第七話 且元が武力闘争路線を放棄した理由
豊家存続のために手を尽くしてきた家康であったが、且元の大坂退去が確定的になってからの動きは素早かった。且元が自身に対する襲撃計画を知り、城下の屋敷に籠もったのは慶長十九年(一六一四)九月二十三日のことである。大坂城における御家騒動は飛脚を以て駿府城の家康に知らされ、激怒した家康は翌月
鐘銘問題では家康の不興を買った且元であったが、だからといって豊臣家の者に殺されて良いわけがなかった。
鐘銘問題に豊臣家が首を突っ込んできて徳川の家臣たる且元の殺害を計画した事件は、戦国の申し子家康にとって容認できないことであった。己が家臣への攻撃は自身への攻撃と同じである。
鐘銘事件は確かに言いがかりであった。しかしそれは、豊臣による寺社造営を止めさせるための言いがかりだったのであり、狡知に長けた家康がそこから更に開戦につなげた、というのは結果から見た附会に過ぎない。
開戦の直接の理由は、大坂方による且元襲撃計画だったのである。
大坂方は、先に且元が唾を付けておいた関ヶ原牢人衆に呼びかけて彼等を雇用し、十万とも号する大軍を城中に抱え込むことになる。且元がいなくなったことで、当人が何年も前に放棄したはずの武力闘争路線が復活した形である。
戦端は十一月二十五日に開かれた。押し寄せた上杉、佐竹隊に対して、大坂城中から大野治長、木村重成、後藤又兵衛等が打って掛かり激戦となる。いわゆる
数に押される大坂方は城内へと追いやられ、その状況は城西の
しかし大坂方に悲壮感はなかった。
なぜならば天下無双の大坂城は未だ健在であり傷ひとつなく、戦いはこれから本番を迎えると思われたからだ。
十二月四日、寄せ手による総掛かりが行われた。前述のとおり城南は大坂城唯一の弱点であって、包囲の圧力もここが最も強力であった。
幕府軍は堅城大坂城を相手に決定打を欠いていたが、一方の城方にも不安要素があった。弾薬の不足である。
城方は戦前の努力により十六万石もの兵粮を蓄えており、当時の成人男性が一日に米五合を消費したというから十万の将卒が一年間は食いつなぐことができる蓄えがあったことになる。食糧に余裕はあったが激しい銃撃戦のために弾薬不足が先に問題化した形である。
因みに豊臣は兵粮を集めるにあたって、港湾に集積された全国からの年貢米を接収している。ほんらいは換金目的で各大名が大坂に回送した米を、豊臣が強引に接収したのだから迷惑な話だ。こんなことをされてしまっては如何な太閤恩顧の大名とはいえもはや豊臣に味方するというわけにはいかなかった。
また幕府は幕府で、大坂のような要地をいつまでも豊臣に私物化させておいてはならないとの決意を新たにしたことだろう。
豊臣にとって兵粮を接収した行為は、その価値を台無しにして余りある悪手であった。
よく、備前島からの砲撃が大坂城天守閣を直撃し、パニックに陥った茶々が発作的に講和を言い出したなどとされるが、果たしてどうであろうか。
右のとおり幕府方は本格的な冬の到来を前に包囲攻城の長期化を懸念しており、また城方は弾薬不足という不安要素があった。双方が講和を望む素地は確かにあった。
「秀頼の大坂在城を認める代わりに濠を埋める」
という条件で講和を持ちかけると、戦況有利にありながら大坂方はあっさりとこれに応じたところを見ると、豊臣家の最終目標が「大坂城の維持」にあったことは間違いがない。
講和は成ったが、豊臣が関ヶ原以来天下に溢れる牢人の受け皿になり得ることが明白になった以上、家康はもうこれを生かしてはおけなかった。
大坂城の維持にこぎ着けたという豊臣首脳陣の安堵感とは違って、籠城戦を戦った牢人衆は徳川が自分たちを決して許さないことを確信していた。講和を維持しようという大野治長は城内で刺客に襲われ負傷し、大坂城は茶々や秀頼の意図とは無関係に、再戦を厭わぬ不穏な気運に支配されていった。
こうして慶長二十年(一六一五)四月二十九日、樫井にて大坂方と幕府方が激突して大坂夏の陣が開始された。
家康は五月五日に二条城を出陣し、その際旗本衆に対して、
「裸城同然の大坂城を落とすに兵粮は三日分で十分である」
と言い放ったという。
濠を埋められて後がない城方は驚異的な奮戦を見せ、前回は父の遺訓に従って手柄を挙げた真田幸村は、本戦では自ら類い希な武力と勇気を発揮して、一時は切腹を覚悟させるまでに家康を追い詰める。家康本陣の旗が倒れるのは四十年以上前の三方ヶ原合戦以来のことであった。この「天王寺決戦」は、文字どおり戦国最後の光芒として、真田幸村の武勇を今日に伝えている。
しかし大坂方の奮戦もここまでであった。
出陣が期待されていた秀頼は結局城を出ることはなく、真田をはじめとする牢人衆も力尽き、はしなくも家康の予言どおり三日目の五月七日、曾て宣教師たちに東洋一と謳われるほどの壮麗を誇った豊臣大坂城は、紅蓮の炎に焼かれて永遠に地上から消え去ったのであった。
だが且元にとっての大坂城は、自身に対する襲撃計画を知って逐われるように退城した前年九月に、既に終焉を迎えていた。
幕府軍を迎え撃つために濠を深くし、ために茶色く濁った濠の水も、逆茂木乱杭を打ちつけてひどく殺風景な風情を呈するようになった外観も、且元の知る大坂城ではなかった。
そしていま大坂城は、且元の人生の大半を費やして維持管理されてきた「生前の姿」を思い返すことが困難なほどの一面焼け野原に身をやつしていた。
こうなることを恐れて、且元は武力闘争路線を放棄したのではなかったか。大坂落城に際しての牢人衆の活躍は物語としては美しかったかもしれないが、ただそれだけの話だ。豊臣を跡形もなく破壊し尽くしてしまったという意味において、牢人衆は、或いは徳川よりも厄介な存在だったかもしれない。
大坂城の焼け跡を検分すべく、井伊直孝や安藤重信、安藤正次等を引率して焼け野原に分け入る且元。
豊家の家老として過ごしてきた時間の全てが灰燼に帰したいま、且元は不思議な感覚のなかに身を置いていた。自分の過去が灰になって消えてしまったというのに、何故自分は生きていられるのだろうか、という感覚に襲われていたのである。根の腐った木が立ち枯れるのと同じで、過去を失った自分が両の足で大地に立っていることが、且元には不思議に思われて仕方がなかったのであった。
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