第2話 浮島にて

 空の青と雲の雲が見渡す限りにどこまでも広がる世界、『天曜』。

 人々はその天に僅かに漂うちっぽけな浮島で生を営んでいた。

 かつては浮島とは比較にならない巨大な地、『大地』に根を下ろし、人口も今の万倍、あるいはそれ以上の数を誇り繁栄を極めていたというが、それを知るものはこの天曜にはいない。

 ちっぽけな浮島で生まれ、子を産み育て、死ぬ。世代を繰り返す内に、いつしか歴史と神話は不可分となり、大地の存在を信じる者も居なくなった。

 民族の交流もなく、変化のない空に生きる内に遺伝子はとても痩せ細り、人類は緩やかな死に向かいつつあった。

 16年前に生まれたこの若き騎士のセトは、黄昏の時にある天曜の民にあって、数百年ぶりに実を付けた、熱き血を持つ「変わり種」だった。



「ずいぶんと降りてきた」

 天曜の空に漂う無数の浮島うきしま。その中でも特に小さい、二騎のエルクルスが翅を下ろせばいっぱいになる石ころとでも呼ぶべき名もなき浮島にセトとタルテは居た。

 ここらはセトたちの暮らす『リューシュの浮島』よりかなり低い位置にある。そのために空気も濃く、いくらか暖かい。緑は岩の上に僅かにへばり付いている程度だが、常緑樹が一本だけ岩間から生えていた。もっとも、この季節はその葉も降り積もった雪によって半ば隠れているのだが、雪の下に見える緑の色は濃い。かなり下まで証拠だ。雪の重みと力比べをするようにしなる枝も、木の内を宿る生命力を感じさせる。岩を割るように巡る根も、地表に見える幹以上の大きさで、この浮島の中に根差しているに違いない。

 この木がこの浮島の「支え」なのだな、とセトは思った。 

 物質を天に留める力『普力ふりょく』。その源は、浮き島に棲む植物たちの放つポレンによるものだ。木は生き残るために、日の光を得るために、天敵や競争相手を遠ざけるために、子孫を残すために――、自らが根を下ろす岩を宙に浮かせているのだ。

 セトたち人間もそういった草木の性質のおかげで、浮島の上にくにを築いて生きていけるし、今こうして浮島に足をつけて休む事もできる。

 セトは振り返った。

 純白に染められた雪面の向こう、ブランビィが跪く足元、その主たる騎士のタルテも、膝を付いて降り積もった雪を見下ろしていた。

 タルテの白い肌と白い髪は、背景の雪に混ざり輪郭を失って景色に溶けている。

 遠目に見るタルテは色も、熱も、厚みも、重さも、人の生臭さというものをまるで感じさせない、絵のような、絵でなければ雪の精かのような――、それがタルテという、セトと16年の月日を共に育った騎士だった。

 セトとタルテの手合てあいは相打ちとなり、二人のポレンは同時に尽きた。そしてエルクルスは普力を失い、堕ちた。

 エルクルスと同調する騎士は、エルクルスの繰者であると同時に動力源でもある。アンバーに収まる騎士が活力に満ちていればエルクルスは無限に活動する事ができるが、騎士が弱まり、その精神も弱まれば、ポレンの輝きは鈍り、エルクルスは普力を失い宙に留めていられなくなる。セトとタルテは互いのポレンを消費しつくしながらも、どうにかこの浮島に不時着したのだった。

 手合いでここまで力を出したのはいつ以来か。相対していたタルテに対して、これまで言葉にできなかった鬱憤が溜まっていたのは間違いない。セトはそれを剣に込めて吐き出した。

 セトは、今日の手合いに勝った時には、タルテにその募りに募った想いを告げると願掛けをしていたのだが、相打ちになった場合は考えていなかった……。

 ザク、ザク、と雪原に足跡を残しながらセトはタルテに歩み寄る。

 タルテはこちらを見ずに視線を落としたままだ。傍らに立ち、タルテの白い頭を見下ろす。

 今日こそ、今日こそ言う。だがセトが言葉を掛けあぐねていると、タルテが先に口を開いた。

「春が近い」

 変わらず足元を見たまま、独り言とも、こちらに呼びかけたともとれない口調で言う。

 伸ばされたタルテの左手が添えられているものの存在に、セトは気付いた。

待雪花まつゆきばなか」

 言いながらセトも腰を下ろす。目を凝らすと、タルテの指先には、日の光を反射して煌めく雪の白とは位相の異なる、どこか温かみのある鈴のような小さな白い花弁が、雪の間から覗いていた。

