③結婚とは《死してもなお……》

 レモン収穫期の山場を越える。

 収穫したレモンは貯蔵庫の中で黄色く染まり、まろやかな酸味になっていく。


 勝手口の畑のレモンがなくなったので、兄から許可を得て、丘の中腹に残っているレモンをもらいに向かう。


 緑の葉がさざめく樹木が並ぶ道脇で、少なくなってきたレモンを採る。

 もう味が変わってしまって、乃々夏に今年のグリーンレモンの香りを堪能させてあげることができなかった。

 着任、出航へと出かけていくあの日に飲ませてやれなかったことを、緑はつくづく後悔している。


 もうすぐ三月になるかという頃。島のあちこちには菜の花がちらほらと咲き始め、海辺に揺れているのを丘から見下ろす。


 今日の瀬戸内は、春先のやさしい風。青く滲む空と海から、丘にいる緑へと吹いてくる。


 きらきらと輝く水面のむこうに、岩国があるというのに。

 今日も水平線には、大きなタンカーとフェリーに漁船が行き交うだけ。

 彼女の艦は帰港したのだろうか。予定が狂った航海日程はまだ続いていて海上なのだろうか。それすらもわからない。


 持っていた篭へと、摘み終わったレモンを入れて店へと帰ろうとする。


「緑君――!」


 その声に、緑は立ち止まった。

 目の前はカフェへ続く道が見えるが、背中をむけている丘の麓からその声が聞こえてくる。


「緑、くん!!」


 誰の声かわかっている。聞き間違えるはずなどない。

 緑の胸に狂おしいものが込み上げてくる。目頭も熱くなる。でも彼女には絶対に見せたくない男の意地がぐっとそれを堪える。


 振り向くと、白い制服姿の彼女が麓から一生懸命スーツケースを引きずって丘の道を上ってくるのがみえる。


「緑……っ」


 息を切らしているのが伝わってくる。

 懸命に彼女がこちらへと向かってくる。

 緑もレモンの篭を畑の道ばたに置いて、走っていこうとした。


「乃々夏!」


 緑が走り出そうとしていたのに、もう彼女がスーツケースを道ばたに放って、こちらへと全力疾走でやってくる。


 その顔を見て、走り出そうとしていた緑は立ち止まったままになった。


「緑くん……、緑――、ごめんね、ごめん……、あのままでかけちゃってごめん!!」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにして乃々夏が走ってくる。

 あんな必死な顔で、あんなに感情的になって、彼女が帰ってくるのは初めてだった。


 海軍の白い制服姿の女が、いつものクールな佇まいもそっちのけで、同級生だった彼女の顔で駆けてくる。

 そんなに必死になってくれるのも初めて――で、緑はほんとうに彼女なのかと呆然と佇んでいた。


 でもそこへと、彼女が白い制服のまま、緑の胸元に飛び込んできた。

 その勢いも強く、受け止めた緑も『おっと』と少しだけよろめいたが、しっかりと抱き留める。


「乃々夏、無事だったか」

「ごめん……、あんなことに本当になるとは思ってなくて……」


 多くを前置きせずとも、彼女も報道で一般民間人の緑にも伝わっているとわかっていたようだった。


 その乃々夏からぎゅっと緑に抱きついて離れない。

 エプロンをしている男の胸に涙を染みこませて泣いている。


「軍人だから怖くなんかない。でも、あなたに会えなくなるのは怖かった! レモネード、飲まなかったから、緑くん、追いかけてきてくれたのに……、私、意地を張って逃げたから」


 やっぱり。どこかに隠れて最後に言葉を交わさずに旅立っていたと緑は知る。でもそんな彼女を緑もきつく抱き返す。

 その肩にどんなに立派な星の肩章がついていても、緑の腕の中に帰ってきた彼女は、かよわき『俺の乃々夏』だ。その黒髪の頭を胸元にきつく抱きよせる。


「俺も……。自分の気持ちばかり押しつけて悪かった。いいんだ、乃々夏。いつでもここに帰ってこい。それ以外なにも要らない。帰ってきて一緒にメシ食えたらそれでいい。それだけは、忘れないでくれ――」


 男を待たせていることが重荷なら、重荷にならない男として待っていたい。結婚などして、夫を哀しませるかもしれない女になりたくないなら、それでいい。ただの男と女だけでいい。それが、彼女が任務で危機にさらされ、連絡もつかなくなっても待っていた男が出した答えだった。


