第八話 且元が切腹を決めた理由

 下駄を履いた足を、焼け跡に踏み入れる且元。下駄の着用は、真っ黒な焼け跡で釘などを踏み抜いてしまわないための措置だ。

 釘を踏み抜いて足が痛いと嘆く者を治療したり、そのことを恐れて下駄を履く行為は、その者が生きる意志を持っているからこそ甲斐があるのであって、自分のように過去がまったく無意味なものになってしまった人間が、いまさら釘を踏み抜くことを恐れて下駄を履く行為に、且元は積極的な意味を見出すことができないでいる。

 草鞋わらじのまま踏み入れて足を負傷し、そのまま動くことができなくなったとしても、且元は文字どおり過去を失った人間なのであるから、その場にでも倒れ伏し、そのまま死んで、いまは焼け焦げてケシ炭のようになった大坂城と同じように、真っ黒な腐乱死体に身をやつしたとしても、それはそれでいまの自分にとっては「らしい最期だ」とさえ思われる。


 そんな想念に囚われて下駄を履いた足許をじっと見詰める且元を訝しんで

「且元殿、そろそろ」

 と探索開始をかす井伊や安藤の諸侍。

 我に返った且元が歩を進める。


 不思議なものだと思う。風景はまったく変わってしまっているのに、どこに何があったかが手に取るように分かるのである。

 顧みれば大和竜田の自邸ではどこに何があるが逐一供廻ともまわりの者共に尋ねなければ日常生活にさえ難渋するほど何も知らなかったのに、大坂城のこととなると、どこに何があるか、どこをどう進めば本丸にたどり着けるか、目を瞑ってでも説明できるのである。


 その証拠に、いまは焦げた野山と変わらぬ姿になった大坂城を、且元は往時の道を行くが如く案内してみせる。慣れない徳川の人々は、ついて行くのがやっとであった。


「おそらくは……」

 不意に且元が立ち止まって切り出した。

御台みだい(茶々)と秀頼公は、山里の曲輪におわすものと見受けられる」

 千畳敷や書院、奥御殿それに天守といった主要な構造物がことごとく焼け落ちていることを見極めると、且元は豊臣の首脳陣が、落城とともに腹を切ることなく、依然城内に潜伏していること。だとすれば山里の曲輪に潜伏しているであろうことを予見して言った。


 且元の言を受けた井伊直孝が山里曲輪に斥候をやると、果たして朱に塗られた三番目の矢倉に人の気配がするという。恐らく豊臣の人々であろう。


 いかに秀頼が戦いを望んでいなかったと弁明しても、牢人衆は秀頼の名の下に参集したのであり、秀頼のために死んでいったのである。自分のために、恐らくは万を超える人々が死んでいったこの期に及んで、

「戦いは自分の意志ではなかった。牢人衆が勝手にやったものだ。命だけは助けて下さい」 

 と彼等は言いたいのであろう。

 そう思い至ると、不意に且元の両眼から涙があふれた。

 傍から見たそれは、あたかも旧主の滅亡を憐れみ悼んで流した涙に思われたが、実際のところはそんな軽薄なものではなかった。 


 朝鮮の役の戦後処理を完遂することなく逝った父秀吉といい、かかる敗軍の責任も取らずなんとか露命をつなごうと足掻く子秀頼といい、父子共々武士の風上にも置けぬ。これが俺の尽くしてきた豊臣という家の本当の姿だったのか。

 そう思い至ると、且元は自分がそんなつまらないものに、人生のほとんど全部をかけてきたことに絶望したのである。涙は豊臣家のために流したものなどでは断じてなかった。且元が、且元自身のために流した涙であった。


「胸中お察し致し申す」

 悲嘆に暮れる且元を慮って直孝が声をかける。彼等は旧主を憐れんで涙する且元を慮っているのである。自分の人生のほとんどは無駄だったと嘆く且元の心中を真に察した上で慰めているものではなかった。

 直孝が本気で且元の忠義を慮って言ったかどうかは定かではない。本気であろうが社交辞令であろうが、且元は生きている限り忠節が尊ばれるこのような社会で生きていかなければならないのである。忠節という目に見えない不確かなものに端を発する、長いながい勤めの日々が、これほどまでにつまらない、実に空疎な結果をもたらすものであったとしても!

 

 徳川の人々は豊臣首脳陣が籠もっているであろう矢倉に向かって鉄炮を放った。銃弾により豊臣の人々を殺害しようとしたのではない。交渉無用を言外に告げ、自裁を促すためであった。


 矢倉のなかから慌ただしい物音が聞こえる。ややあって耳をつんざく轟音と爆発。


 矢倉は粉みじんに消し飛んだ。茶々、秀頼母子の自裁とともに、弾薬に着火したものと思われた。

 大坂落城の翌日、慶長二十年(一六一五)五月八日、豊臣家はこうして滅亡したのであった。


 旧主の滅亡と共に、且元は腹を切る覚悟を固めた。その覚悟を知る者は、家康以外にさほど多くない。

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