 同じ高さに顔を下げても、タルテは微動だにせず俯き、横髪に隠れた顔は見えない。

 タルテは呼吸も感じさせずに、花のよう佇んでいる。

 細くしなかやかな手足と体、玉子のように滑らかな形の頭に首で斬り揃えた豊かな白い髪。タルテ自身が一輪の待雪花に見えた。

 待雪花を愛でるタルテはの心は、ここではないどこか遠くにあるのかもしれない。

 タルテは左手で待雪花に触れながら、右手は首から下げた「お守り」を握りしめている。お守り――革袋の中に収められた『種』。それは物思いする時のタルテの癖だった。

 最近のこいつは少しおかしい。

 雪のように白い髪と肌、氷のごとき冷徹な戦いぶりと、表情を変えない面差しから、仲間たちはいつしかタルテを『白雪のタルテブランシュネージュ』と呼ぶようになった。

 それはタルテの生い立ちに起因するものかもしれなかったが、でもそれは違う。ただ自分の思いを他者に伝えるのが苦手で、本当は誰よりも仲間を思い、他者の心に機微で、草花や動物と語らうタルテは『白雪のタルテブランシュネージュ』ではなく、『待雪花のタルテペルシュネージュ』と呼ばれる方が似合っている。だが、その事はセトだけが知る事であり、仲間たちや、まして口が曲がっても本人には聞かせられる話ではなかった。

「ニュウビィじゃあるまいし、堕ちるまでやり合うなんてな」

 間を取り繕うように言いながら、セトは立ち上がった。タルテはこちらの声が聞こえていないように、なんの反応もしない。

 実際、ここまで消耗したのは久しぶりだ。セトとタルテは共に騎士となり、エルクルスを授かってから僅か一年で、今やリューシュの邑でも指折りの騎士となった。実戦にでるようになり、また見習いニュウビィの指揮や訓練を受け持つようになると、同期と手合いをする時間も減る。

 セトの体には先の同調の余韻がまだ残っていた。あんなに全力で飛んだのは久しぶりだ。やはりセトをもっとも成長させるのは、タルテと剣を交える事なのかもしれない。しかし、先の血沸くような剣戟も、タルテにとってはもうどうでもいい事なのかもしれない。今のタルテの胸を占めているのは、全く別な事なのだろうから……。

 おもむろにタルテが立ち上がり、歩みだした。セトも無言でその背中を追う。タルテは、セトが先ほどいた木の下まで来ると、枝を見上げて呟いた。

「蛹が孵りそうだ」

 タルテの視線の先には、爪にも満たない小さな蝶の蛹があった。目ざといなこいつは。よくあんな小さなものを見つけられるものだ。よく見れば、雪に覆われた枝のそこここに同じ蛹はぶら下がっており、所々には蕾がいくつもついている。

 花に蝶、春の訪れを告げるものたちが、蕾の中、蛹の中で、目覚めの時を今かと待っている――。

 タルテはこうべを巡らせてセトを仰ぎ見た。タルテの琥珀色の瞳と、目と目とが合う。

 今日初めて――いや、久しぶりにタルテの顔を見た気がする。色素の薄い瞳に淡い感情が覗いたように見えたのも一瞬、タルテはすぐに視線をセトの顔の背後に注いで言った。

「開花が近い」

 つられてセトもタルテの視線の先に振り返る。そしてその眩しさに目を細めた。

 雲を貫き、蒼天を摩するようにして聳えたつ巨大な「木」があった。セトは喉が見える程に天を仰ぐ。ここまで下に降りれば、梢は雲に遮られて見えなかった。暗床の森から生えるその木は、視界を埋め尽くし――いや、その木はセトたち『拝花はいかの民』が生きる「世界」そのものだった。