「……いや、私……、緑くんと結婚する……」


 ん? 一瞬、遠くから聞こえてきた船の汽笛のせいかと、緑は首を傾げる。

 でも、胸元で涙をかわいらしく湛えている乃々夏が、じっと緑を熱く見つめている。


「乃々夏、……なんか言ったか」

「緑君と結婚する」

「……それは、いったい、どういう……?」


 十回も断った女が、彼女がそれまで危惧しただろう軍人の危機に遭遇して、男と連絡不通となって待たせることに気がとがめていたのに、『結婚したい』と言い出した?


「死ぬかと思った。詳しくは言えないけれど。ほんとうに一歩間違っていたら、私の艦、爆撃されていた。回避できたからいい……、じゃないの! あの日の夜、私、怖くて泣いていた。もしかしたら、緑くんに二度と会えなかったかもしれない。遺体になっても、家族じゃない緑くんは私に会えないし、引き取れないかもしれない。あの日、すれ違って別れたままにしていたら、緑君も私の意地のために悔いる日々を遺していたかもしれないって……そんなのイヤ!」


 ゾクッとした。乃々夏のそこまで染みこんだ海軍軍人としての心構えと覚悟にだった。ただ怖くて二度と会えないかもしれないから、だから結婚しようではなかった。


『死してもなお、帰るべき場所は緑のところでありたい』――という彼女の、感覚と、緑への気持ちの深さが、だった。


 緑も涙がこぼれてきた。

 レモンの緑の葉がさざめくそこで乃々夏を深く胸元にかき抱く。


「わかった。その時も乃々夏が帰ってくるのは、このレモンの丘の俺の店だ。俺が最後まできちっと引き取ってやる」

「いままで……、なにもなくても、ここに帰ってくればいいと思っていたから……、それだけでいいの……わたし、緑君のところに帰れたらいいの」

「わかった。任せろ。おまえが帰ってくる場所、俺が守るから」

「うん。愛している、愛してるの、緑君しかいないよ」


 緑より背が低い彼女から、クッと背伸びをして緑の口元へとキスを押しつけてきた。


「の、のの……か……」


 激しい口づけの合間に、乃々夏はなんども『すき、あいしてる、りょくくん、もうはなれない』と呟くものだから、緑も感極まってそのキスに吸いつき、対抗するように強く彼女を愛していた。


 レモンの丘で、緑の葉がさざめくそこで、待ちくたびれた男と置き去りにしてきた女が深く抱きあう。


 瀬戸内の潮風の中、緑はやっと白い制服の彼女の肩を抱いて、丘の道をのぼり始める。


「レモネード、作るよ」

「もう金曜日じゃなくても頼んでもいい?」

「金曜日はカレーだけにしとけ」


 仕事に関することは、この丘の家ではなし。

 彼女はこれからも、ここに還ってくる。

 たとえ殉職して死しても、ここに。彼女が最後にと望む場所はこのレモンの丘で、そして緑だけだ。


「……ほんとうは子供もほしいの、でも、私……海に出てしまうから」

「そんなことを気にしていたのか。おまえ、俺がどれだけ家事が優秀かまだ認めていないのか」

「だって……全部まかせちゃうことに」

「俺も子供ほしいからな。とっとと産めよ。俺が子育てがんばるから」


 やっと彼女が笑顔になった。

 それがいままでずっと言えなかったのだろう。そしてやり過ごして、やり過ごして、どうすればいいのか思っているうちに、今回のような死線を彷徨う出来事に遭遇し、初めて『本心』をむき出しにされたのかもしれない。


 その彼女が店のドアまでやってきて、緑に肩を抱かれたまま、丘へと振りかえる。


「私が帰ってくる、緑の場所。甘いレモネードの匂いがするの」


 そうだな。緑も瀬戸内の海からそよぐ風の中、彼女と緑とレモンが揺れる丘を眺める。


 ここは彼女の家になる。

 緑の葉、青いレモン、そして待つ男『緑』。

 Green、Green、スイートホーム。

 緑が彼女のために守っていく。


(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Green Green スイートホーム~金曜日はレモネード~ 市來 茉莉 @marikadrug

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