嗣子のないまま早逝して、貞孝系片桐家から藩主貞昌の次男貞明の子貞就を迎えたが、その貞就も嗣子をもうけぬまま亡くなったことにより、遂に且元系片桐家は断絶のやむなきに至ったのであった。
幕府が能う限りの方法で且元の労に報いようとしたことは、これらたびかさなる救済策の数々を見ても明らかであろう。
一方、豊臣家滅亡に際して重要な役割を果たした且元が、その功績と引き換えに家の存続を望んだかどうかという点については、定かではない。
(終)
片桐且元の心中を勝手に慮って勝手に追悼する小説 @pip-erekiban
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