 秦樹たいじゅ

 天曜に生きる全ての命の母たる巨木が今、千年に一度の花開く時を迎えようとしている。

 千年に一度の開花は、あらゆる生き物に恵みをもたらすと言われている。蜜と花粉を求め虫たちが集まり、秦樹に着生する草木も、着生主との開花周期に合わせて一斉開花する。また秦樹がつける果実は、あらゆる病に効く不老長寿の薬だった。その種を口にした者は、肉体の内に宿る花が開き、エルクルスと同調せし者となる。その恩恵を受けているのが、セトたち拝花の民だった。

 母たる巨木は、雪化粧に覆われて白く染まっていた。低度から見上げる枝は濃い影を作ると同時に、南天を過ぎた太陽に照らされた巨躯は眩く輝き、白と黒の無彩色の複雑精緻なコントラストに彩られている。

 熱を増した陽光に、雪は雫となって滴り、雨となって落ち、暗床の森付近では滝となって降り注ぐ。冬が明けるこの時期にだけ秦樹の低位に現れる滝は、ここでしか見る事しかできない絶景だ。

 秦樹の梢近くにあるリューシュの浮島で暮らす拝花の民たちでは目にかかる事のできない、エルクルスを駆る騎士の役得でもあった。

 膨大な水が作りだす靄の向こうに虹が掛かっていた。このちっぽけな浮島と秦樹を結ぶ虹を歩いて、秦樹まで渡れるかのように錯覚させる。

「きれい……」

   呟いたタルテの顔に幼かった頃の面影が覗いた。やはりこいつは邑の奴らが言うような雪女では断じてない。タルテは誰よりも情緒が豊かで、自然と心を通わす事ができる。俺はそんなお前の事が……。

 もっときれいなものを教えようか?そんな言葉が脳裏に浮かんで、あまりにも自分らしくない言葉に、セトは我知らず赤面する。

 ブルブルと頭を振ったセトに、タルテが訝しる目を向ける。

「な、なんでもない」

 セトはそう絞り出してそっぽを向き、タルテもなんでもないという風にすぐに視線を戻す。くそ、こちらの気も知らないで……

 タルテは抱えた迷いによっていつも以上に寡黙になっている。でも懸案を抱えているのはセトにしても同じだった。こちらの内心など露知らずに飄々としているタルテと、そして気の利いた言葉の一つも言えない自分に段々と腹も立ってくる。

 セトは無意識に腰に佩いた剣の鍔を握っていた。それはセトが意を決した時の癖だった。タルテにとってのお守りが種ならば、セトにとっての文字通りのお守りは剣だった。本題を切り出そうと、タルテの方に体全てを向けた。

「お前が次の花巫女フルリに選ばれるって噂、本当なのか?」

 セトたち天曜に生きるものたちにとって最も大事な事、秦樹たいじゅの開花。そして巫女の継承。

 千年の間、秦樹の言葉を民に伝え、導いてきた巫女が、その役を終え、その座を次の者に譲り渡す。

 セトとタルテが騎士となった一年前と時を同じくして、秦樹の開花が迫っていると民たちの間に囁かれるようになると、次なる巫女は、エルクルスと最も同調しうるタルテこそふさわしいのではないかとも言われるようになった。

 花巫女フルリ。麗らかなポレンを持ち、自然と心を通わせ、秦樹と同調せし者。

 それが花巫女フルリたる者の資質であるならば、その者はタルテ以外にはいないということは、セトも認めていた。その噂が当のタルテやセトの耳に入るようになると、元々口数の少なかったタルテは一層口を閉ざすようになり、セトとタルテが幼い頃のように話すことも減っていった。

 セトがタルテにこの話を持ち出すのも初めてだった。遠出したのは、この話をするためなのも理由の一つではあった。だがタルテは、セトの言葉に無反応だった。視線を秦樹に据えたままようようと応えた。

「私なんか、恐れ多いことだ」

 やはりナイーブになっているのはこの事だろう。

 幼い頃から共に育ち、騎士となるために切磋琢磨してきたタルテが、民たちの導き手、秦樹の代弁者、花巫女フルリになるなんて、セトには想像もつかなった。それは恐らくタルテもそうなのであろうと、セトは思った。

 せっかく久しぶりに二人きりになれたのに、まるで口を利こうとしないタルテに苛立ちを募らせながら、セトも秦樹に視線を戻す。虹の先にまします神木を眺めながら、セトの胸中に以前より秘めていた疑念が湧きあがってきた。秦樹は――。

