そして

 すっかり不機嫌になって、もはや苦しそうにうなだれたままの未来。その小さな膝の上で、コロは未来を心配そうに見上げる。

(……どうしたんだろう。未来さま)

 コロには、ほんとうに、わかっていなかった――未来がいま、なにに苛立ちなぜうなだれ、……なにを、コロのために――取り戻そうと、しているのかということだ。

 コロは、そこまで、適応してしまっていた。……それは、すくなくともコロにとっては、適切な適応だった。

 犬に成る。五歳の夜の日、未来にその名を呼ばれたときから、コロはひたすらにその道を突き進んでいる。

 飼い主の――飼い主という役割を突っ走れない未来を、差し置いて。……だがコロには、自覚はない。ないのだ、そこまでは、まだ。

(……わたしが、またなにか、いけないことしちゃったかなあ)

 コロはこくりと首をかしげた。

(うう。わたしがいけないことしちゃったなら――謝らないと。未来さまに、ごめんなさいして、ゆるしてもらわないと……)

 コロはそう思って、コロにとってはごく自然な謝罪として――グローブの不自由な両手で支えて自身の胸を持ち上げると、そっと目を細めて、未来の頬に舌を這わせた。ここがたしかに未来の頬だと舌の感触で理解したコロは、細めた目をそのまま、閉じた。舐めるにはこのほうがいいとコロは体感的に知っていた。視覚情報は、むしろこういったときには邪魔なのだ、と。

 ちろ、ちろ、ぺろ、ぺろ、と……舐めていく。これは、コロにとっては、――まさしく謝罪なのだ。犬として、反省していることを示すため。……この少女は五歳のときからずっとそのように教えられていた。

 コロは声にはなにも出さずに、目を閉じたまま、ただ小さな主人の頬を舌で舐め続ける。こころのなかでだけ、言葉を用いてずっとずっと、語りかけている、……けっして表には出ない飼い犬の、コロの、言葉。

(ごめんなさい……未来さま、ごめんなさい。コロ、犬だからわかんないけど、きっとコロがまた、いけないことをしちゃったから……ごめんなさい、コロ、こんな子でごめんなさい。……ゆるして、未来さま。わたしのこと――)

「――ああっ、もう!」

 未来がふいに叫んだ。コロはびくっと全身を震わせる。

 未来は頭を激しく掻きむしった。そしてコロの両肩を、勢いよく掴んだ。

 コロの顔が恐怖と不安に染まる。

「……あ、あの、あう、未来さま、」

 未来はとても怖い顔でコロを見ていた。

 真正面から。射抜くようにして。とてもとてもとても、怒っているかのような顔で。

「――あうう、ごめんな、」

 さい、と言い切ることは、できなかった。


 次の瞬間コロは乱暴に未来に引き寄せられ、……その唇を奪われていた。



(え?)

 コロはなにが起こったのかとっさによくわからなかった。

 主人に口づけられてるわけだが、それがいったいなにを意味するのか――飼い犬として、読み取りきることができなかった。


 ふたりの唇が重なっている。未来は、押しつけようとして、しかしそれはやはりやめたようだった。……唇の動きだけでそのくらいの判断は感じ取れた。ふたりは――もう、五年以上、互いの半生以上の時間を、密に共有しているのだ。


 ……短い、時間のことだった。おそらくは、数秒単位でのできごと。

 未来は、顔を離した。

 未来はそれよりももっと短い時間だけまっすぐコロを見つめると、抱き寄せたときとおなじように、両腕で押し返すようにしてコロを遠ざけた。そして無言でその怖い顔のままで、コロの歯磨きのいろいろが付着して湿ったその唇を、服の袖でぐいっと乱暴にぬぐった。

 未来は勢いよく立ち上がる。コロを見下す。コロが床で、未来が立ってて、それはいつもの距離感のはずで――でもコロにとってその距離感はいますごくおそろしいものに、感じた。

 未来はそのままバタバタとひとりで二階に行ってしまった。しかもバチンと電気も消されてしまった。未来の足音はすぐに遠ざかり、そして、消える。

 コロは真っ暗な居間に取り残された。

(……え?)

