「雨の蝋燭」

小箱エイト

「雨の蝋燭」

 ウィンドーの外は湿ったカンバスの絵のようだった。

 終日雨が降り続き、滲んだ黒にまばらな黄色や白が散っている。駅舎の売店はすでに照明が落ち、外に並んだ自販機が闇に浮かぶように発光している。旅人の賑わいもとうに過ぎて、行き交う人々の姿もまばらになった。

 ロータリーを旋回してきたタクシーのライトが、舗道をうかがうように徐行しては、あきらめたようにウィンドーの正面に停まった。その前方には、夜行バスが白い息を吐いて待機している。


 雨は止むことを知らない。

二杯目のカップももうすぐ底をつく。このままコーヒースタンドで夜を過ごすつもりはなく、けれど、まだガラスの向こうへ行く気にはなれなかった。


 バスの待合所から洩れる明かり、舗道に揺れる人影。待ちわびる乗客たちが列を作りだし、アーケードの照明は、そんな人々を白っぽい光で照らしている。

 行き先の終点は眩しくて遠い街。高速を夜通し駆け抜けて、早朝にたどり着く。遠い街の空気はぬるくて、カラカラと乾いていて、少しむせるかもしれない。すれ違う人々はきっと、冷たい秩序を持っていて、それゆえに暮らしてゆける場所なのかもしれない。そんなまどろみのような憧憬を、あのバスは運んでゆく。

 雨はしっとりと静かに、まるでそうすることがあたり前のようにすべてのものを濡らしてゆく。

 バスの乗降ドアが開いた。旅人たちはいっせいに動き出す。ゆっくりと列がバスにのみ込まれてゆく。

 私は人々を見送る。旅人たちの動きはフェルト人形のようにしなやかだった。けれど、最後の男は違っていた。荷物も持たず、両手をポケットに突っ込んだまま、上着の襟もとに顔をうずめるようにして立ったきり動かない。まるで小さな蝋燭のように。

 夜気はすっかり濡れている。

 溜息のように洩れたバスの排気。ぱっかりと口を開けたままのドア。運転手が出てきて、男の背中に手をあてて促す。もう時間は迫っている。

 男は襟元から首を伸ばして、ゆっくりと振り返った。その時、ガラス越しに目が合ったような、気がした。青白い肌、鋭利な光をした瞳。まだ青年と呼ぶのがふさわしい。じっとこちらに顔を向けて、一歩踏み出そうとして、足を止めた。胸がひりりと切られる思いがして、空になったカップを握り直す。

 やがて男は空を仰ぎ、顔じゅうで雨をうける。降り注ぐ滴のすべてを受けとめるかのように。もう一度、運転手が背中を押す。男は下を向くと、ポケットの両手もそのままに、濡れた頭にも構わずに、さらりとタラップを駆け上がった。


 闇を走る箱は、みっしりと黒く膨らんで見えた。それは目の前が曇っているせいなのか、私の思い過ごしなのかわからない。

 クラクションが短く鳴った。金色のライトを放って夜行バスは動き出し、瞬く間に闇のなかへと消えていった。まどろみの憧憬を乗せて。


 店を出ると闇が私に迫ってきた。歩くほどに霧状の粒が身体に張りついて、みるみるうちに全身が黒くなる。

 無人になったバス亭の前で、私は荷物をおろした。コートのポケットからよれたチケットを取り出すと、感覚の鈍い手でそれを破って捨てた。


 一時いっときの夢を見ていた。遠い場所なら変われるかもしれない、と。そのまま目が覚めなければよかった。 向かう途中、ウィンドーに映る自分を見て、私は足を止めた。

 背負ったものを捨てることができるなら、今頃は男の肩に頭をもたげ、まどろみに揺れているだろう。せめて雨が、男の記憶を洗い流してくれればいい。私という裏切りの影を。


 二つに裂けた夢は、バスのいた場所に散って、雨に溶けていった。私は闇の中に立ち尽くしていた。灯りの消えた蝋燭のように。

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「雨の蝋燭」 小箱エイト @sakusaku-go

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