「本当に咲くのか?」

 この季節、秦樹は葉を落とし、生の営みを停めているようにも見える。雪に染められた巨躯は、まるで死装束を羽織っているようでもある。

 秦樹は葉は年々、減っていた。伝え聞くところによると、100年前にはもうその兆候があったらしい。この浮島に来る途中にも、以前はあった大きな枝が無くなっていた。その上にあった村ごと。枯れて落ちたのだ。あの村に生きていた人たちは枝が落ちる前に余所へ移住したのか、それとも……。

 リューシュの邑でも、秦樹の恵みたる「種」の蓄えは尽きようとしていた。

 種は確かに万病に効く薬だった。だがそれなのに、いや、それ故かもしれない。リューシュの民の出生率は月日を経るごとに下がっていた。

 最早、種を無くして生きていけなくなってしまったリューシュの住人達は、秦樹が花咲かなければ滅ぶとも言われている。秦樹は今年咲くのか。そもそも秦樹とは本当に咲くのか。それはリューシュの民のみならず、この秦樹そのものの寿命が尽きかけているのだ、と口にする者も一人ならずいた。

 秦樹が花開かず、枯れるのであれば、そこに生きる者たちも死ぬというのか。母たる秦樹が滅びるからといって、運命を共にしろと?

 今、セトたちが立つ浮島の木と違い、秦樹は一つの蕾も付けてはいない。

 秦樹を睨み付けるセトの瞳に、恨み、怒り、不信といった感情が灯る。木を恨むなんていう馬鹿げた感情を、一方の自分が客観視しながらも、その暗い炎は消える事はない。

 靄越しに見上げる秦樹は、そんなセトの想いなど知る由もなく、陽光を身に纏った雪に受けて輝いていた。

 セトは目を閉じ、秦樹が花開く姿を幻視するが、その光景は自分のちっぽけな頭で描けるようなものではなかった。視界を埋めるこのとんでもなく大きな木が花咲くならば、それはどれほどの壮観な光景となるのか、想像もつかない。それはセトだけじゃなく、全ての天曜の民がそうであった。

 悠久の時を生き、伝承の時代、世界の始まりと共にあったとも言われ、千年に一度咲かせる神木――。千年前に咲いた花を見た者は誰一人居ないのだから。ただ一人、この秦樹の「梢」にまします花巫女フルリを除いて。

 セトは、花巫女フルリが授かる秦樹の託宣に従い生きるという掟そのものに疑念を持っていた。木には意志なんてない。そんなものに生き方を決められるなんてどうかしている。6年前、それを口にしたセトと、熱心な拝花の民であった両親との間で諍いになり、父親はセトを勘当した。家を出てからは師の元で世話になり、1年前にはその師の元も離れた。セトも成長するにつれて、秦樹に対する疑いを口にすることはしなくなったが、内心が変わったわけではない。むしろ成長するにつれて、その疑念――憤りと言っていいかもしれない――は以前より大きくなっていた。周囲の者は、そんなセトを変わり者や罰当たりだと言った。だがセトからすれば、おかしいのは決め事を信じる拝花の民たちの方だった。身寄りもなく、他者と協調もしないセトが、周囲の人間を認めさせるには力しかなかった。そして死に物狂いで修業した。騎士隊に入り頭角を表すと、セトの回りには再び人が集まるようになった。そして旗騎であるキバチを授かり、前例の無い若さで天曜の騎士エアリアとなった。

 セトの言葉にもタルテは動じている所はなく、タルテは風にそよぐ髪を手で撫でつけながら、

「咲くよ、間違いなくね」

 穏やかながらも、確信を孕んだ声音だった。

 なぜ言い切れる?あるいは、それが分かる事こそが巫女の資質なのか?喉まで出かけた反論を飲み込みながら、セトはタルテと心を通じ合えない自分にもどかしさを感じた。

 秦樹が咲くことは揺るがない定め。託宣を告げるかのようなタルテの口調に、セトはある人の面影を想起した。巫女様だ。全てを悟っているかのような、同じ人とは思えない超然とした空気――。