 ぱちくり。……ぱち、くり。

 コロは、ほんとうに、わけがわからなかった。

 そもそも――自分をテーブルの脚につないでいるリードを外してもらって、人間が曳いてくれないかぎり、コロは二階に上がることさえできないというのに。

 コロは、そっと、自分の両頬をグローブの両手越しにさわってみた。……そういう行為は人間らしいから禁止をされているはずだが、コロの混乱は、命令をも上回っていた。それは自身が犬だと思っている少女にとって――むろん、異常事態であった。

「……えっ。……えっ?」

 しかし、グローブ越しだったから――少女は、その頬の温度を、自分でたしかめることが、できなかった。




「……なんですか、これは。電気を消してしまって。未来さま。そこにいらっしゃるのですか? コロの歯磨きが終わったなら未来さまも自分の――」

 飯野は呆れた声で言いながら、パチンと電気をつけた。

 そこには――コロがひとり、呆然として座っていた。未来の姿はない。コロのリードは、ダイニングテーブルの脚につながれたままだ。

「……はあ。なんですか、コロ。なにかあなた主人を怒らせましたか」

「……たぶん……」

 コロは心ここにあらずで答えた。たぶん――コロが人間の問いかけに対してそうやって曖昧に雑に返すことは、どちらかと言えば、珍しいことだった。そしてそれが未来にかんする問いかけであるのだから、それはもうよっぽどのことだった。

 なにがあったのだろう、と飯野はもちろんすぐに察する。

 飯野はわざとらしくため息をつきながら、居間のドアを閉めた。

「コロ。……人間らしい座り方ですよ、それは。犬らしくしなさい」

「……きゃう」

 飯野はいちおう注意しておく。コロはまたしても心ここにあらずで返事をすると、それでもどうにか慣れの成果でぺたりと犬のように伏せた。

 伏せた格好で、肉球のグローブにつながる両腕の上にあごを乗せるところは、まったくもっていつも通りの伏せの姿勢。犬らしい格好。ちゃんと犬耳もそこに装着してある。にもかかわらず――その表情のせいで、犬として飼われているこの人間はどこまでもただの少女に見えた。

 頬をわずか、桜色に染めて。潤んだ瞳が、一見不機嫌と見紛うほどに、細められてあさっての方向に向いている。口もとを腕で隠すのはいつも通りのことだったが、……ふだんのそれが犬らしい伏せを真似した上手な伏せであるのに対して、いまの少女は、……思い悩むごくふつうの女の子の表情を、していた。

 飯野には、それが、わかった。

(なにか――ありましたね)

 だから飯野は、あえて犬にそうするように語りかけるのだ。椅子に座り、いかにもただ残ってる書類作業を片づけに来たからついでに、とでもいったていで。

「歯磨きは、未来さまにちゃんとしてもらったのですか」

「……うん。してもらいました」

「じゃあ、なぜ、あなたの主人はあなたを置いていってしまったのですか」

 ふだんのコロなら過剰反応する台詞だった――コロは、捨てられること置いてかれることに、過敏だ。そのように育てられたからだ。

 しかしコロの反応は、思いのほかゆっくりとした速度のものだった。

「……なんで、なのでしょうか、……わたしはいま置いていかれたのでしょうか……」

「あなたが怒らせたわけではなく?」

「……たぶん……」

「――犬の立場で主人が悪いとでも申しますか?」

 そこでコロはふっと正気を取り戻したようだった――犬としての、正気。

「……わう。ううん。コロが、いけないのです。そうですよね、――コロがいけないのです」

 飯野には、わかった。前半は対面上の言葉で――後半は、自分でも呑み込み切れない独語である、と。

(……まあ。この子たちがいくら強がったところで、あとで映像をチェックすればそんなものはまるわかりなのですが――)

 やれやれ、と飯野は心ここにあらずのコロに見えないところで、あくまでも書類作業に向かいながら、肩をすくめた。

(……子どもっていうのは、こんなにもあっというまに、いつのまにか、ふいうちで、……成長するものなんでしたっけね)



 天王寺未来と、天王寺公子。

 奇妙な家、奇妙な関係でも、……子どもたちはきょうもすくすくと育っている。

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奇妙に愛することしかできない 柳なつき @natsuki0710

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