 冗談じゃない。タルテは俺と同じ人だ。タルテが巫女になるなんて断じて認めるわけにはいかない。だって巫女になってしまったら――。

「……なるなよ、巫女なんか」

 込み上げた思いが口から零れていた。

「お前はそれでいいのか。お前にはやりたい事はないのかよ」

 セトはタルテの肩を掴んでいた。両肩に置かれた手をやんわりと払いのけながら、タルテは薄く、柔らかに花のように微笑んだ。

 見抜かれ、セトの思考は止まった。心を射抜かれたようだった。その笑顔は花のようで、いや、これまでに見たどんな花よりもきれいだと、セトは思った。

 しかし――、その笑みからも、セトはタルテの本音を読むことはできなった。タルテの瞳は、駄々をこねる子供を諭すようでも、巫女になる事を受け入れているようでも、あるいは諦観しているようにも見えた。

 心を通わせられない、セトにとってはそれこそ草花や、あるいは精霊のような存在。タルテは、目の前にいるこの幼馴染は、もう以前のタルテではないのか?麗らかなポレンを持ち、自然と心を通わせる者――。これが巫女の素質なのか?もうそちらに行ってしまったのか?恐れ多いと言いながらも、もしかしたらタルテは自分の運命を予感しているのかもしれない。それこそが巫女の予言であるとでも言うように。

 真摯の訴えもタルテの心にはまるで届かず、胸の奥の熱が増すのをセトは知覚する。

 俺だって自分を育ててくれた両親と師、邑の皆には感謝している。でも、それは秦樹にじゃない。騎士に志願したのだって邑を守るためだ。でもその思いは、セトと同じく親の居なかったタルテには、とくに赤子の頃から孤児だったタルテにはそれ以上かもしれない。育ててもらった恩があるから、タルテは邑を裏切れない。望んで騎士になったセトと違い、タルテが騎士となったのは、エルクルスと同調する資質がずば抜けて高かった故だと、感じることもあった。そして今、巫女に選ばれたのならば、その運命も享受しようとしている。自分の意志を持つこともなく。

「秦樹なんて……」

 セトは秦樹を見上げた。靄に包まれた大樹は、目の前のちっぽけな浮島にある、ちっぽけな二人の人間の事など意に介することもなく、変わらぬ泰然とした姿だった。

「こんな木なんか無ければいい。そうすれば俺達も、邑の皆もこんな木にしがみつかなくても生きていける。自由になれる」

 タルテだって巫女にならなくて済む。

「セト」

 タルテが口を挟むのも構わず、セトは続けた。

「俺たちは秦樹の恩恵で生きているんじゃなくて、このバカでかい木に隷属させられているんじゃないのか?」

「セト」

 タルテがほんの僅かに語気を強める。

「心も持たないたかだか木を、何千年も崇めて生きてきた。そこから出ようとすることもなく」

「それ以上言うなら許さん」

 眉一つ動かさず、抑揚なく言うタルテの眼差しから、氷の冷たさが滲んでいた。それは感情を露にしない「白雪のタルテブランシュネージュ」の本気の怒りだった。

 でも、こちらも譲る気はなかった。セトが少年の頃から、ずっと秘めてきた思いでもあるからだ。

 騎士が存在する所以、それは自分たちと秦樹の生存を脅かすものから守護するためにある。それはつまり、秦樹は「種」という餌を与える事で、人間たちを奴隷にしているのではないのか。

 セトが詰め寄り次の句を告げようとした時、見つめるタルテの顔の下、胸が突然膨らんだ。

 膨らみはもぞもぞと自らの意志で動き、タルテの細い首まで這いあがると襟元から毛毬が飛び出し、それは座布団さながらに広がってセトに飛び掛かった。

 手足に生えた皮膜で、セトの視界を塞いだ毛むくじゃらは、鋭い爪でセトの顔をひっかくと、再び飛び退ってタルテの肩に戻った。

 タルテの懐から手足の皮膜で空を滑空するモモネコの子供、イーミロが飛び出したのだ。タルテと同じく親の居ないこのモモネコの子供は、タルテが母代わりとなって育てており、二人の不穏な空気を察して、母と敵対するものに攻撃を加えたのだった。目と口を吊り上げシャーッと威嚇する様は、子猫とはいえ肉食獣のそれだった。

 肩に乗る程の小さな獣の出す場違いな金切声に、セトとタルテはそろって苦笑を漏らし、それ以上の追及をする気持ちを殺がれてしまった。

 イーミロの下顎を撫でて落ち着くように宥めてやっているタルテを眺めるうちに、セトの内心もいくらか落ち着いてきた。同時に、心の最も奥深くに閉じ込めていた思いが湧き上がってくるのも自覚した。今日、タルテを連れ出したもう一つの理由。言うなら今しかない。険悪な空気を吹き飛ばしてくれたイーミロには感謝しなくちゃいけないな。

「なぁ、ガキの頃にした話、覚えてるか?」

 タルテは、頬を舐めるイーミロに構うばかりでこちらを見ずに、否定も肯定もしない。

「俺たちももう16、成人して1年が経った」

 イーミロをあやすタルテの手がピクリと止まった。イーミロはキョトンとなる。

「俺の気持ちは変わっていない」

「セト!」

 振り向いたタルテの顔には白雪のタルテブランシュネージュの冷たさはなかった。俺だけが知る待雪花のタルテペルシュネージュの生の感情が瞳に映っていた。

 タルテ。16年を共に育った幼馴染、天曜の騎士エアリアたるセトと双璧をなす騎士、自然と心を通わせる乙女。俺はそんなお前の事が――好きだ。

「邑を出て二人で暮らそう」

 その言葉は風となってタルテの体を撫で、真っすぐに見つめるセトの視線が、タルテの心の最も深い所に落ちる。

 見つめ合ったのは数秒となかったかもしれない。タルテは両肘を抱えて顔を伏せる。前髪に隠れたタルテの表情は伺えない。靄で張り付いたタルテの前髪から、雫が頬を伝って落ちた。肩に乗るイーミロは、タルテの見せる初めての様子に戸惑っているように見える。

「……リューシュは裏切れない」

 タルテの声は濡れていた。

「邑の事じゃない。お前がどう思っているのか聞かせてくれ!」

 踏み出し、声を荒げたセトに、タルテはビクッと肩を震わせた。

 イーミロは先のようにこちらを威嚇してくることはなかった。二人の間の異変に、変わらずどうしたらいいか分からないという風にキョトンとしていた。

 巫女になれば、もう同じ時を生きられなくなる。種の「恩恵」によって不老の身となった巫女は、秦樹と共に千年の時を生きる時の彼方に歩み去る。

 あの「梢」に閉じ込められ、普通の人としての生き方を捨て、連れ合いも子も持つ事もなく、仲間たちが老いていくのを見続ける、生きているとも呼べない時間の檻に捕らわれる。

 タルテがそんな花巫女フルリを継承する事なんて、セトは断じて認めるわけにはいかなかった。

 タルテが、邑の人たちに命を救われた恩を感じているのも知っている。でもそれは呪いなんだ。秦樹とリューシュの邑から解き放って、自分の生き方は自分で決めろ、とそう言ってやる者がタルテには必要なんだ。

 拝花の民は秦樹に縛られている。種の恩恵を受け続けるうちに、種に依存しなければ生きられなくなった。今年、秦樹が花咲いたとして、代々の呪いを子や孫に引き継がせ、次の千年もまた同じように生きるのか?呪いは俺達の代で断ち切るんだ。

 先刻とは逆に、イーミロはタルテの頬を舐めて宥めてやっていた。タルテは大丈夫だからと言うようにイーミロを撫で返した。

 やがて意をを決めたようにタルテが振り向いた。その面差しには託宣ではない、タルテ自身の意志が込められているように見えた。

 俺を受け入れるでも、あるいは拒むのでもいい。聞かせてくれお前の心を。 

 互いの瞳に、互いの姿を映す数瞬ののち、タルテはおもむろに口を開いた。

「私は――」


 どくん。


 その時、巨大なが二人の体を刺し貫いた。セトとタルテは同時にその震源を仰ぎ見る。秦樹の方角。この浮島からは秦樹の幹を挟んで反対側の枝の方向。

 黒く、禍々しい気配。もっともその方向を見据えた所で、遥か遠い震源を見る事はできない。だが二人は騎士は明瞭にその気配の発生源をことが出来た。

 そのモノが発する悪意や敵意と呼ばれる始原的で攻撃的な衝動が撒き散らされ、彼方にいるセトとタルテの肌を、骨を、脳髄を、ポレンをざわめかせた。針山のように突き刺さる気配、これは……。

むし……!」

 我知らずセトが叫んだ。

 蟲。人間の天敵。セトたち騎士が戦うモノども。

 この黒い気配――蟲たちが殺意のポレンを発するのは、人間と相対した時。つまり――、

「村が襲われている!?」

 タルテの声もまた戦慄に震えていた。氷のごとく冷静で動じない白雪のタルテブランシュネージュがここまで敵に慄く様を、セトは初めて目にした。

 二人はその気配を知っていたが、同時に未知の経験でもあった。騎士となり一年、幾度の実戦を積み、多くの蟲と戦ってきた二人だが、この時に感じたポレンは、過去に戦ってきたどの蟲たちが纏うポレンよりも大きく、また異質だった。

 数は一つ。だが、それはまるで空に穿たれた穴だった。そのたった一つの巨大な震源が、真っ黒な燐光を全方位に放射し、触れたものを絡めとり暗い穴へと引きずり込もうとしている。

「シャーッ」

 主の異変を感じとったのか、あるいはこのポレンを感じとったのか、イーミロが総毛を立たせ叫んだ。

 その鳴き声に横顔を叩かれ、タルテの方を振り向く。タルテもまたこちらを見据える。

 未知の衝撃に二人の騎士が呆然としていたのも僅かに過ぎなかった。顔を見合わせた二人は、何も言わずに踵を返してエルクルスの元へ走り出した。

 雪原を踏みしだき、跪くエルクルスの足元にまで走り寄った二人は、胸部に位置する操縦座アンバーへと飛び跳ねた。宝石の質感を持つアンバーが樹液のように粘り波打ち、二人の騎士を内に取り込む。

 巨人の体内に収まったセトとタルテが手足を垂れて目を閉じ瞑想する。体の奥へと潜行する二人の精神が、「中心」に在るポレンに触れると、光はどくんと脈打ち拡がりはじめた。風に煽られたように髪が逆立ち、肉体から湧き出た光がアンバーを満たすと、琥珀色アンバーの輝きは黄金色に移ろう。騎士の体から発したポレンは、エルクルスのポレンと触れ、混ざり、騎体を巡る神経となり、血液となって流れだした。

 騎体の背に閉じられていた玉虫の金属光沢を持つ前翅が持ち上がると、その下に畳まれていた蜻蛉トンボを思わせる透明な後翅が露になる。全高と変わらぬ大きさに展張した翅は、輝く鱗粉を蝶のごとく振り撒きだした。

 二人の騎士が目を見開くと、騎士と同調したエルクルスの複眼に光が灯った。

 命の息を吹き込まれたエルクルスは、両の足で地を蹴り浮島を跳び上がると、翅から迸るポレンが発する『普力ふりょく』によって飛翔した。

 靄を突き抜け、虹を渡るように真っすぐと秦樹の方へ。

 浮島が瞬時に小さくなり、天地を貫く壁のごとき秦樹の威容が近づくと、葉に覆われて隠れていたそのとてつもない太さの枝までが判じられるようになる。複雑に折れ曲がり、幾重にも分岐する枝の檻に飛びこむと、秦樹の途方もなく巨大な体に取り込まれた二騎のエルクルスはすぐに見えなくなった。

 この複雑怪奇な枝の上で人々は集落を作り、営みを送っていた。今、その村の一つが人間の敵である蟲に襲われている。

 セトは興奮する自分と、それを平静な心で見つめるもう一人の自分の存在を自覚していた。熱い闘志と氷の冷徹が折衷した今のような精神状態の時が、もっともエルクルスをよく駆る事ができる事を、セトは経験により悟っていた。セトはもう、生身の体でいる時よりも、このエルクルス、キバチと同調している時の方が自然なのかもしれなかった。

 この先に未知の蟲がいる。エルクルスを駆り、人を救け、蟲と闘う。今が騎士の義務を果たす時。セトは握把ヒルトを握る手に力を込めた。




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天曜の花巫女(フルリ) わた @ccot_tonn

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